5話 おうちに行ってみました。
ぶちりと、花を摘む。
その花を、籠に入れる。
摘む、入れる。摘む、入れる。もぎとる、入れる。
来る、来ない。来る、来ない。来る……来ない。
籠の中は、そろそろ花で溢れそう。
今日の勝負は、籠が一杯になるまでに、あの子が来てくれれば、勝ち。
一輪を摘んで、来ると願う。一輪もいで、来ないと嘆く。籠から花が、これ以上はもう無理ですと、こぼれ落ちた。花占いは……来ない。
「……負け、かあ」
パティは、表情の抜け落ちた虚ろな顔で、森の入口をじっと見つめる。
やがて踵を返すと、普段の踊るような足取りを忘れてしまったのか、トボトボと村へと戻っていった。
パティが駄々っ子になった翌日。
まあ、彼がまたこの村に来てくれるようなら、どうするかはその時に考えよう。そう言ってとりあえず、昨日はパティを落ち着かせることは出来た。同時に、セージ村としての対応も同様のものとなる。
言ってしまうなら、厄介事の先送り。それ以外の何物でもない。
けれど、それでも問題はないはず。シューター家の名前が上がったときは焦ってしまったが、冷静になって考えてみるなら、この対応で支障はないのだ。
だってその子、どうせもう来ないだろうし。
パティからしてみれば運命の出会いと思えたかもしれないが、お貴族様からしてみればおそらく違う。散歩の途中で戯れに、平民の子と遊んでみただけ。
旅先での、ちょっとした楽しい思い出にはなったかもしれない。けれど、それで今後ともずっと付き合いが続くなんてこと、あるはずがないのだ。
パティにとっても、時が経てばきっと同じことだろう。今は悲しくても、どうせすぐに忘れてしまうさ。
だから、ひどく落ち込んだ様子で花摘みから帰ってきていても、昼食のこの席でスプーンを口に運ぶ動きが妙に緩慢でも。これも、ほんのひと時のこと。
きっと数日もすれば、もとの元気なパティに戻ってくれる。この悲しみもきっと、この子の成長につながってくれる。
そう、両親は考えた。
確かに、それで問題ないはずだった。これで終わった話のはずだった。
ただし相手が、本当にお貴族様であるならば、だが。
「……兄さん、大変だ」
パティの両親は油断していた。ときに現実とは、物語よりも奇妙なものだというのに。
だから、隣りに住んでいる弟が、沈痛な顔をしてそれを知らせに来たとき。
「パティへ、お客様がいらしている」
幼いころに親から聞かされ、眠れぬ夜を過ごすことになった恐怖を思い出してしまったのも、きっと仕方のないことなのだろう。
なまはげが、やってきた。
食事を大慌てで片付ける。食べている暇はない。とりあえず隣の寝室へと運び込んでおいて、後でどうにかしよう。
仕方がないではないか。子供とは言えお貴族様の前で食事など出来るわけがない。それにこれでも、この部屋が村で一番上等な部屋なのだ。仮にも村長の家なのだから。自宅と比較されてこの子がどう思うかなど、とても怖くて考えられないが。
そしてどうにか、セリムに案内された男の子を迎え入れる。
パティの言うとおり、見たこともない型の、恐ろしく上等な服を着ている。間違いなく、平民の子ではない。僅かに残っていた、パティの勘違いという可能性が、これで消えた。
ただ、お付の者がいないのが気になるところ。
幼いながらも、1人で危険を排除できるだけの力量を持っているのだろうか。それとも、隠密の技量に長けた護衛がこっそりと、この家を取り囲んでいるのだろうか。どちらにせよ、恐ろしい。
言葉は通じないが、いや通じないからこそ、身振り手振りも交えて出来るだけ丁寧な対応を心がける。
おいセリム。お前、王都の学校まで行ったっていうのに、なんで帝国語が話せないんだよ。
八つ当たりされ、冷たい視線を送られるセリムが少し可哀想。
とりあえず、半端な爵位持ちにありがちな、居丈高な様子は見られない。
もしくは、相手が誰であろうと油断しない、腹の中はそう簡単には見せない。そういう習性が故のものかもしれないが。
ってっ! おいっ! パティっ!!
