もののけ草紙
人の業にて、禍風はやってくる。
光で溢れ音で溢れた現代にも、逢魔時はやってくる。
物陰に潜み草陰で笑い、ひたひたと付けて来る。振り返れど、長く伸びた己の影以外には誰もおらず。首を傾げてまた歩み出せば頭の上から忍び笑い。
「莫迦だね」
「莫迦だね」
「気付かないなんて、莫迦だね」
見上げた電線には茜色の黄昏にも染まらぬ烏だけ。
人の業にて、ソレはやってくる。
そこにいると信ずれば、ほら。
暖かき闇が凶を祓い、はらはらと呑気な笑みをたたえて貴方を護る。
「ほんに世話の焼ける御子じゃのう」
「誰が来てくれっつったよ!」
「婆が迎えに行ってほしいと」
「ばーちゃんかよ。俺は幼稚園児じゃない! 高校生だ!」
「おうおう、負け犬がよう吠えよる」
「──由良。今夜いなり寿司抜き」
「えええ。それはちと狭量というものではあるまいかえ? 拙は悪うないであろ」
たぶん。
= もののけ草紙 =
眠い眠い日本史の授業。
教卓に陣取っている教師は時折資料集のページを指定するだけで、ほとんど教科書を追って補足しているだけだ。
それにまだ桜も残っている学期始めだから、大した内容が語られているわけでもない。今時小学校低学年でも知っている卑弥呼の時代を抜け、それでもしつこくアニミズムがつきまとう、そんな時代の話が延々と続いている。
衣食住を確保した人間が次に欲したのは富と地位だった、なんて憧れもロマンもありゃしないし、そのために神様仏様とくれば、自然真面目に授業を受ける気だってなくなるというものだ。
そう理屈をこね、吉野柾紀(17)は学生服のポケットから小さな水晶玉を取り出した。もちろん教師に見つからないように、前の人間の背の影にそれを隠しながら、ことりと机の上に置く。
見れば見るほど不思議な水晶玉だった。
大きさはテニスボールくらい。
透き通って向こうが見えるわけではなく、石の中には桜色をした薄い雲──霞といった方が正しいのだろうか、そんなもやもやがたなびいている。
その桜色も一定ではなくて、まるで刻々と変わる夕暮れ時の空のように、その色合いを変えてゆく。紅梅の色からほとんど淡雪に近い白まで、ゆっくりと美しいグラデーションを描いて気ままに変わってゆくのだ。
(桃源郷ってこんな空なんだろうか)
ぼんやりとそんなことを思う。
(落とした人、困ってるかな)
ふと、後ろめたい気もした。
この水晶玉は、今朝、登校途中人とぶつかった時に相手が落としたものだった。相手は帽子に黒皮ジャケットという男だったが、何やら凄まじく慌てているようで、柾紀が謝るヒマもなく転がるように角を曲がって消えてしまったのだ。
で、その場にころんと残されていたのがこの水晶玉。
本当はすぐ警察に届ければよかったのだろうけど、拾って見つめたそれがあまりにも綺麗で、女の子じゃあるまいし──と自分でも思いつつ今に至る。
が、この水晶玉を拾ってから変なのだ。
今もまた。
なんだか古典の教科書の挿絵に出てきそうなかんじの、強いて言うなら地獄の餓鬼という奴に似た小さいのがいくつも、教師の肩に登っていた。
すると教師がしかめ面をしてコキコキと肩を鳴らし腕をまわす。小鬼はぱらぱらと床に落ちて霧散した。
(…………)
今月すでに四日の病欠を数えている蒼白い顔のクラスメイトの首には、柾紀の腕ほどもある大蛇が巻きついていた。教室に入ってそれを見た時は叫びそうになったが、本人もまわりも全く感知していない様子から、実物ではないのだと悟った。
(我ながら順応性が高い)
他にも変なのはたくさんいる。細い蛇にも見える何だか分からない羽の生えた生き物たちは、時々ぼぉぉっと不思議な炎を吐きながら蛍光灯のまわりを飛んでいるし、僧服を着たぎょろ目のひき蛙っぽいのは教師の頭上、時計の上でエラソーに学生たちを見下ろしている。その目が左右別々の方向に動くので不気味だ。
小鬼は教師だけでなく、寝ぼけまなこでノートにいびつな曲線を描いている学生たちの背も登っていた。
(ここは学校だよな? 起きてるつもりだったけど、もしかして僕は今爆睡してるのか? もしかしてどこかで事故にあって今昏睡状態だったりして。……ヤバイ。それだったらヤバイ。こんなくだらない授業聞いている場合じゃない。入院してる病院探して早く身体に戻らなきゃ。っていうか僕もう死んでて、“死んでることに気付いてない幽霊”だったらどうするよー!)
