13話 初めての体験とは楽しいものです。
2つもつけられた鍵をガチャガチャと開けて、翔太が玄関の扉を開いた。
小さな手は、まだ繋がれたまま。お屋敷にお邪魔するなんてとても緊張するけど、手が温かいから安心できる。
木製のドアはどっしりと重厚感があって、とても立派だ。もちろん、どこからも隙間風なんて入ってこない。そこを見るだけでも、よくわかる。この家がいかに丁寧に、技術とお金をつぎ込まれて作られているのかが。
ごくりと、つばを一つ飲み込んだ。
今日の服は、本当だったら収穫のお祭りのときにしか着れない晴れ着。パティの持っている中では一番、豪華な服。染められてこそいないけど、真っ白でとてもきれいだ。スカートの裾には、ちょっとしたひらひらのフリルまでついている。
でも。思い切りおめかししてはきたけれど、それでも場違いなんじゃないかしら? 見すぼらしいって思われちゃったら、どうしよう?
去年からサイズ直しをしていなかったので、少しだけ合わなくなってしまった袖丈が無性に恥ずかしい。それで伸びるわけでもないのに、半ば無意識に袖口を引っ張ってしまう。
「ただいまー、パティ連れてきたよー。あ、パティ。靴はここで脱いでね。日本では、家の中で靴を履かないんだ」
すーはーすーはと、深呼吸して気持ちを落ち着けようとするパティに、翔太は時間を与えてくれない。というか、彼女の緊張に気がついていない。気配りできる素養はあるが、まだまだ経験値が足りないようだ。
そんな彼にちょっと恨みがましい視線を向けつつも、言われるままに靴を脱ぐ。一歩を踏み出すと、板張りの床の冷たさが素足に心地よかった。
そのまま手を引かれて廊下を進み、また扉を一つくぐる。広い部屋の中には、ゆったりとした革張りのソファとテーブル。なんと、テーブルはガラス製だ。よく見れば、正面にある人より大きな窓にまでガラスがはめ込まれているではないか。
ほんとうに、びっくりすることばかり。色の濁った小さなガラス瓶だって結構な貴重品だというのに。こんな大きくて透明なガラスなんて一体、どれくらいの価値があるのだろう。きっと、自分が見たことのある銀貨じゃあ、何枚あっても買えないんだろうな。
噂に聞く金貨? それとも大金貨? 存在することだけは知っている、白金貨?
うわ、もし割っちゃったらどうしよう。絶対、弁償なんて出来っこない。怖いから、あそこには近づかないようにしよう。
「いらっしゃい」
「はじめまして、パティちゃん」
ガチガチになっているパティに、ソファに座っていた人が立ち上がって、声をかけてきた。
とても背が高い、ガッチリとした男の人は多分、ショーターのお父さん。その横の、逆に小柄な女性は、お母さんね。ショーターって、お母さんに似てるんだ。笑った顔がそっくり。
2人はじいっと、自分のことを見つめている。ひいっと、喉の奥から悲鳴が漏れそうになった。
怖い。まるで、何かを見定めているみたいだ。何かっていうか、私のことを。
やっぱり、場違い? 農民の子なんか、息子の友だちに相応しくないって思われちゃったかな。
そう思われちゃうのは、仕方がないことなのかもしれないけど。それでもやっぱり、私はショーターの友だちでいたいから。だから、自分にできることをしよう。
俯きそうになる顔を上げる。一生懸命に笑顔を作る。そして、勇気を振り絞って声を出した。
「はじめまして、パティですっ! 今日は、おまねに……おまねぎ……おま……おまめ、きに……」
あー、もうっ! ニホン語ってば難しいっ!!
ああ、奥様が口元を抑えて横を向いてしまった。肩が震えているから、きっと笑われちゃったんだ。それとも怒っちゃったのかな? 『モエル』とか呟いたのが聞こえたけど、燃えているのは怒りの炎とかそういうこと?
「パティちゃんはすごいな。翔太に会ってから日本語を覚えたんだろ? それでそれだけ話せるんだ、大したもんだよ」
旦那様がそう言ってくれた。優しい声で、ほっとする。
けど、大丈夫? 貴族の人は本音は絶対に言わないっていうけど、そういうのじゃない?