思わず伸ばした右手が空を切る。あろうことか愛娘は、父が止める間もなく。ぴょんと跳ねるように、体ごと飛び込むように。歓声を上げながら、彼へと抱きついてしまったのだ。娘の体が描く放物線が美しかったと、横から見ていた母は後に語る。
そしてその勢いのまま、床へと倒れ込む2人。ドスンと響く音が、その衝撃を物語っている。
終わった。なんかもう、色々と終わった。娘も、自分も、この村も。
「びっくりしたー。パティ、痛いよー」
ところが、少年に怒りの感情が浮かぶことはなかった。それどころか、どこか楽しそうにパティへと語りかけてすらいる。
なんと、心の広いことだろう。この場で斬り捨てられてもおかしくない行いだというのに、むしろ嬉しそうに笑えるなどとは。
真の貴族というものはきっと、こういうものなのだろう。
辺境伯様だって、平民相手に威張ったところなど決して見せないと言うではないか。
さすがは帝国が誇る武の重鎮、シューター家。幼いとは言えその心は、しっかりと引き継がれているのか。
それともあるいは。友達だから、か。
もしかしたら本当に、この2人は友達になったのだろうか。住む世界が違うというのに、そうなってしまったのだろうか。それは喜ばしいことではあるのだろうが、これからのことを考えると正直、胃が痛い。
なお、確かに住む世界は違う模様。
起き上がるのに手を貸したほうがいいのかどうか。そんなことをして良いものなのか。判断がつかず迷っているうちに、彼は1人で立ち上がってしまった。
そしてパティに手を差し出すと、彼女の手を取って引っ張り上げるように起き上がらせる。紳士だ。
「これ、お母さんからです。どうぞ皆様でお召し上がりくださいって言ってました」
床に転がったことに動じた様子も見せず、彼は服についたホコリをパンパンと払うと、手にしていた四角い物体を、こちらへと差し出してきた。
これは……いただけるのだろうか? 受け取っていいものなのか? 言葉が通じないということが、これほど不便なことだとは。
ところで一体、これは何なのだろう。彼が持っているのを目にしたときから、ずっと気にはなっていた。
木箱のような形をしてはいるが、開くような場所がない。表面はツヤツヤとした光沢があり、美しい模様のようなものが描かれているが、材質が全くわからない。
「パティにあげたいから、開けちゃってもいいですか? ……うーん、通じないんだよなー。英語、勉強しなくちゃ。パティに教えてもらえるかな」
彼は何やら呟き、悩むような素振りを見せると、おもむろにその箱をひっくり返す。裏面には、合わせ目のようなものが見えた。そこに指をかけると、剥がすようにして箱から取り外していく。
これは、布を巻いているのか? 贈り物はきれいな布で包む風習が、帝国にはあるのだろうか。
それにしても、このような布は初めて見る。非常に薄く、厚さが存在しないと言ってもいい程だ。それでいて意外な硬さがあるらしい。完全に取り外されたというのに、箱の形状を残したまま崩れることがない。布というよりむしろ、薄く薄く仕上げた鉄板のようにすら思える。
中から現れたのは、金属製の箱。これもまた、見事な作りだ。宝石や宝を収めるのに丁度いい、そう思える。
まさか……パティを買い取りたい、とでも言うのか? まて、流石にそんなことは了承できないぞ。
父が言葉にできない葛藤で心の中をざわつかせているうちに、ついに翔太の手が箱の蓋を開いた。
中から現れたのは……なんだ、これは? パン? 食べ物だろうとは思うが、これまた正体がわからない。
頭をひねる父だったがしかし、その横にいる王都帰りの弟には、その正体がわかっていた。
これはっ! 焼き菓子っ!!
砂糖を使った菓子など、庶民が口にすることは決してない。一生のうち、見る機会すらないのが普通。それ程に砂糖とは高級品なのだ。それが、これだけの量。
それだけではない、入れ物の精緻な加工が施された金属の箱も、それを包んでいた布のようなものも、一体どれほどの価値があるものなのか。頭のなかで、計算してみる。
王都にいたとは言っても、結局は庶民。想像でしかない部分もあるが、おそらくは……金貨での支払いが必要になるだろう。菓子の出来如何によっては、更にその数倍の値がつくことも考えられる。
こんなものを、軽く差し出してくるなよっ! 困るだろうがっ!!
これが、帝国大貴族の力、なのか。
「はい、パティ。あーん」
そんな葛藤を尻目に、というか、それに気が付きすらもせず、翔太はクッキーの一枚をつまみ上げる。
そしてそれを、パティの口の前に差し出した。
パティ、これは食べ物なのか、美味しいものなのかと訝しげな顔。それでもそうっと、とりあえず一口。
その顔が、蕩けた。頬を抑え、目尻を下がらせ、にんまりと。なんともまあ、幸せそうだ。
そして、今度は自分の手で一枚、ぱくり。さらにもう一枚。やめられない、止まらない。
その様子を眺める翔太もまた、幸せそうだ。
駄目だって、そんなにいっぺんに食べたらっ! それ高いんだからっ!
そう声を上げたくなるセリムだが、翔太の目が気になって動けない。
父は、どうすれば良いのかと固まったまま。母はどこか諦観の表情で、2人のことを見守っている。
大人と子供の感情の差が激しい。
感情が目に見えるなら、部屋の中は混沌で色付いていることだろう。
「パティ、こっちのチョコクッキーも美味しいんだよ。ほら、あーん」
でもまあ、子ども達は楽しそうです。
よきかな。