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遠い、彼ら

作者: 立野絢

 人口一万五千人足らずの小さな町に、これまた小さな、シルバニアファミリーのおもちゃのようなおうちに住んでいる斉藤さん一家は、平凡だけど幸せそうな三人家族です。


 

 ご主人の伸一さんは週休二日制の会社で働いていて、土日は家にいることが多いです。

 休みの日には好きなゴルフに出かけることもありますが、大抵は奥さんと娘さんと三人で、いろいろなところに遊びに出かけます。春には桜を見に行ったり、夏には海水浴に出かけたり、紅葉狩りをしたり、みんなで雪だるまを作ったりします。

 土日こそお昼近くまで寝ていることもしばしばですが、仕事の日は奥さんに起こしてもらうこともなく、朝七時ちょうどに布団から出て、朝ごはんの湯気が立ち上るお茶碗がいくつも置かれた食卓に腰を下ろします。おうちを出るときに、奥さんのほっぺたにキスをすることを日課にしているようです。

 五時に仕事が終われば真っ先に帰ってきて、奥さんの夕食の支度を手伝ったり、娘さんの宿題を見てあげたりします。

 伸一さんはたまにお酒を飲んだときに、「おれはしぬまでひらなんだー」などと哀しげな声で話すことがありますが、「ひら」ってどういう意味なのか僕は知りません。でも、伸一さんがそんな哀しい声を出した後は必ず、すぐに奥さんがそばにやってきます。伸一さんの背中を優しく撫でながら、彼の手にしている空になったコップに、新たなお酒を注ぐのです。


 奥さんの克子さんは、ご主人と結婚してから十五年間ずっと専業主婦で、家庭を守り続けています。

 毎日家族の為に作り続ける食事は、野菜は有機野菜で、肉は国内産しか使いません。家族の好みに沿った料理を毎日考えて、作り続けています。

 旦那さんの仕事の愚痴を手放しで受け入れ、肯定し、娘さんの学校での悩み事には精神をすり減らすほど解決策を考え、導きます。

 旦那さんが仕事へ、娘さんが学校へ行った自分一人の時間は、町主催の無料の裁縫教室で家族が着る服の作り方を学んだり、料理教室に通って家族に出す料理のレパートリーを増やそうと頑張っています。

 月に一、二度あるかないかの、旦那さんとの性の営みの場面では、ほぼ全て旦那さんの要求を受け入れるようにしているみたいです。

 夜遅く、僕が茶の間でうとうとしていると、たまに隣接する部屋から聞きなれない声が聞こえてくることがあります。僕がそれを耳にした時まず感じるのは、克子さんのそういう意志なんです。


 一人娘の小学六年生の郁美ちゃんは、クラス委員を務めるほどの優秀な女の子で、テストの点数はいつも八十点を下回ったことはないみたいです。

 おうちの中ではお母さんのお手伝いをしたり、お母さんのしている、お腹を引っ込める効果のあるというエクササイズを一緒になってします。

 お父さんの口癖みたいになっている「かたこったー」という声を聞きつけては、おぼつかない手つきでお父さんの肩を揉んだり、白髪を抜いてあげたりします。

 趣味はシール集めで、お母さんにはまな板と包丁の、お父さんにはゴルフクラブとボールがセットになったシールを、手の甲に貼ってあげているところを目にしました。その時の三人は、誰の目から見ても温かく、幸せな家族三人に見えました。



 しかし僕がこの三人に心を開けないでいるのには、理由があります。

 僕は彼らの行動を一部始終見ているのです。

 伸一さんと克子さんが各々、緑色の字体が中心の書類の、自分の記載するべきところを埋め、自分の部屋の引き出しの中にこそこそと隠しているところ。僕でも多少気づいています。夫婦が離れ離れになるための紙ですよね?その書類はテレビのドラマで見たことがあるので、どういう意味をもっているのかは、なんとなくわかっていたのです。

 

 郁美ちゃんは学校で使うはさみかなんかを探して、家中の引き出しを開けたり閉じたりしているときに、それに気づいたのでしょう。

 最初はお父さんが書いたそれでした。

 それを目にした郁美ちゃんの横顔は、驚きのあまり瞬きさえも忘れたかのように、しばらく僅かな動きも見せませんでした。僕はその気持ちが痛いほどわかりました。

 しかし、お母さんが書いた同じものをまた見つけてしまった郁美ちゃんの表情を見たとき、僕は何か得体のしれない恐怖のようなものを感じて、足がすくんでしまいました。

 郁美ちゃんはそのとき、左側の唇の端をほんの少しだけ上に持ち上げたのです。

 


 僕は、斉藤一家に五年ほどお世話になっている、ミニチュアダックスフンドという種類の犬です。

 お父さんもお母さんも郁美ちゃんも、僕のことをとても可愛がってくれます。

 桜を見に行くときも、海へ泳ぎに行くときも、葉が赤く色づいた木々が溢れる近くの山へ行くときも、子供向けの広場へ雪だるまを作りに出かけるときも、いつでも僕を連れて行ってくれました。僕を抱っこしてくれるのはいつでも、優しい郁美ちゃんの両手でした。

 ご飯だって、ドラッグストアで買えばすぐに与えられるようなドッグフードではありませんでした。克子さんが、犬の健康を考えた、それでいて犬の味覚でも美味しく食べられるご飯を毎日、手作りしてくれました。

 普段の散歩とブラッシングは全て伸一さんがしてくれました。ブラッシングをしながら伸一さんは、僕に話しかけてくれました。「犬っていう職業も、大変だな」とかって。僕にはその意味を理解するのには難しすぎましたが、伸一さんの優しい気持ちだけは十分すぎるほど伝わってきました。

 僕は斉藤さん一家の犬になって、本当に幸せでした。それは偽りない気持ちです。



 人間の世界は、犬の世界のように単純ではなさそうですね。

 今僕は、ほんの少し怯えています。

 僕もいつか突然、車がびゅんびゅん行き交う道路の真ん中に、誰の声も聞こえない、でも怖い物音が際立って聞こえてくるような森の中に、一人ぽつんと捨てられるのではないかという恐怖に。

 僕の目から見たらあなたたちの世界は不思議で、独特で、理解不能なのですから。

 

 

 真夜中目が覚めると、いつも同じことが胸の奥に浮かんで、消えていきます。

 生きとし生ける全てのものたち、とは言いません、斉藤さん一家が、幸せになれますように。


(了)


最後まで読んでいただき、本当にありがとうございましたm(_ _)m

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