まんまと婚約者を寝取った令嬢の、その後
「メフィーネ・リディオン。貴女のことは友人として尊敬していたのよ。幼年部からの付き合いじゃない」
高潔を絵に描いたような令嬢カロリーヌ・フォン・フォンターナは、酷く憔悴しきった声でそう言った。メフィーネと呼ばれた桃色の髪の令嬢は、こてりと首を傾げ、そして心底不思議そうに言い放った。
「へえ、いつだって嘘ばかりなのね? カロリーヌ様。尊敬どころか、貴女は子爵令嬢の私を見下していたんじゃなくて?」
「違っ……!」
「まぁいいわ。私はアルヴィク様と一緒に幸せになるんだもの。さしずめ『真実の愛』ってところかしら」
くるりと身を翻し、その場を後にする。カロリーヌは声をかけることもできずに、その場に立ち尽くす他なかった。
◇◇◇
メフィーネは苛立っていた。カロリーヌのあの態度についてだ。もっと悔しがったり、怒ったりしてくれれば良いものを。
「どうしたんだい、愛しのメフィーネ。せっかくの可愛い顔が、そんなにむすっとしていたら台無し……いや、むすっとしている君も素敵だけどね」
ジュゼッペ公爵家嫡子のアルヴィクは、前婚約者には一度たりとも聞かせなかった甘い声でそう囁いた。
カロリーヌに勝利宣言をして、ジュゼッペ家の邸宅に戻ってきたところである。
アルヴィクからは厚い歓待を受けたものの、メフィーネの心は晴れなかった。
一つには、思ったほどカロリーヌが取り乱さなかったこと。ただ打ちひしがれている、といったようで。
もっと率直に言えば、「打ちひしがれた振りをしている」ようにも見えた。
もう一つには、この家の居心地の悪さがある。当然アルヴィクは首ったけなのだが、公爵家父母は出迎えに来ないし、使用人の態度も冷たい。おかげで、メフィーネは自分で荷物を運び入れなければならなかった。
(ッたく、アルヴィクも『僕が持とうか』くらい言えばいいのにね!)
そうやってぶすむくれていると、さっきのように甘い声で囁くのである。
「別に何でもないわ。ねえ、普段アルヴィクは何をして過ごしているの。カロリーヌがいた間はこうして屋敷を訪れることもできなかったし、気になるわ」
思っていた通りにならないから腹が立っている、とは言えるわけもない。
話を逸らしてこの場を乗り切ることにした。
「そうだねえ」
アルヴィクはソファから身を起こし、棚を開けた。
「本を読んだり、料理をかじったり、園芸も……あ、これは隣国へ視察に行ったときの写真」
「多趣味なのね。ところでその……鞭? これは何のために」
「おおッと」
はは、これはまた夜にね……と意味深な発言を残し、彼は自室へ戻ってしまった。
(何よ、結局ほったらかしじゃない)
カロリーヌの、あのどうにも気に入らない女の婚約者を奪ってやったというのに、思っていたような生活はできなかった。やはり家格が違うと、こうも待遇に差があるのだろうか。
(歌劇や文学に出てくるような『溺愛』、私も受けてみたいものだわ)
そう思うだけ虚しくなるのは、メフィーネにも分かりきっていた。
◇◇◇
「メフィーネ! メフィーネはいるかい!」
カロリーヌに勝利宣言をしたあの日から、数か月。メフィーネは早くも、限界を感じ始めていた。
「アルヴィク様。メフィーネはここに」
「ああ良かった! 実はね、君に素敵なニュースがあるんだよ!」
満面の笑みを浮かべたアルヴィク。ここ最近そんな表情は見せなかったから、メフィーネはどこかほっとした気分だった。
「それで、どういう?」
「僕もびっくりしたんだけどね。カロリーヌの父君――フォンターナ侯爵が、僕とメフィーネの結婚を祝福すると言うんだ! それで見てよ。このチケット」
「はあ……」
アルヴィクがニコニコと差し出したチケットには、貴族なら誰もが憧れる南方のリゾート地、マーリャス行と書かれていた。侯爵家の印も入っている。
「フォンターナ侯爵が言うんだ。このチケットで一か月ほど遊んできなさいって。これを見せれば、移動の足も現地の滞在費も全て侯爵家払いになるんだってさ! 信じられる?」
「まあ……侯爵様が。あの人はかなり冷酷な方だと聞いていたけど、不思議なこともあるのね」
実際不思議だ。娘に大恥をかかせた二人を祝福して、リゾートで遊んでこいだと?
