『おかしい』のはどっち?
「…………くわぁっ!!」
ばしゃっ、という音がしたと思えば、視界に掛かったもやが晴れ、意識と記憶が急速に鮮明になってくる。顔がびちょびちょに濡れているのは、水をぶっかけてもらったらしい。
──何で俺意識失ったんだっけ。確か、そうだ。あの殺戮技巧もかくやという料理を口にして、床を芋虫のようにはい回り、悶絶し、その後気絶したのだった。思い返しただけで冷や汗が出る。
本当に危なかった。俺が気絶していた間、随分とひどい夢を見ていた気がする。霧に包まれた彼岸に立っている誰かを幻視した時は、今度こそ死んだと覚悟した位だ。
これまでこの未来で何回か死にかけたが、今回はまさかマズイ料理で三途の川送りにされるとは、流石に予想できるわけがなかった。
「よかった、何とか生きて帰ってきたみてぇだな」
目線だけ動かすと、胸を撫で下ろした様子の奥村さんがいた。肩を貸そうか、問う店主に「大丈夫」と言って、まだ重怠さが残る頭を振り、上体を起こす。
「………その、えっと」
顔を上げると、今度はなにやら微妙な表情の獅子王さんが目につく。言葉を言い淀む様を見るに、とんでもなくまずい料理を食ったリアクションが相当利いたのか?
「や、俺は大丈夫。ちょっとビックリしただけで────」
「────は、どう、でしょうか?」
「………はい?」
うん。聞き間違えかな? 変だな、俺が間違えてなければ、かなり頓珍漢なことを耳にしているぞ? まだ五感の復旧が完全じゃないのかな。念のため聞き直してみよう。
「ごめんなさい、何て言ったか、もう一度お願いできます?」
「え、お味は、どうでしたか、とお聞きになったのですが?」
────どういう、ことだ。ちらりと奥村さんのほうを向いてみるが、その顔はどう見ても「何を言っているんだこいつは」という思いが滲み出ている。
そりゃそうだ。カウンターに置かれた皿を見れば、あれは夢なんかではない。皿に盛られた料理…カレーらしき何か…はどう取り繕っても、悶え苦しむ程まずかった。
同じく見ていた奥村さんは、その顔面が蒼白になるくらいの惨劇が巻き起こっていたのは確かなのだ。それなのに、その質問が飛んでくるのはどういうことだ。
「いやいや、どう見ても分かるだろう。お宅、目ん玉おかしいんじゃないかぃ?」
「……? オーナー、何をおっしゃって? アレはあまりの味に歓喜して、一瞬芋虫に退化するほど感激したに決まっているでしょう?」
「いや、苦しんだ挙げ句気を失ったぞ?」
「気を失うほど、私の技巧に感服していたでしょう? 貴女、いったい全体何を見ていたので?」
いやいやいや、それはおかしい。というかこっちの台詞だ。あそこまで酷いシロモノを生成しておいてこっちが喜んでいたと、曇りなき眼で言い放っている。
「お宅、マジで言ってるのか?」
「マジもマジ。大マジですわ? それがなにか?」
自分の考えが一ミリも間違っていない。そういった顔だ。その顔が、どこか恐ろしかった。奥村店主はカウンターに放置された件の料理の皿を突き出す。
「おまえ、だったらこいつを食ってみな」
「ええ。よろしくてよ」
皿を受け取り、盛られたカレをを一口。先程までの惨劇を思い出して身構えてしまう。しかし、口にした獅子王さんは俺とは全く異なる反応を見せる。
「うん、美味しいですわ。完璧」
「………はぁ? 本気かい?」
「ええ。ちゃーんと、味見はしましたし。失敗する可能性がありませんことよ?」
まさかそんなこと、そう思い奥村さんはルー部分を一嘗めすると、当然のごとく苦悶の表情で崩れ落ちる。
「───ごふっ!! うっぁ……ん! ごはっ!」
「っつ! 大丈夫ですか!?」
悶える奥村さんの背中をさすり、気休め程度ながらの助けをする。額に汗びっしょりで瞳孔開いてる様は、どうみても舌鼓を打っている様子ではない。
「まあ、いったいどうしたことでしょう? オーナーったら、そんなにお味が衝撃的で?」
───確かに、衝撃的ではある。悪い意味で。呑気なもんである。どうしたってまずいって分かるはずだろうに。
リバースしてしまった俺と異なり、その劇物に等しいルーを呑み込み、カウンターにもたれ掛かりながら優しく語りかけてくる。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……。もう大丈夫だ。心配いらねぇ」
むせ返りつつもなんとか復活すると、今度は料理と作った獅子王さんを交互に観察して、ひとつの結論を見出だしたような素振りを見せる。
「ごほっ、そういうことかい。トーシロなだけでなく、ブッ飛んだ味覚だった、ってオチねぇ。しかも、自分の基準が正確だ、標準だと信じて憚らない、ってオマケ付きときた」
「はぁ、何が言いたいので、オーナー?」
小首を傾げ問う獅子王さんに、深く深呼吸をして、言の葉を一つ、抜き放つ。
「お宅、このカレー、どういう気持ちで作った?」
「?? 知れたこと。そちらの庶民、亀に喜んでもらおうと────」
「相手のためを思って、作った?」
「ええ。私が好いと思うモノは、彼が咽び喜ぶ。当然でしょう?」
一転の迷いもない、その答えを聞いたとたん、奥村店主はタバコを一服。そして煙を勢いよく吐いてから、俺へと目配せをする。
答えを言え、ということのようだ。あれだけ醜態晒した手前、今さら取り繕う必要もない。俺からの答えを今か今かと待ちわびる獅子王さんへ、素直に感想を述べる。
「まずい」
「そう! やっぱりまず………へっ?」
……本当はこう言ってはいけないのだろうが、あえて形容する。獅子王さんの顔は、酷いバカ面を晒していた。
彼女の心境を例えるならば、正解率99%の問題を外したかのような、全く予想だにしない返事に対して激しく狼狽している。
「何、を、おっしゃって?」
「もう一度言うよ。まずい。地上にこれ以上まずいモノは存在しないんじゃないかって思うくらいには、まずい。」
感想を述べつつ、微かにだが身構える。彼女は激情型の性格、それもかなりのものだ。一度殺されかけた経験から、反射的に一歩足が後ろに下がる。
唾を呑み込み、反応を待つ。すると彼女は指を顎に添えて、意外な返答が飛んできた。
「……うーん、この味付けは高貴過ぎて庶民には合いませんでしたか?」
────何を言っているんだ、彼女は? 理解が追い付かない。いや、理解の埒外のように思えてきた。今度は俺のほうが、唯唯呆気に取られるばかりだった。