「だからね。慌てないで、ゆっくり言ってごらん。お、ま、ね、き」
「……おまね、き……、おまねき、いただきましてっ! ありがとうごじゃいましゅっ!!」
言えた。言い切った。私、頑張った。
なのに、奥様の肩の震えが大きくなってる。どうしよう、消火に失敗しちゃった?
横を向いていた奥様が、大きく息をついた。溜息よね、あれ。やっぱり、がっかりされちゃったんだ。
「あなたもパティちゃんも、そんな無理して難しいこと言わなくてもいいじゃない。こんにちわとか、お邪魔しますとかでいいのよ」
と、思ったのだけど。あれ、怒ってなさそう?
こちらに向け直した顔はすごく楽しそうで、どこにも燃え盛ったような後は見つけられなかった。
パティ、大きく安堵の息を吐く。良かった。とりあえずは、もうショーターと会うなとかは言われなさそうだ。
でも、次のために練習だけはしておこう。おまねきいただきまして、ありがとうございましゅ。
「それにしても、翔太。あんた、また随分と泥んこね。膝まで擦りむいちゃって。パティちゃん迎えに行っただけで、どうしてそうなるのよ」
母からの咎めるような声。
確かに、トンネルでパティに引きずられたときの、ドロドロボロボロのままだった。このまま家の中で過ごされるのは、母としてはちょっと勘弁して欲しい。まだ建てたばかりの家なのだ、汚れに神経質になってしまうのも仕方なし。
「まず、お風呂に行って汚れ落として、着替えなさい」
ビシリと、風呂場の方を指差す母。ハリーハリーと、息子を追い立て、追い出そうとして。ふと、何かを思い立ったよう。
優しそうな笑い顔ではなく、パティを最初に見たときの見定めるような目をして。そして、彼女はこう言った。
「そうだ、良かったらパティちゃんもお風呂どう? 女の子だもんね、翔太と一緒って訳にはいかないから、おばさんと入ろっか」
どくんと、心臓が一つ高鳴った。
実は、密かに楽しみにしていた。もしかしたら入れるかなって、思ってた。
それも当然ではないか、温泉街なのだから。温泉に入ってみたいなって思ってしまうのも仕方のないことなのだ。
パティは、温かいお風呂というものを経験したことがない。
もちろん、辺境伯様の教えもあるので、毎日きちんと体を拭いてはいる。夏場であれば、川まで行って水浴びをしたり、井戸水を頭からかぶったりもする。けれど、湯を沸かすには当然、薪がいるのだ。
寒い冬に、手ぬぐいを絞る分だけ手桶にお湯を用意することならある。けれど、人が浸かれる分だけのお湯ともなると、必要な薪の量も相当なもの。それを賄うだけの余裕は、村にはない。
これはセージ村だけではなく、王国でもそれ以外の国でも、庶民においては大体が同じだ。
辺境領では、領民のために魔法具で湯を沸かす公衆浴場を用意し、庶民でも安値で入浴を楽しむことができるようになってはいる。けれど、いくら豊かな辺境領とはいえ、それがあるのは領都だけ。さらに、入浴希望者が多数いるため、利用する回数に制限がかけられてもいる。
そういう訳で人生初、もしかするなら生涯において最初で最後のお風呂かもしれない。
奥様と一緒というのが緊張するし、遠慮するべきではないかという気持ちもある。それでも、このチャンスを逃すわけにはいかないのだ、女の子としてはっ!
「よ、よろしくお願いしますっ!」
期待に頬を染めて、両手を胸の前で握りしめ、力いっぱいお願いしてみた。
その様子に、再び顔を背けて肩を震わす翔太の母。どうやら、また萌えているらしい。
やっぱり女の子っていいわねえ、と。翔太に妹をつくってあげるべきかどうか、半ば本気で検討し始める母だった。
「あ、翔太はパティちゃんの後ね。洗面所で膝だけ洗っておきなさい」
そして、翔太の扱いはこんなもの。
まあ、諦めるしかない。この家では、母が最高権力者。男の立場は低いのだ。
翔太は父と顔を見合わせて、諦観の笑みを浮かべるのだった。
母とパティの2人と交代して風呂に入り、汚れを落としてスッキリとした翔太がリビングに戻ってきた時、パティはテレビにかじりついていた。
入浴の様子?