間違いなく裏がある。
だが、飼いならされた大型犬よりも無様な面を晒しているこの男には、侯爵を疑う気は微塵もないらしい。
うきうきでワインを開けて、「二人の未来に乾杯!」と意気込んでいる。
メフィーネはとても祝う気にはなれなかった。
(あれ以来フォンターナ侯爵家は対外的に沈黙を貫いている。次の結婚相手を探しているのだろうけど、タイミングを計っているようにも考えられる……)
念のため、マーリャス周辺の調査は済ませておこう。そう頭の片隅に書き留めておき、アルヴィクの差し出したワインを飲む。
「珍しい味のワインなのね」
「だろう。所属しているワイン愛好会の秘密のルートで手に入れたものさ」
「……んん、何だか眠くなってきちゃった。ごめんなさい……もう部屋に戻るわね」
ふらつく足取りで階段を上がるメフィーネ。アルヴィクはそれを支えようともせず、ただ後ろから見つめるだけだった。
「……おやすみなさい。マイ・プリンセス」
◇◇◇
目覚めたとき、ふかふかのベッドの上ではなかった。明らかに。
「んー……? ここ、どこ……」
「お目覚めかな、マイ・プリンセス?」
アルヴィクの声だ。メフィーネは身を起こそうとして、右腕が鎖に繋がれていることに気付いた。
「アルヴィク? いるのね、良かった。ねえ、ここどこかしら。こんな暗くて、狭い……牢屋みたいだわ」
「どこって……言ったじゃないか、マーリャスだよ。忘れん坊さんだね。それから牢屋ってのはあながち間違いでもないなぁ」
くつくつと体を震わせる。いつもと違う彼の様子に、背筋を寒気が走った。
辺りを見回すと、そこが暗い石造りの部屋であることに気付く。鉄格子の嵌められた窓から覗く太陽の光はいつもより少し強く、確かに南方のマーリャスであることに間違いはなさそうだった。
「……説明して。これは何の冗談? この鎖も。貴方何かおかしいわ」
「僕は何もおかしくないさ。ここ数年では一番正気だよ」
ベッドに腰を下ろし、メフィーネの肩を優しく抱く。
「あのチケットが来た段階で僕は終わりだったんだ。だからこの状況を利用させてもらうことにした」
「……」
明らかに様子がおかしいアルヴィクに、抵抗する勇気はなかった。黙って彼の言葉を待つ。
「確かに僕はメフィーネが心の底から好きだ。君の容姿を、仕草を、言葉遣いを深く愛している。それらが、君のカロリーヌに勝ちたい、というちっぽけな虚栄心を満たすための小細工だったとしてもね」
「……何を言っているの」
「否定しなくていい。僕の中ではそうであっても構わないんだ。だって、いじらしいじゃないか。僕の気を引くために頑張っているメフィーネはすごく素敵だ。それだけでいい」
顔をくいとアルヴィクの方に向けられる。少し前のメフィーネなら胸を高鳴らせた仕草だろうが、今はそれどころではなかった。メフィーネの全細胞が「この男から逃げろ」と、そう伝えている。
「いやッ! ……離して!」
「そんな顔をしないでくれよ。いや、メフィーネはそんな顔をしていても可愛らしいけどね」
「どうして、こんなはずじゃ……やめて、触らないでってば!」
メフィーネの必死の拒絶も虚しく、アルヴィクもろとも床に転げ落ちる。
「実は鞭も持ってきたんだ」
「ひッ……誰か! 誰かいないの!?」
呼びかけても、重厚な扉の先には誰もいる気配がなかった。
「無駄だよ」
