1話 はじまりのトンネル。
栗栖翔太少年が初めてこの街にやってきたのは、小学校2年生に上る前の春休み。
会社へと向かう人々の賑わいも過ぎ、街が落ち着きを取り戻したくらいの時間のことだった。
ターミナル駅から急行と各駅停車を乗り継いでおよそ1時間。畑ばかりが広がる娯楽施設に乏しい町並みだけれど、緑だけは多い。そんな街。
とはいえコンビニなんかは普通にあるし、駅前にはスーパーマーケットも何軒か建っている。逆に郊外方面へと向かえば大型のホームセンターだってある。なかなかに暮らしやすい土地といっていいだろう。また、実際に過ごしやすく、彼はこの街のことがすぐに好きになった。
そんな町並みを歩くこと、駅から20分ばかり。
この場所に、両親が念願のマイホームを手に入れたのだ。親子3人で暮らすに十分な広さを持った、新築の庭付き一戸建て。
身長190cm超えの体格を誇る父さんが長いこと夢見てきた、足を伸ばして入れるサイズの特注品のバスタブを備えた、広い風呂場まで完備されている。
父さん、頑張った。超頑張った。お約束の30年ローンを抱えてしまったので、是非これからも頑張って欲しい。
ちなみに、前に住んでいた賃貸マンションからは随分と離れた場所になる。なので、翔太は転校することになってしまった。
せっかく1年間かけて仲良くなった友達と離れ離れになってしまうのは悲しかったけど、門の前で涙ぐみながらウンウンと頷いている大黒柱の姿を見ていると、文句を言う気持ちもなくなってくるというもの。
とりあえず、真似をして隣でウンウンやってみる。二人並んで腕を組みながら家を眺めていると、どうだろう。なんだか、すごくワクワクしてきた。そっかぁ、今日からここが僕達の家なんだと、ドキドキしてきた。
まあ、すぐに「引越し屋さんの邪魔になるでしょ」と、母さんにどかされてしまったけど。父さんは別の意味でまた涙目になっていたので、あとで慰めてあげようと思ったものだ。
そんなこんなで、引越し屋さんの大型トラックから荷物が運び込まれて、ダンボールの開封作業が始まったのだけれど。何ということだろう、翔太少年の仕事は特にないらしい。
完璧主義なところのある母さんは、家具の配置とかその他もろもろとか、誰からも口指しされずに納得の行くまで悩みたかった様子。
故に、せっかく手伝おうと思っていた少年の決意は、やんわりとした表現ながらもはっきりと邪魔だと言われてしまったことで、行き場を失ってしまった。
結構、酷い扱いだと思う。そこは怒ってもいいところだ、少年。
邪魔者仲間として父さんとでも遊ぼうかと思ったが、父には力仕事要員としての仕事が言いつけられた。命を受けたその顔には、ふふんと得意げな笑みが浮かんでいる。まったくもって大人気ない。
少年は決意した。慰めてあげるのは、やっぱりなしにしようと。
しかし困った。家の中に居場所がなくなってしまった。
なので、ご近所の探検に出かけてみようと企んでみる。
「母さん、ちょっと遊びに行ってきてもいい?」
「お昼までには帰ってくるのよ。あと、初めての場所なんだから、迷子にならないように気をつけてね」
翔太少年は、年の割に随分としっかりしているところがある。大人びているとも言えるし、まあ、こまっしゃくれているともいう。
そんな子供だったので、両親も彼が一人で出歩くことを、保育園時代から許可していた。もちろん、徒歩で行ける範囲に限定ではあるのだが。
とはいえ、全く放任しているということでもない。万が一のことを考えて、緊急連絡用にキッズ携帯は持たされている。登録先が父さん、母さん、爺ちゃん、婆ちゃんの4つしかない上、如才ない翔太がトラブルに巻き込まれるようなこともこれまでなかった為、時計代わりにしか使われていないが。
そういう下敷きがあった為、彼の申し出はあっさり許可されたのだ。だが、今の母さんの様子を見ていると、果たして信用しているからなのか、それともダンボールからお気に入りのお皿を取り出す作業に夢中で他に気が回っていないだけなのか。判断のつけづらいのが残念なところだ。
「家の前の道をしばらく真っ直ぐ行ったところに、大きめの公園があるんだ。行ってみたらどうだ?」
裏切り者の父さんが、そう言ってくる。
そこは公園といっても、滑り台のあるような児童公園ではない。体育館とかテニスコート、図書館といった公共の施設が集まり、散歩道まで整備された大人向けの公園だ。7歳の子供に向いていると言い難いが、翔太ならきっと気にいるだろう。
父さんが家の下見に来たときに見つけた場所で、そのうち我が子と一緒に行こうと思っていたのだが。
「じゃ、そこ行ってみるね」
「あ、水筒は持っていけな。熱中症になるほどは暑くないと思うけど、一応な」
どうやら、子供と散歩よりも妻の命令のほうが優先度が高いらしい。一応は心配してるっぽい言葉をかけられた後、にこやかに送り出された。
父さんは母さんのことが好きすぎるので、二人きりになれるチャンスがあると、とても機嫌が良くなる。子供の立場からすると少し寂しいけど、そんな父さんも可愛いから、これはこれで別にいいんじゃないかなと、翔太は寛大な心で父を許した。
あっ、今日の荷解きは別にして、普段の彼がそう邪険に扱われてる訳じゃないから安心してほしい。それに、父さんはいつも朝早くから夜遅くまで家族のために働いてくれているんだから、少しくらいサービスしてあげないと。
何せ、僕はもうすぐ小学2年生。もう1年生の子供とは違うのだから。そう、頷いてみる翔太だった。
目的地の公園までは、子供の足で20分位かかるとのこと。のんびりと、これから住む街を眺めながらの散歩には丁度いい。
といっても、目に入るのは大体、誰かの家と畑ばかり。今ひとつ変化に乏しい。それでも、この葉っぱは何の野菜だろうととか、考えながら歩くのは中々に楽しかった。
あれは菜の花。これはニラ。それは多分、アスパラガス。そんでもって……何だ、これ?