柾紀は昨日、母に付き合って吾郎さんの番組を見てしまった。いい話も悪い話も、幽霊の話がわんさか出てくるコワイ番組である。
(誰か僕の魂を導きに来てくれよー! っつっても、じーちゃんばーちゃん健在だしな。その上の代の人たちの顔なんて知らない……)
「それでは、ここまでにします。次はもっと進める予定ですから」
教師が言うのと同時、終業のチャイムが鳴った。
途端に教室がざわめき、厳粛な学び舎はノートを閉じる音や椅子をひく音、ばさばさと教科書を重ねるでいっぱいになる。
「吉野ー。ノートとった?」
眼鏡のあとがくっきり頬についている柳が振り返ってきたのを見て、心の片隅で“良かった死んでないみたいだ”とつぶやく。なにせ家を出た時から遅刻寸前だったうえに人とぶつかったので、始業と同時に滑り込みセーフ、誰とも言葉を交わさずこの授業を受けていたのだ。
「ごめん、取ってない」
柾紀は素早く水晶をカバンに滑りこませた。
「なんだよー、お前帰宅部だろー? 俺、昨日部活がものすげー長引いてさ。試験近いのにひでぇよな。だから授業睡眠時間に当てなきゃなんねぇわけよ」
だったら試験はあきらめろよと思いながら、
「ごめんごめん」
とりあえず謝る。
「上田、取ってるかな」
「うーん、どうだろ。前半はシャーペン動いてた気がするけど」
本当は、上田がどんな風に授業を受けていたかなんて知らない。けれど、柳にとってはそんなことどうだっていいのだ。肯定の返事さえもらえれば、それでいい。柳だってそのことくらい分かっているはずだ。見えすぎるというのは、いささか味気ないものだけど。
「そっか。サンキュー吉野」
彼はそう言い残して席を立った。
「おい、上田ー」
柳の学ランを見送り、柾紀も次の授業へ行く準備をする。次は生物だ。校舎を越えた大移動をしなくてはならない。
「めんどーくさ……ン?」
ふと背後に視線を感じて振り返る。
しかし、視線の先には慌しく動き回る級友の姿があるだけだった。
(違う)
そこにあったのは人の目じゃない。
自分の中で誰かが言った。
いや、そう思ったのは確かに自分だし、巷でブームの“客観的な自分”というやつが吐いた台詞でもない。自分がそんなことを思うとは信じられなかったのだ。
(違う)
それは人間なんかよりももっとずっと暗くて、重くて、湿っていて──。
(あ……)
知らない間に鳥肌が立っていた。
柾紀は弾かれたように全てをカバンに詰め込むと、教室を飛び出した。
そこにはかすかな草の匂いが残っていた。
◆ ◇ ◆
翌日、朝七時の吉野家朝食。
三つ目のトカゲやら小鬼やらがわらわらと群がってくるのを手で払いのけ、柾紀はひとつ大きなため息をついた。
だるい。身体が重い。
「熱でもあるんじゃないの? 柾紀」
ご飯をよそいながら、母が顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫大丈夫」
原因は分かっている。
柾紀はみそ汁の中をのぞいている鉛筆ほどの竜モドキをキッと睨みつけた。
しかし奴は上目遣いにこちらを見てくる。
(…………)
仕方なく卵焼きの欠片を分けてやると、それを見た他の者たちまでが竜モドキにたかり、彼らはころんころんとテーブルの下に落ちていった。
そうなのだ。頭が重いのも身体がダルイのも目の下にくっきりはっきりクマができているのも、全部こいつらのせいだ。
「今日は塾もあるし、早く帰ってくるから」
昼間は大したこともしないこいつらだが、夜は違った。
台所から勝手に食べ物を持ってきては騒ぎ、机に積んである参考書の山をくずし、必死で宿題をやっている手元を走り抜け、棚の上から石を投げつけてくる。
洗面所の鏡には一度も自分が映らなかった。それはしわだらけの身なりの悪い坊さんだったり、口元を扇で隠した赤い着物の女だったり、のぞくたび住人は違っていたが、みんなこちらを見てニタニタ笑っていた。
「塾なんか休んじゃえばいいじゃない」
「お金払ってるんだから、もったいないよ」
「んまっ。高校生の分際で」
極めつけは寝る時だ。我先にと布団の上にやってきて、寝かすまいとするのだ。跳んだりはねたり、まぶたを無理矢理開かされたり、耳元でブツブツと囁かれたり、寝つきは悪く寝心地は最悪で──最悪な夢を見た。
暗い、周囲を深い山に囲まれた田んぼのあぜ道を、必死で走っていた。追いかけてくる何かから必死で逃げていた。何から逃げていたのかは分からない。けれど、ものすごく嫌な感じがしたことだけは、起きた今でもはっきりと覚えている。
思い出しただけで、冷や汗が背中を伝うくらい。
息がつまり、心臓が凍るくらい。
振り返れば追いかけてくるそれに手をつかまれそうで、しかし逃げても逃げてもいきなり前方にソレがじわりと現れてきそうで、生きた気がしなかった。
耳の奥に、水田の脇を走る用水路の水音が残っている。黒い巨大な化け物のような山がざわめいている声が残っている。
街灯なんかなくて、月もない夜で──。
「アンタに心配されるほどウチは落ちぶれていませんよ、ねぇお父さん」
「どんと来ーい」
(アホ親父……)
呆れて食事に戻ると、足で何かを蹴っ飛ばしてしまった。
慌ててテーブルの下をのぞきこむと、三毛猫の茜だった。母方のばーちゃんじーちゃんが伯父夫婦と同居をするというので、吉野家が引き取った猫。義伯母さんが猫好きの猫アレルギーなのだ。
しかしこちらもアパート住まいだから、大家さんには内緒で飼っている。
(茜さん……)
猫は転がり落ちた化け物たちを突付いて遊んでいた。そしてあろうことか──ぱくっと食べてしまった。一瞬彼女の尻尾が二股に見えたのは気のせいだろうか。
「……ごちそうさま」
柾紀は食べる気力をなくして箸を置く。
「ちょっと、そんなに残してー! 本当に大丈夫?」
背筋が冷たい。寒気がする。小鬼が乗っているわけでもないのに、重い。
(こりゃ本格的に風邪かな)
彼は思って席を立った。
──それから四日。
週も明けたというのに風邪薬は全くその効き目を現さず、かといって病状が悪化するということもなくて、なんとも中途半端な状態が続いていた。
けれどあの悪夢は毎晩続き、友達から心配されるほどに寒気がおさまらなかった。学ランを着ていても寒いし、手足の先は自分でもびっくりするくらい冷たい。そのうえ学校と塾へ行くだけで異様に疲れを感じるようになっていた。自分で見る限り、異形の者たちが何か悪さをしているというわけではなさそうなのだけど……。
そういえば、鏡はいつの間にか元通りに柾紀を映すようになっていた。家の中にいた邪鬼どもも、みんな遠巻きにポテチや夜食ラーメンを物欲しそうに見ているだけで、あまり近寄ってこなくなっていた。柾紀を避けているように。
反対に茜さんだけはベッタベタにすり寄ってくるので邪魔なのだけど。
しかし彼自身、疲労の原因はなんとなく分かっていた。この頃(というかあの水晶玉を拾った日から)、夜になって布団に入ると、誰かが窓からこちらをのぞいているのだ。柾紀の家はアパートの三階だから人間がのぞくということは考えにくい。カーテンだって閉めてある。
それでも、目を閉じていてさえ分かるのだ。
──来ている、と。
何かが窓の外にいる。こちらの様子をうかがっている。何か大きくて禍々しいものが、深く静かな呼吸をしながら。
その気配を感じると、柾紀の部屋から異形の者たちはさっと消えてしまう。茜さんだけが甘えた声を出して布団の中に入ってくる。