ひねるだけでお湯が湧き出てくるシャワーに大興奮したり。
体用、顔用、髪の毛用にいくつかと、何種類もある液状の石鹸に感動したり。
優しく体と髪を洗ってもらって、うっとりしたり。
大きな浴槽にたっぷりのお湯に、思わずバシャバシャとはしゃいでしまったり。
色々と楽しそうな様子が見受けられましたが、パティのためにも克明な描写は避けたいと思います。だって、女の子だし。
それはさておき、今のパティであるが。すっかりと、見違えていた。
どこか薄汚れた感のあった肌は真っ白で。くすんだ色だとばかり思っていた金髪はつやつやに輝いて。もともとの可愛らしい顔立ちがぐんと引き立てたれ、どこぞのお嬢様のようだ。
長年の手荒れなどは、直ぐにはどうこうできないが。けれど母からハンドクリームをもらったので、やがてたおやかな手にもなるだろう。
服装も、まるきり変わっている。真っ白なブラウスに、落ち着いた黒いスカート。まるで、ピアノの演奏会にでも行くかのよう。
これは今年のお正月に、母が某所で買った福袋に入っていたもの。男の子用とか女の子向けとか書かれていなかったので、嫌な予感はしていたのだが。お正月なんだし少しくらいいいよねと、羽目を外して大失敗。物がいいだけに捨てるにはもったいなく、あげる相手も特にはおらず、ネットオークションなども面倒だしと、タンスの肥やしになっていた。
それをここぞとばかりに、パティにプレゼント。よく似合う立ち姿に目尻が下がる。次回までにいくつか服を用意しておこうとか、家計を無視して企んでいる母の気分は、完全に等身大の着せ替え人形遊び。
そして、そのパティの可愛らしさに、翔太も思わず見とれてしまった。
パティって、女の子だったんだーと、わかりきっていたことを再確認。いつもみたいに手を繋ごうとしたなら、ちょっと緊張してしまいそう。
「あ、ショーターっ! これみてっ! これすごいよっ!!」
けれど、どぎまぎする翔太にも気が付かず、パティの反応はいつもどおり。
その態度にほっとする。うん、やっぱりパティはパティだ。元気なところが一番だ。でも、どこか少しだけ、残念なような。
……あれ? 何が、残念なんだろう? よくわかんないな。まあ、いいか。
沸き起こりかけた疑問を横に放り投げて、翔太はパティの横へと移動。肘と肘の触れ合う距離で、一緒にテレビを見始めた。
テレビに流れているのは、とあるアニメ作品。休日のお昼前なんて、子供が見て喜ぶ番組なんてやっていないだろうからと、父が用意したDVDだ。
この図体といかつい顔をしながら、父はアニメなども嗜む。もともとは翔太も一緒に見れるようにと、子供向けのシリーズをレンタルしていたのが始まり。だが今では、特に気に入った作品なら購入してしまったりもする。
あくまでお小遣いの範囲でのやりくりなので、母からの文句も出ていない。というか、翔太が寝た後に親は親で、肩に頭をもたせかける距離で、仲良く一緒に見ていたりする。
その中から適当に選んで再生してみた。
物語が始まって、すぐに思った。失敗した、よく考えなくても女の子の好みそうな話ではなかったな、と。
だが、それは杞憂のよう。パティは1人で見ていたときも、翔太が合流してからも、手に汗を握りながら画面にかぶりついている。どうやら、とても楽しんでくれているようだ。
「絵が動いてお芝居をするなんて……すごい魔法ね」
「魔法? あ、うん。すごい魔法だねー」
画面の中では、激しい戦闘の真っ最中。魔法使いが敵へと向けて、とっておきの大魔法を放っていた。
お話の舞台は、剣と魔法の支配する世界。日本の少年がその世界へと召喚され、勇者として魔王を倒す冒険をする。そんな、王道の物語だ。
「いいなー。僕も異世界で冒険とかしてみたいなー」
「……ショーター、こんな異世界があるのなんて、お話の中だけよ」
「わかってるけどさー」
翔太は知っている。
異世界なんて、どこにも存在しないって。
パティは知っている。
異世界っていうのは、妖精の世界とか、精霊の世界とか、悪魔の世界とか、人間以外の種族が住む世界を示す言葉だっていうことを。
翔太は知らない。
自分が、とっくに異世界を堪能していただなんて。
パティは知らない。
自分が今いるこの場所こそが、異世界だなんて。
それぞれの常識が、それぞれ間違っているだなんて。
仲良く並んでアニメを見る2人には、そんなことを思う由もないのであった。
……今は、まだ。