何か、緑のドリルがいっぱい付いたような変な野菜が生えていた。マジマジと見つめてしまう。これ、食べられるの? 謎だ。
そうして歩いているうちに、見える景色に変化があった。道の右側がいつの間にか畑ではなく、ちょっとした林と言おうか、そんな木のたくさん植えられている風景に変わっていたのだ。
一番外側には大人の背より少し高いくらいの、びっしりと葉っぱの生えた小さな木。いわゆる、生け垣だ。そのせいで中にはいってみることはできない。そしてその奥は、普通の大きな木が生えている。
目につく範囲、特に入り口のようなものはない。道に沿って先の方まで、ずっと木が続いていた。
ここが目的地の公園なのかなとも思ったが、まだまだ20分も歩いていない。のんびりといろいろ眺めながら歩いていたから、実際にはもっと短い距離しか進んでいないはず。
じゃあ、ここ、何だろう?
その木の向こう側、奥の方。じっと、葉っぱの隙間から覗いてみる。緑に隠れてよくわからないが、何やらフェンスのようなものが見えるような。
どうやら、何かの広い敷地の周りに木を植えて、目隠しにしているようだ。生け垣といってしまうには随分と念入りなようではあるが。
一体、何の施設なんだろう。敷地の周りを林に沿ってぐるっと一周してみたら、きっと何処かに入口があるはずだよね。ちょっと行ってみようかな。
そう考えて再び歩き始めたときだ。彼は気がついてしまった。
ちょっと行った先の、一番外側の生け垣部分。その、下の方。ポッカリと一箇所、子供だったら少し屈めばくぐれるくらいの隙間が開いていたのだ。
秘密の抜け穴。何という、子供心をくすぐるフレーズなのだろう。
キョロキョロと、周りを確認。
現在、歩いている人影はなし。車も、たまに通る程度。今は見える範囲に走っていないし、音も聞こえてこない。
ちゃ~んす。
逸る心を押さえ込むと、そうっと中を覗いてみた。
「おおおおっ」
はっきり言って、期待以上。冒険という言葉が、心に浮かんでくる。
そこにあったのは、トンネル。生垣の木や、背の高い草、他にもいろんな植物が壁や天井になって、ずっと先まで続く緑の通路になってたのだ。
まるで、前にテレビで見たクマみたいなあいつの、住んでる場所まで続いている道みたい。あの変な生き物は、まだ日本にいるのです。たぶん。
「すっごいなー、これ」
翔太だって男の子だ。こんなのを見たなら、見てしまったのなら。ワクワクが止まらない、止められる訳がない。かつて少年少女だった皆様なら、それもわかってもらえると思う。
もう一度、周りを確認。
うん、やっぱり誰もいない。今なら、誰にも見つからない。何も、フェンスの中まで入ろうってわけじゃない。大丈夫、立入禁止とか書かれてないし、きっとこのトンネルまではセーフ。
そう、自分に言い聞かせると。
翔太は自分の心臓がドキドキ鳴り響く音を聞きながら、腰をかがめて、緑のトンネルをくぐった。
そして、この道の続く先。
彼は、彼女と出会ったのだ。
ずっと後になってから、この時のことを思い出したとき、翔太は思ったものだ。
よく、運命の出会いなんて言う言葉が使われるけど。きっと、この時の出会いこそが、それに違いなかったんだ。って。