──早くどこかへ行けどこかへ行けどこかへ行け……
念じ続けてふと胸が軽くなった瞬間窓に目をやると、信号機の赤い点滅ライトに照らされて黒い影がカーテンに浮かび上がり、去るのだ。
柾紀の知る何物にも例え難い、形のソレ。
最後まで窓に押し付けられていたソレの手は、枯れ枝のほうに細く尖っていた。
眠るのが怖い。部屋の電気を消すのが怖い。夜が怖い。
そんなことを思ったのは、幼稚園以来か。
「吉野~、お前大丈夫か? 医者行った方がいいんじゃねぇ? 市販薬は症状を抑えるだけで治らないってウチのお袋言ってたぜ」
数学の授業を終え今日も当てられずに生き延びたとホッと息をついた時、柳が上田と共にやってきた。
「勉強勉強で寝てるヒマなんかない、とか?」
少し嫌味が混じった口調で上田。
「これじゃ勉強にもならないよ」
言うと、
「だよなー」
アッサリ納得する。
「そーだ吉野、飯食いに行かね? 俺、今日学食なんだ」
「いいよ。柳は?」
「俺は弁当持ちだけど付いてくわ」
「じゃ、行こう」
柾紀は促されるままふたりの後について行く。
──と。
「医者じゃダメだ。祓ってもらった方がいい」
一歩廊下に踏み出したところで、横から声がかかった。
「……え?」
戸の影になるように立っていたのは、柾紀と同じくらいの背をした男子生徒だった。冷たい切れ長の目をした奴。名前は知らない。
「早く、どこかでお祓いをしてもらった方がいい」
感情の薄い落ち着いた声は、確かにそう言った。
「は? え? お祓いって──」
「吉野ー!」
向こうで上田が呼んでいる。ご機嫌斜めだ。
「何道草食ってんだよ! 昼飯食えなくなっても知らねーぞ!」
「いいか、絶対行けよ」
そんな言葉を押し付けて、名前も知らない生徒はクルリとこちらに背を向ける。
上田を怒らせた責任も取らないで。
「…………」
「吉野!」
呆然と見送っていると、耳元で怒鳴られてぐいっと腕をつかまれた。
振り向けば上田。
「……あぁ、ごめん」
「あいつ、なんだって?」
上田の視線が人波に紛れて行く男を追った。
「え? あぁ、よく分からない」
「だろー?」
ワケ知り顔だ。
「あいつ三組の遠野っていうんだよ。遠野晴海。お前は誰が何組とかそーゆーの興味ないだろうから知らないだろうけど」
大正解。興味ない。
「で、だろーって何?」
「あいつ人を捕まえては、ネガティブ・ナンセンスな忠告ばっかりしてくんの」
「例えば?」
「曰いわく“墓参りに行かないと母親が怪我する”、曰く“先祖の罪を償わないと病気がちな体質は治らない”、曰く“水辺に行くと引きずり込まれるかもしれない”」
「へぇ」
確かにネガティブでナンセンスかもしれないが、こんな日本的な内容を英語で説明するのはやめてほしい。
「それにな、あいつ時々お話ししてるんだってよ」
「誰と?」
「俺らには見えないヒト」
上田が声のトーンを落とす。
(つまり──)
柾紀は廊下の隅を見やった。
(こういうのか)
そこでは法衣を身に付け厨子を背負った大きな鼠が右往左往している。おそらく、穴がなくて困っているんだろう。
「……そりゃすごいね」
「何もないところに話しかけたり何かを手で払ったり、迂闊に近寄ると不気味な予言されるし、それがまた結構な確率で当たるんだ」
「当たるの」
「あいつが予言したことをあいつ自身が実行してるんじゃないかって」
「遠野って人が他人の母親に怪我させんの?」
「違うよ。ほら、なんかあるだろ、呪いとか。古典にもよく出てくるじゃねぇかよ」
(呪い……)
「お前もあんま関わらない方がいいぜ」
「そうだね」
柾紀は遠野という男が消えた廊下を一瞥すると、学食へと身体の向きを変えた。
(まさかね)
“お祓いに行った方がいい”って……お祓いに行かなかったからって、まさか本当に呪われるなんてことありえないよな……と思いながら、身体の横をすり抜けてゆく異形の者たちに、「ありうる」と断言している自分がいる。
それとも夜の事といい、もうすでに呪われているんだろうか。まさかあれは世間で有名な式神というやつなんじゃ……。
(俺は遠野に呪殺されるのか!? なんで! 俺は予言者だって愚民どもに知らしめるためか!?)
思い始めると止まらない。
(よし。遠野っていうのにはなるべく近付かないようにしよう)
それが結論だった。
そして三日後に第二の結論が出た。遠野は変わった奴だ。
……不本意ながら、人を避けるこということは、そいつの行動を見張っていることに等しいのである。
一応進学校の高校生ともなれば、はやし立てたり教科書に落書きしたりという幼い残酷な仕打ちはしないようだったが、彼はいつも独りでいた。
別段、無視されているわけではない。連絡事項は伝えられているし、彼が何か尋ねれば答えは返ってくる。彼に勉強のことで小さな質問をする者もいた。
けれど彼のまわりには、“無関係”の網が張り巡らされていた。
皆が“彼とは無関係”を静かに主張して、彼も“君とは無関係”を冷徹に貫いている。
皆は友人として彼を扱ってはいなかったし、彼も皆をかなり大きな円の外に置いていた。線の中へは一歩たりとも入れない。
そして彼は真面目な顔をして他人を捕まえてはアヤシゲな忠告を繰り返していた。一度なんて女の子を泣かしていたが(何を言ったのかは知らない)、それでも彼は止めようとしなかった。
(変な奴)
おまけに彼は柾紀を見かけるたびにこちらへ歩いてくる。
そのたび柾紀は逃げる。
(疲れる……)
そんなことを感じ始めていた夜だ。
塾の帰り、彼はあの場所に連れて行かれた。
夢で見た、誰もいない田んぼのあぜ道に。
だるいながらも熱はなく、休む確固たる理由も見当たらないので、柾紀は夜九時から塾に行っていた。出席者には同じ学校の奴も多く、見知った顔もいくつかある。
そして終わったのは十一時。この間受けた模試のことで、全員が講師にこってり油を絞られた後。
家は近いし、自転車の鍵は異形の者たちに隠されたしで、あまり街灯のない道を歩いて帰っていた。
しんと静まり返った夜の界隈は、昼間とは全く違った顔を見せる。
太陽の下で見せた愛想はどこへやら、花壇の花々が花びらを閉ざし眠っているのをいいことに、家々は傲慢な態度でこちらを蔑み見下ろしてくる。
空気は冬の残り香でひんやり冷たく、響く足音は自分のものだけ。
灯の当たらぬ四つ角には煤けた闇がわだかまり、近付くにつれ何かが蠢く。
人気のない公園を煌々と照らす、古びてちらつく街灯。そこだけ時代が止まっているようで、知らぬ間に取り込まれそうな恐怖に襲われる。
月のない濃紺の空を飛び雲を横切ったのは鳥ではない。聞き取れないほど小さな声で闇の中をざわざわと渡って行くのは、人ではない。
(…………)
早く帰ろうと柾紀が足を速めたその時。
足は凍りついた。
後ろで“チッチッチ”と鳥が鳴く声が聞こえた。雀の鼠鳴に似ているが、近頃やけに研ぎ澄まされた第六感は、違うと言っていた。それは背後の薄ら寒い夜の中からだんだん近付いて来る。だが振り返る勇気はなかった。
それだけではないのだ、来ているのは。
(アレが来る──)
毎晩窓の外からこちらをうかがっていたアレ。
雀に呼ばれるようにして、それが背後に近づいてくるのを感じた。背後の空気に、嫌な影が集まっている。寒い寒い寒い。凍りつくような寒さじゃなく、涼しさが限度を超えた寒さが足元から身体を包んで離れない。
そして。
(──うっそ!!)
