第前章
世界の北端に位置するこの地域には、暗雲とした空を貫くようにそびえ立つ巨大な塔があった。名前はない。この塔を知る生物はそんなことを気にするようなものはいなかった。しかし、その姿を原初から知るある白竜は、この塔をこう呼んだ。『子宮』と。
それ故に、この塔をここでは『子宮』と呼ばせてもらうが――この『子宮』は、外側から見れば、途方もなく巨大で堆く石が積まれてできた塔――というように、大きい以外には特に言うことはない、ぱっとしないの建造物だ。しかし、この塔は内部にこそその骨頂がある。
塔の内部は、フロア一層ごとに異なる環境を置かれているのだ。
ある一層はひたすらに森林であり、その光景が地平線のように広大に観ることができるステージであり、中にはまるで火山の内部にいるような溶岩地帯が延々と広がっているようなステージのところもある。
外から把握できる内部の大きさよりも、遥かに広い空間をその内部は持つ。それと同様に、ステージの多さ、つまりは階層の多さ、それと比例するであろう塔の高さにも、同じような不可解な出来事が起こっていた。天空を貫くような塔の高さを遥かに超えるであろう程に、内部の階層の数は多く存在したのだ。
その階層の一つ。大して特出するべくでもないそこに、ある、名も無き龍がいた。その龍は紛れもなく龍である。龍とは生まれながらにして多大なる力を持ち、この世界で最強各に含まれよう種族である。それこそ、人間の暮らす国では大災害とも区別が付いていない程に。
つまり、この名も無き龍は強かった。
だがこの龍は本能から来る自信により、自分を強いと自覚こそしていも、自分だけが強いとはどうしても思えなかった。
この龍があたりを見回せば、自分と同格の力を持つ龍が幾多も見つかる。
そう、この塔では、その程度の力、一般的なものなのである。
この塔から抜け出すことは容易だ。この塔は、上の層へ上るのは困難に造られていても、下の階へ降りることや塔から身を退くことは容易に造られていた。
だが、それを理解しても名も無き龍はそれをすることはしなかったし、するつもりはなかった。
なぜならば、この塔の頂を目指すことが、ただ一つの自分の宿願であるからだ。思えば、生まれた時からそうであった。名も無き龍はこの塔の中で生まれた。そこは最下層であった。
平穏で心の安らぐ草原と澄み切った青空。そして、小鳥の囀りが聞こえるような心地のいいところだった。唯一目を見張るところがあるとするなら、中央に堆く積まれた、白骨化した同胞の亡骸だけであろうか。
この時既に一つの知性がこの龍にはあり、その姿は生体だった。
記憶は真っ新で、知性すらあるもののこの青い芝生と濁りのない空以外に何も知らなかった。塔の仕組みを除いては。
名も無き龍は、自分に名を付けるという観念すら知りもしないが、この塔のことはよく知っていた。
この塔の最上階を目指さなくてはならない。強くならなくてはならない。自分がこの塔を制覇し、その最深部で待ち受ける最強の白竜である母に、取って代わらなくてはならないと。
それは、生まれながらにして持っていた我欲。向上心であった。いな、そのような聞き心地のいいものではない。それは欲求のようなどろどろとした、どうしようもない想いであった。
それ以来この名も無き龍はこの塔の最上階を目指している。もう幾許過ぎたのかもわからない。けれど、自分がまだこの塔の半分さえ攻略できていないことを直感で理解していた。
しかし、名も無き龍は諦めることを考えなかった。当然だ、それ以外になにもないのだから。しかし、その思いは誰だって、他の同胞も同じだった。
この塔は過酷だった。
その環境に負けて、この塔の最下層に落ちてしまったものも多い。その結果があの亡骸の山なのだろう。そして、それでもなお生き永らえた龍は、この長い道のりを最初からやりきることが出来るのか。それは、名も無き龍にはわからないことだった。
して、その結果があの外を跋扈する龍なのだろう。
龍は、飛行能力を持っている。そんな生き物が内部からの過酷な環境に鎮座させられ、一層一層を超えるのも容易に見える外側の塔を見たとき、何をするのかは知命の理だ。
もっとも、塔に施された仕組み(半ば根源的な、概念に近いもの)により、そう簡単には行かないのだが。
その結果か、一度墜ちたであろう龍たちは塔を旋廻するように周り、上昇は少しずつしかしていなかった。
名も無き龍は、時折内部から目視できる外の様子を見て、それでもそちらの方が楽そうだと考えた。しかし、何故だかそうはしなかった。
そして今、名も無き龍は同胞の一人に打ち取られ、両の翼を一度羽ばたく力すら失い、崩れた地面に飲み込まれてゆくところだった。
そのときですらこの龍は、内に秘めるたった一つの欲望を心の中で叫び続けていた。
『強くなりたい』
『頂へ上りたい』
『一番になりたい』
『強くなりたい』
『頂へ、強く、偉大なる父へ。母へ』
名も無き龍のその渇望は、この『子宮』の中にいる龍の中ではいたって当然のものであり、今まで幾多もの龍がその願いを思ってきた。
しかし未だにその願いが成就したことは一度としてなかった。
それがまさか、純粋な龍でもない人間がその願いを叶えるとは思いもしなかった。
幾多もの龍が達成できず朽ち果て、それこそ亡骸の山が出来るほどの時間――それが、未達成であり続けたその願いの困難さそのものだというのに。