柾紀は目を見張った。
気が付けば、夢と同じ山中の水田のあぜ道に立っていたのだ。
黒い山が風に吹かれてうなっている。
まだ緑色の稲が、青波となってうねっている。
葉擦れの音は潮騒のように寄せては返し、寄せては返し、迫ってくる。
土の匂いと緑の匂い、そして水の匂いが肺に押し寄せてきて、逃れられない。
密度の濃い空気に圧され、息ができない。
(溺れる!)
心で叫んだ瞬間、後ろに巨大な畏れを感じて彼は反射的に振り返った。
(なんだこれ!)
そこには、彼の背の何倍もある大きな黒い影があった。
まるで幼稚園児が描く化け物だ。目の部分だけを残して黒いクレヨンでぐりぐりと塗り潰しただけの化け物が、そこにいた。
黒い影の中の真っ白な、思考のない目。
──何も読み取れないからこそ、怖い。
唖然としていると、影が伸び縮みして手らしきものがぐいっとこちらに伸びてきた。
(捕まる!)
逃れたい一心で身体をねじった瞬間、眼前で凄まじい白い火花が散った。
柾紀は思いっきり後ろに跳ね飛ばされ──ごんっと頭の後ろで音がして、そして世界はぷつりと途絶えた。
「……茜さん」
何か重いモノが胸の上に乗っていて、柾紀は目覚めた。乗っているのは自分の家の猫だった。
「迎えに来てくれたの」
辺りを見回せば、いつもと同じ塾からの帰り道。
どうやらあの山にトリップしている間、道の真ん中で倒れていたらしい。携帯で確認すると、塾を出てから二十分。寝ていたのはせいぜい十分といったところだろう。
しかしたった十分とはいえ、よく車に轢かれなかったもんだ。
ぶつけたはずの後頭部をさすってみても、なんともない。
「ありがとう。帰ろうか」
よっこらしょと猫を下ろし、ふたり並んで帰路につく。
相変らずよそよそしく静まり返っている住宅街。異形の気配さえしなくなったそこを、ひとりと一匹はさっさと後にした。
寒気はひいていない。一連の出来事が何だったのかも分からない。
黒い化け物からは、言い訳のしようがないくらい悪意を感じた。
一瞬、脳裏に遠野の顔が浮かぶ。
「マジでお祓いしてもらった方がいいかな?」
猫に向かって真剣に問うと、彼女はどっちとも取れる鳴き方でにゃあと言う。
「呪い殺されるのかな」
あれを単なる夢だと自分で自分を誤魔化すほど、怖がりではないつもりだった。
問題は、何がなにやらサッパリ分からないということだ。
それでも、遠野に近付く勇気はなかった。
──三日後。
学校行事の中には、三者懇談という地味ながらも痛いものがある。
三者懇談というのは、子どもだけでなく親も担任教師の眼前に呼び付けられて“この成績じゃてんでダメですね”とか“英語は一番配点が高いんですからどうにかしてください”とか、成績の意味を暴露され、無理難題を突きつけられるという恐ろしい日である。
例に漏れず柾紀の成績も下降気味であったが、連日の悪夢による寝不足のやつれ顔だったので、担任の白峰さんは、“まぁ、本人も気付いて頑張っているようですし”なんぞとのたまっていた。
母親に至っては、“近頃風邪気味なのに塾を休みもしないで──”と流れに逆行する発言を繰り返していた。
つまり。
どうにかのりきった。
暗い顔で昇降口へ親を迎えに行く柳の背中を叩いてやり、教室へ向か……おうとしたところで足が止まった。
(まずいまずいまずい)
柾紀は前方に遠野を発見したのだ。
しかもここは直線廊下で階段はない。今Uターンするのはあまりにも不自然だ。
が、彼は柾紀に気付いた様子もなく、横を歩く保護者となにやら口論していた。
(……あれ、遠野の親父……じゃないよ、な?)
遠野の横にいるのは、長い艶黒髪を後ろで緩くひとつに結んだ、藍色着流し姿の男だった。若いのかトシなのかいまひとつ判然としない顔で、狐が化けてるんだろうと思うくらいの狐目。瞳が見えない。そして全体的に漂っている無責任に華やかな雰囲気は、万年花見酒をしているタイプだ。
大学への進路ともなれば父親が来ることも珍しくないのだが──、聞こうとしなくても聞こえてくる口論の内容が妙だった。
「いい? 由良。何言われてもお前は“はい”って言ってればいいんだからな」
「そんな鸚鵡じゃあるまいに。拙が先だって読んだ本には、大学府へ行くにはそれに見合うたヘンサチが必要じゃとあったよ」
「余計なこと言わなくていいから」
「して、晴海。ヘンサチとは何かえ?」
「……。ある集団の平均値からどのくらい距離があるかをあらわした数値。偏差を標準偏差で割って10倍して50を加えたやつ」
むっつりとした遠野が一気に言うと、保護者──由良と呼ばれていたか──の顔が一瞬強張り、ほうっと息をつく。
「晴海。大和言葉をしゃべりゃ」
「俺はさっきから日本語でしゃべってるっつーの!」
怒鳴る遠野に、由良氏は手に広げた扇をぱたぱたと振って、“大声を出すでないよ”と悪びれもせずに言っている。ちなみに扇に描かれているのは見事な桜だ。
(……どういう関係なんだ)
どう考えても親子には見えない。というかあの由良という人そのものが、人間とは思えない。大きくズレている気がする。
遠野はかなりキているらしく、柾紀のことなど目に入らないよう。普段のクールさはどこへやら、大股でズカズカ歩いてくる。
そのまま柾紀と二人はすれ違い──、
「……坊」
(げ)
由良氏がゆらりと振り返ってきた。
「吉野」
ぼそりと遠野が訂正する。
「吉野坊」
微妙に間違って言い直す由良氏。
「はい……」
見透かすように薄っすら笑っている狐目が、ひしひしと怖い。
「お前さん、大層なものに目をつけられたようだねぇ。一体何をやらかした?」
「は?」
絹を撫でる柔らかな声に、ドキリと心臓がすくむ。
「お前、まだお祓いに行ってないんだろう」
遠野が口を挟んできた。
「あぁ、お祓い……」
「人なんぞに祓えるかねぇ」
楽しげな様子ではらはらと由良氏が笑う。
「由良、いい加減にしろよ。あぁー無理言ってでもばーちゃん連れてくるんだった」
「賢人曰く、後悔先にたたず」
「──由良」
遠野に睨まれて、由良氏が扇で顔を隠す。だが柾紀の位置からは、彼が扇の影で舌を出しているのがはっきりと見えた。
「いいか、早く行けよ? そうしなきゃお前死ぬぞ」
ずいっと詰め寄ってきた遠野が、ぱっと離れる。
彼の目が、廊下の奥、柾紀の背後を見ていた。つられて振り返ると、上田の姿。
「行こう、由良」
「茜によろしく言うておいておくれ」
(……茜さんに?)
由良氏の言葉を不思議に思う間もなく、柾紀は目を剥いて絶句した。
歩み去って行く彼の後ろを、わらわらと異形の者たちが付いて行くのだ。
「淡海、泣くなよ。あんな大事なもの失くすお前が悪い」
「藤の森(伏見稲荷)にバレたらどうなるかしれないというに、泣かずにいられようか!」
由良氏の後ろには泣きはらした顔の若い神官とそれを慰める神官。瓜二つの顔に肩までのおかっぱまで同じで、性別も分からない。だが、両人とも白い狐の尻尾が生えている。
その後ろには赤い着物を着た小さな女の子。続くのは深紫色に金糸の山野図が織り込まれた振袖姿の若い娘。何故か彼女はこちらを見て、会釈をしてきた。
そして柳目をしたひょろりと背の高い若侍。その後ろには立派な矛を携えた青鬼、わらじに目がついた輩は大きなトカゲを馬にして、破れ傘殿は杖を手に、蓑を羽織った琵琶が四足に尻尾まではえた琴を引っ張ってゆく。うずくまってのそのそ動く一つ目の赤い物体に、小槌を持った大蟻が三つ目小僧とちょっかいをだし、笹の葉を持って毛皮を着込んだ釜がそれを無視して先へ行く。赤鬼が古唐櫃をばりばり壊せば、中から山犬、黒狼が悲鳴をあげて逃げ出して、魑魅魍魎が詰まった葛篭の上では、頭に糸切り鋏をつけた邪鬼と着物を羽織ったナマズがどう開けようか算段している。その後ろをしゃなりしゃなりと鈴を持った乙女が歩き、地獄の業火を映した赤い雲に乗っているのは、ニヤリと笑う鏡。そして一番最後をどことなくボロボロした白い龍が床面ぎりぎりを飛んでいった。
(……百鬼昼行……)
もともと学校にいた邪鬼たちは、ころころと廊下に出てきては一行を見送り、口々に“由良様、由良様”と騒ぎ立てている。
(……遠野って謎~)
「吉野!」
「あぁ」
上田が走ってきて、柾紀は我に返った。
「何て言われたんだ。っつーか、遠野の保護者も相当変わってるな」
上田にも由良は見えるんだ……などと思いながら、なんでもないと返す。
「ホントに?」
「ホント」
まさか“お祓いに行かないと死ぬって言われた”なんて言えない。
上田にそんなことを言ったら、今度こそ遠野は“無関係の網”どころではなくなってしまうかもしれない。
こんな上田だが、友達のことで時々暴走するイイ奴なのだ。迷惑を被ることもないわけではないが……というかなんで僕は上田はともかく遠野までかばっているんだ?
「ならいいんだけどよ。な、おまえ白峰さんに何て言われた?」
「別にィ」
「何ッ!? 俺なんて“体育だけはいいんですが”って遠まわしな嫌味言われたのに!」
「何かひとつ飛びぬけたものがあるってのはいいことだよ」
昼間はいい。
灼熱の太陽が異形の者たちを見張っているから。
化け物も、現れない。ひたひたと近付いて来る気配も感じない。
一方──
三者懇談のあった夜、柾紀は塾の帰り、またもあの道を通っていた。
白く輝く月は細い。どこからか沈丁花の香りが漂ってくる。
しかし生き物の気配は全くなかった。犬も猫も、眠っているのか息を殺しているのか。
チカチカしている街灯を通り過ぎると、自分の影が大きく前に伸びて一瞬息が詰まる。
“チッチッチ”
また、あの鳴き声だ。始めはかすかに、だんだんはっきりと、後ろを付いてくる。
意を決して振り返ったが誰もいない。
がらんとした家々が沈黙している。
(…………)
柾紀は口を結んで再び歩き始めた。
“チッチッチ”
背後で雀の鳴き声も再び始まる。それは次第に距離を詰めて来る。頭の中で誰かが逃げろと言った。
──お祓いしないと死ぬぞ
遠野の声がこだまする。
柾紀は走り出した。何かが追ってくる。ぞわぞわと、背筋が寒くなる。それでも彼は走った。走り続けた。
(あそこを曲がれば大通りに──)
光の中へ行けばどうにかなる。そう、希望が湧いた。
あと少し、あと少し、あと少──……。
(…………!)
“まさか”と“やっぱり”が胸の中で交互に反響する。
必死の思いで身体を投げ入れたそこは、あそこだった。
ごうごうと鳴る黒い山。うねる青田。灯のない夜の闇。渦を巻く冷たい風は柾紀のすぐそばで天に昇っている。千切れた若葉が、小枝が巻き上げられてあっという間に見えなくなる。
(……山だ)
彼はそう思った。
自分を追ってくる黒い化け物はこの山なんだ、と。
田んぼを取り巻く山の森。その木々の根元で、葉の奥で、大木の洞で、わだかまった闇がこちらを見ている。山全体から、寒気を感じる。目的のない、大きな怨みを感じる。
(逃げられない)
四方八方から山が来る。森が降りて来る。ざわざわと吹き付ける風の音に紛れて、山が水田を呑み込みながらこちらに向かって来る。滑るように、なぶるように。
(袋の鼠ってのはこういうことだなぁ)
などと思ってしまう自分が悲しい。
もう、寒々しい感覚で分かっていた。背後にソレがいることくらい。
「やあ」
できるかぎり友好的に振り返ると、嵐の中に黒い影はいた。
目とおぼしき白い空洞が、真っ直ぐこちらを見ている。
三日前と同じだった。
「い、一応、話し合いでの解決を希望するんだけど」
声は端から吹き飛ばされてゆく。
風はだんだん強く、影はだんだん大きく、空虚な目に縛られて、動けなくなる。
背後からは山が彼を取り込もうと迫ってきている。
(どうしよう)
思った瞬間、柾紀の後ろから何かが飛び出し黒い影に向かって身を躍らせた。
「茜さん!」
どこからここに現れたのか彼の家の三毛猫は影に喰らいつこうとして──……ぱかっと口を開けた影にそのままぱっくり呑み込まれてしまった。
(……茜さん!)
何がなんだか分からなかった。
分からないまま叫んでいた。
「茜さんを返せよ──!」
「待ちや」
「待ってられるか! ぐえ」
影に突っ込もうとしていた柾紀は、後ろからえりを掴まれて首が絞まった。
「言う事聞きぃ、吉野坊」
「…………」
聞き覚えのある声。
「晴海の頼みもあるし、取り殺されるにゃ惜しい御子さね」
そろりと顔をあげると、そこには瞳の見えない狐目の笑み。
「由良──様?」
「由良でよろし」
白と金色が混ざったような長い髪、薄紫に桜を散らした着物をまとい、この場に全くそぐわぬ朗らかさで彼は立っていた。きっとこの髪の色が本当の色なんだろう。
「さてお前、何ゆえ柾紀をすとーかーするんだい」
由良が扇でびしっと影を差す。
<…………>
答えはない。
「あの、ストーカーの意味が分からないんじゃ……」
「時代遅れな輩だねぇ」
自分勝手なことを言い、由良が言い直す。
「何ゆえ柾紀を喰おうとする」
(それはそれで直接的過ぎ)
<……寄越せ>
「答えになっていないよ。だが聞かなくても見りゃ分かるかね。お前はどこぞの山の神であろ。人に潰され供養を忘れられ祟り神となった山神じゃ」
<寄越せ!>
「なんと見苦しい。神ともあろうものが怨みで誇りを忘れたか!」
由良がいるせいだろうか、山はこちらに近付くのをためらっているようだった。森が威嚇の唸り声を発しているが、襲ってはこない。
<たかが狐の分際で>
風も、由良を避けている。
<知っておるぞ! 天狐の由良! 力を失い藤の森を追われた狐めが!>
影の声は、木のざわめきに似ていた。
大勢が一度にしゃべっているようなかんじで、聞き取りにくい。
「確かに拙は力を失うした天狐の由良じゃ」
ぽっと、由良が扇子を閉じた。朱色の飾り糸が揺れる。
「じゃが──」
彼の笑った口が大きく裂ける。
「力をなくしたとはいえ、貴様程度をひと呑みにする力はあるえ?」
(──!?)
一瞬炎が地面を渡ったのかという錯覚。
人間で言えば気迫というのだろうそれが、大きく闇を祓った。
山がのけぞって慄き、青稲が沈黙する。
「山神。これ以上祟っても無駄え? これ以上人を喰っても無駄え? 世はお前さんの懐かしむ昔には戻らぬ。拓けた山は戻らぬ。この青田はもう消えたのじゃ」
由良の声は悲しげでも慰めるふうでもなく、ただただ詠うように若い緑の稲穂の上を流れていった。
「それはお前さんもよう分かっておられるはずよの。お前さんはただ、忘れられるのが怖かっただけじゃ。この山を護り、人々を護っていた神がいたということを、忘れ去られることが哀しゅうてならんだけじゃ」
──忘れられることが、怖い?
「人も神も妖も、忘れられることを何よりも怖がる。自分がそこにおったという証が次々消えてゆく哀しみと恐怖は、いかばかりかの。山は消え、いつしかそこに山があったことなど誰も知らぬようになる。狐は消え、いつしか稲荷の宮には苔がむす。琵琶の音は久しく絶え、それは橙の甘い果実のことかと童は言う。赤い彼岸の花が咲き乱れても、いつしかしおれ枯れ果てても、誰一人墓には来ない」
<私は! この里を護り続けてきた! この山を護り続けてきた!>
「人が山と暮らし始めてからずっと」
由良がひらりと扇を舞わせた。
すると夜は一転、里は太陽輝く昼間の姿に変わる。稲穂は金色、かかしが埋もれるようにして、雀がその頭の上で鳴いている。
山は赤と黄色と緑のまだらになり、小さな生き物たちの気配で溢れている。アキアカネが前進しては止まり、前進しては止まり、吉野が人指し指を立てると一匹が羽を休めにやってきた。
見上げれば、いわし雲を背負った天。数羽のトビが大きな円を描いて飛んでいる。
<あれだけの時をかくも簡単に忘れ去られるなどと──私は!>
「山神。人は、我らの如く千歳を生きる者ではないのだよ」
<由良>
「なんだい」
<我が怒りと哀しみはおさまらぬ。人は痛みを与えてやらねば何も気付かぬ。今までそうであったように。──人柱を寄越しや!>
「黙りゃ!」
影がいきなり膨らみ大口を開け突進してきた瞬間、由良が大きく扇を一閃した。
黒い影がスッパリ両断されたのが見えた。
しかし同時にものすごい風が巻き起こり、柾紀は思わず目をつむる。その途端、頭に何かがどっと流れ込んできた。
(ビデオの早送り……)
それは景色だった。次々と変わってゆく景色。
山で鹿を追う男たち。田を耕す人々。火を囲んだ盛大な祭り。錫杖を打ち鳴らし過ぎる僧。木を切り開墾する村人。作られた田舎道を通る粛々とした貴族の行列。空を行く雁。不穏な夜を駆け抜けてゆく馬の蹄。夜陰に光る刀の刃。家は増え、田も増え、役人が広さを計る。痩せた者たちが山へ入り木の実を拾い、田を増やせと山を拓き、道が敷かれ──。
誰のものか分からない記憶が、耳元でごうごうと鳴る風と共に過ぎてゆく。
突然、まぶたの裏で稲妻が走り雷鳴が轟いた。
(嵐だ)
水路の水は溢れ、道を濁流の川とし、わずか残る水田の稲をなぎ倒す。遠くで、地鳴りが聞こえる。破壊の意志しかない風が木々に家に吹きつけ看板が飛び、しかし硝子が割れる音は容赦ない雨音にかき消される。
「カミは、我らを護る者ではないのよ」
どこからか、由良の声が響いてきた。頭の中に直接、あのゆったりとした大河の口調が流れてゆく。
「カミとは、森羅万象、善も悪も取り込んだ混沌の者じゃ」
嵐は去り、日照りが来る。
土は割れ、緑は死に、アスファルトはひたすらに焼け焦げる。強すぎる陽射しが育むべきものはなく、蛙の一匹も見えぬ夏。向日葵も首を垂れ、朝顔は花を咲かせず枯れる。
蛍も飛ばない。
「恵みをもたらし、人々をその大いなる懐で護るカミの和魂。怒りを露わにし、人の所業を破壊し尽くすカミの荒魂。人は恵みに感謝し、怒りは甘んじて受けるしかない」
道はアスファルトから土へと退行し、きれいに刈り取られた稲田が見えた。
夕暮れの里。胸に迫る色濃い茜空には点々と烏の影が横切り、里を囲む山からは、鹿とおぼしき動物の声がする。里へ目を下ろすと、茅葺の家々から夕餉の支度をする煙が上がっている。
母親がご飯をよそい、部屋の奥の神棚へと供える。子どもたちがその後を追い、親の真似をして手をあわせる。
かまどの炎は赤々と、鍋はふつふつ秋の香りを里じゅうに運ぶ。
男たちは集まって祭りの話し合い。焼けた肌で笑いながら、今年はどれだけ獲れたと自慢しあう。
「泣くも笑うも、それがこの瑞穂の国の定めよ」
何故か涙が出た──気がした。
身体の中から込み上げてくる切なさに、どうしたらいいのか分からない。
これは山神の記憶なのだ。懐かしみ、戻りたがっている。戻りたいと、魂の底から叫んでいる。けれど戻れないとも知っている。
自分は消え行く古なのだと知っている。このまま忘れられて行くだけなのだと知っている。
「今この世があるのは、時の流れの中で消え去り忘れ去られたカミが、恵み戒め大地を護り続けてきたゆえと心得ておかねばならぬ。感謝し、あるいは罵り、人より大きな者がいることを心に留めておかねばならぬ。されどさすれば、彼らの念は妖ながらに闇を祓い、決して人を見放しはしないだろうよ」
(由良みたいに?)
「──そうじゃな」
由良がどこか遠くで笑った。桜の花が散るように、はらはらと。
脳裏に頭巾を被った子ども達が見えたと思ったら、道を車が走り始めた。青田が次々と家に変わり、人々は朝になると家を出て行き山の斜面は平らにならされ──。
突然すとんと身体が地面に下ろされた。足の裏に、固い感触。
「吉野」
「……は?」
額を小突かれて目を開けると、眼の前にはしかめっ面をした遠野の顔があった。
見回せば、いつもの帰り道だった。
帰ってきたのだ。
「大丈夫か?」
「たぶん」
軽く車に酔った気分だったけれど、たいしたことはない。
目じりを拭ぬぐうと、やっぱり泣いていた。
けれど遠野は、
「なら、いい」
それだけ言うとこちらに背を向けてくる。
(早っ)
「──遠野お前って奴は……ん? 何拾ったんだ?」
アスファルトの上にしゃがみこんで何かを手の中に入れた遠野を、後ろからのぞきこむ。すると、
「…………」
何も言わず両手をずいっと差し出される。
「……山吹」
「正解」
彼の手の中にあったのは、一輪の鮮やかな花をつけた山吹の株だった。小さな、小さな。
「これってもしかして……」
「祟り神になってしもうたさっきの山神の元々の姿じゃよ。妄執に憑かれてあんな醜い姿になってしもうておったがの」
由良も遠野の手の中にある山吹をのぞきこむ。
「へぇ~。で、どうすんの、これ」
「ウチの庭に植える」
即答された。
「…………」
「祟り神とはいえ、庭に植えて丁寧に祀ってやれば、そのうちいいご隠居になるだろう。気は心だ」
遠野の口調は相変らず一本調子で、山吹を見つめる顔も冷めている。
それでも、
「今まで護ってもらった年月分くらいは、感謝しなきゃな」
淡々とそんなことを言う。
「…………」
(こいつ……めっちゃくちゃいい奴だよ)
「ウチ、そんなのばっかりだな……」
──“そんなのばっかり”。
「あのさ遠野、昼間お前とすれ違った時なんだけど」
柾紀がおずおずと切り出すと、
「あぁ、あれ全員ウチの人さ。動けない人とかもいるから、欠席者も多いが」
遠野の涼しい目が、山神を問答無用で黙らせた狐に向く。
「由良が外へ行くっていうと、付いて来たがるのが多い」
「人徳人徳」
「お前の力が太陽の力を跳ね返すからだろ!」
「みんな晴海坊が今度は何やらかすか見物したいのさね」
「由良!」
怒鳴られても悪びれもせず、狐がけらけらと笑う。
つられて柾紀も笑った。
「……なんでお前まで笑ってるんだよ」
「だって、遠野って学校じゃクールだからさ。怒るなんて絶対しないだろ?」
「…………」
憮然とする遠野の後ろで、由良が腹を抱えて笑い転げていた。
しかし早々にニヤニヤを消した柾紀は、狐がひとしきり笑い終えるまで待ち、訊いた。
「由良。茜さんなんだけど」
するとにっこり笑った彼がぱしっと扇で路地を差す。
「茜様はわたくしが」
いつの間に現れたのだろう、そこには昼間見かけた深紫の振袖を着た娘さんが立っていた。そしてその腕の中にはぴくりとも動かない三毛猫。
……尻尾が二股なのは、まぁ、もう、仕方ない。
「茜さん!」
駆け寄ると、
「大丈夫ですよ、お命はご無事です」
彼女がにっこりと笑う。
「わたくし、夜雀の雲居と申します」
「ど、どこかでお会いしました?」
昼間会釈されたことを思い出したのだ。
「貴方の後ろをついて、祟り神様が来られるとご忠告申し上げていたのは、わたくしにございます。いつも力及ばず危ない目にあわせてしまって」
“チッチッチ”の正体が、この彼女……。
「本当に申し訳ございません」
「…………」
ひたすら頭を下げる彼女に、“怖さが倍増しました”などとは、言えなかった。
◆ ◇ ◆
「なんというか……すごい屋敷」
柾紀は感嘆のため息を漏らした。
「そうかね? まぁ、最近のジュ-タクジジョーというやつからしてみれば、珍しいかもしれないね。こんな古臭い屋敷は」
けっこう重症な茜さんを由良に治してもらうため、柾紀はそのまま遠野の家にやってきていた。しかしこれは、家じゃない。“屋敷”だ。
ごちゃごちゃと色々な木々が植えられ、雪柳、沈丁花、レンギョウと春の花々が競い咲き、春紫苑や蒲公英までが乱立し、池があり、川があり……そんなある意味豪快な庭園を眺める場所に、由良の座敷はあった。妖にひと部屋与えるとは、なんともすごい家だ。
おまけに、文机に片腕をのせている由良のまわりには、見たことあるような無いような妖がたくさん張り付いている。
二匹の白狐神官、柳目の若侍──名は雨月だと紹介された──、琴や琵琶や……じっと座ってこちらを見てくる三味線の爺さんがいささか怖い。
「…………」
身の置き所がなくて居心地悪く感じ始めた頃、
「後神、気持ち悪いから俺の後ろを歩くのやめろ」
「そんなこと言われても後ろにいるのが商売なんですが」
「洞に戻ってろって」
「みなさんで月見の宴というに私だけ帰れとおっしゃる?」
「……宴じゃない」
江戸時代の幽霊みたいな白い妖を引き連れて、お茶を持った遠野が入ってきた。
「ここに人間の客が来るのは珍しいから、みんな見物に出てきただけだ」
──客。
“僕か?”と柾紀が自分を指差すと、遠野が無表情のままうなずいてくる。
確かに、由良のまわりだけでなく、部屋の中にわんさか異形の者たちがいる。柾紀の部屋の何倍もある座敷なのに、いささか息苦しい。
遠野が由良と柾紀の前に茶と草餅を置くと、柾紀の皿にはわらわらと手が伸ばされ、あっという間に餅が消えた。
「…………」
あんぐりと口を開けたまま由良の皿を見ると、そちらはちゃんと残っている。妖も、人を選ぶのか。
「それにしても、何で吉野があんなにしつこく狙われたんだ? お前、本当に心当たりないのか?」
空の皿を無視して、遠野が眉を寄せてくる。
「山に悪さした覚えはないよ。お前こそ、何で僕を助けてくれたんだ?」
柾紀はかねてからの疑問を口にした。
彼は、遠野の名前すら知らなかったというのに!
「そりゃ見える奴だからに決まってる」
「見える奴?」
「晴海は同じ人種が恋しいのさね」
狐が横槍を入れてきた。
「由良!」
「拙らの見える人間が近頃めっきり少なくなったゆえ、寂しいのよ」
あぐらの中に入れた三毛猫の背を撫でながら、狐はそれだけ言ってそっぽを向く。
その袖を、白狐の神官がひっぱった。
「由良様~! そんな人間如きに構っている場合ではござりませぬ! いい加減、淡海の失態が藤の森に知れてしまいます!」
「おや、まだ見つけてなかったのかい。それは大変だねぇ」
全然大変そうな口調ではない。
「狐の珠は数ない宝珠であるものを」
「人間に盗られたのでございまする! 追いかけようとしましたが、咄嗟のことだったうえに、狼の式神を使われ──」
「稲荷の使いになった途端にそれかえ。先が思いやられるねぇ。それにしても、そやつは普通の人間ではないね。人相は? 似絵は描けるかね?」
「黒い男でした! 帽子もかぶっていて!」
(…………)
黒い男。帽子。どこかで聞いたキーワードだ。
じゃあ、まさか。
「あのー」
「何かえ? 吉野坊」
「もしかしてそちらの神官さんがお探しのものは、これですか?」
塾のカバンの中に移し入れてあった、あの桃色水晶玉を由良の前にそっと置く。
「あ──! これじゃ! これじゃ!」
その瞬間、おかっぱ頭の神官が声高く叫び、ぼろぼろと涙をこぼして水晶を取り上げ、頬擦りをした。
「私の大事な大事な宝珠!」
「この間学校を遅刻しそうになった時に、黒いジャンバーを着て帽子をかぶった男とぶつかって……」
「取り戻してくださったのですね! さすがは晴海坊ちゃんのご友人であらせられる!」
「えぇといや、あの……」
「これがないと大変なことになるんですよ、ほんっとうに大変なことに! あぁ助かった! 吉野様は私の命の恩人でございます!」
「あのね、だから……」
「いいじゃん。そういうことにしておけば」
優雅に茶をすすりながら、遠野が無責任に言う。
「狐の宝珠は強い陰の気の塊じゃ。おそらくそのせいで祟り神をひきつけてしもうたのじゃろうよ。よかったの、吉野坊。あの程度の祟り神にすとーかーされるだけで済んでよかったのぅ」
「え?」
「淡海は色は白いがまだまだ未熟な地狐での。本当は稲荷狐になれぬのだが、なにしろ藤の森も人手不足らしく、先日稲荷を命じられた。これが本物の白狐や天狐の宝珠であってみぃ。力が大きい分、喰おうと狙う妖も巨大なものになる」
「……げ」
「妖の物を人が持つと、ロクなことにはならぬのよ」
と、どこからか出てきた小鬼が、由良に白い杯を捧げた。
「おお、甘露かえ。気が利くねぇ」
由良が嬉しそうに受け取り小鬼の頭を撫ぜると、小鬼は喜んで次の献上品を探すべく襖の向こうへ消えた。他の妖たちは座敷の中、てんでばらばらに座を組みすでに酒を交わし、ポテチやスルメを牙だらけの口に放り込んでいる。
新たな酒の肴を探しに襖へ消えてゆく者も多い。
「おい! 家の中ひっかきまわすなよ!」
遠野が叫んでばたばたと廊下を走ってゆく。
縁側ではふたりの狐神官が銀色の月に向かって拳をあげていた。
「晴海坊万歳!」
「吉野様万歳!」
『由良様万歳!』
「飛騨! 盗人には天罰を下さねばなるまいよ!」
「淡海! 見つけ出しお灸を据えてやらねばなるまいよ!」
息巻くふたりを横目に、
「まだ新米だからねぇ、盗人を見つけ出すのにいつまでかかることやら。のう、吉野坊」
狐目の由良がはらはらと笑った。
霞たなびく春の夜。
常の人には見えぬ宴。
月の明かりが差し込む文机の上には、山吹の花がひとつ。
波々と注がれた祝杯が、花の前にことりと置かれる。
了
執筆時BGM:姫神「神々の詩」「赤道伝説」 ASUKA HAYASHI「ake-kaze」「小さきもの」
2004年