普段とは違う、アルヴィクの声だった。
こんなことになるなら、友人の……親友の婚約者を寝取るなんて、絶対にしなかったのに。メフィーネは心の中で何度もカロリーヌに謝った。
そのときだった。
「どうも~、王宮騎士団の者ですけど。通報を受けてやってきました」
「だッ、誰だ! ここには人除けの魔法をかけていたはず……!」
「誰って、自己紹介したじゃないすか。たった今」
扉を破って入ってきた軽装の男性は、だるそうに頭を掻いた。
不意の乱入者に、緊張の糸がほぐれる。
思考を止めていたメフィーネの頭が、また回り始めた。
(そうよ、これはチャンス! また同じことをすればいいのだわ)
「あの! 私彼に暴行されてるんです! 助けてくださいまし!」
媚びるような声色で叫び、左手でアルヴィクを思いっきり突き飛ばす。
騎士団の男性は困ったような顔をした。
「別に君のために来たわけじゃあないんすけどねえ。まぁいいや、てなわけで。僕は王宮騎士団のゾーイ。アルヴィク・ジュゼッペ、君を拘束します」
一歩部屋の中に踏み込んで、腰の剣を一気に抜きはらう。
アルヴィクが剣幕に押されて後ずさったところをすかさず距離を詰め、一太刀目でアルヴィクの右腕を剣の平で打つ。
短く呻いて腕を押さえたところを、背後に回り込んで首をがっちりと掴み、締め落とした。
ものの数秒で、アルヴィクは気を失って崩れ落ちた。
「なかなか手ごわかったすねえ」
(どこがだよッ!)
内心ゾーイの手際にドン引きしながら、精一杯甘い声を出す。
「あの、騎士のお方」
「なんです? 主人には、罪人とはあんまり口をきくなって言われてるんすけどー……」
「助けて頂きありがとうございます。私、心細くて怖くって――は、『罪人』?」
聞き捨てならない台詞に、メフィーネは思わず固まった。取り繕った声も素に戻ってしまう。
「そーそー。何でしたっけ……さる侯爵令嬢の婚約者と淫らな関係になり、あまつさえ彼と婚約? それに聞いた話じゃ、同じこと何回もやってるっぽいっすね。高額な貢ぎ物を贈らせるとか……おー怖」
天気の話でもするような口振りで、メフィーネの罪が次々と暴露されていく。
メフィーネは青ざめ、弁解しようとした。
「違う、違うの! ちょっと誤認があるみたいだけど、断じてそんな……」
「今更なーに言ってんすか。罪人は罪人っすよ」
けらけらと笑いながら、額を軽く小突かれる。
「でもだいじょーぶ! 主人は寛大なお方っすからね。罪人を更生させるプログラム? 的なのも用意してるんすよ!」
「こう……せい? それって、どんな」
「えー、聞いちゃいます?」
ゾーイはもったいぶるようにそう言うと、メフィーネの耳元に口を寄せて囁いた。
「ずっと主人のために働いてもらうんすよ。死ぬまで、夜鷹のように」
それだけ言うと、ポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。
固く握られていてよく見えない。
「ああ、これはあいつが使ったものほど危険じゃないんで。効果はせいぜい二、三日ってところすよ」
メフィーネの不審が伝わったのか、ゾーイは軽く笑った。
「じゃあ、おやすみなさい」
肩に鋭い痛みが走る。それが針のようなものに突き刺された痛みだと理解しながら、メフィーネはまたもや眠りへと落ちていった。
◇◇◇
「ううッ……ここ、どこ……? なんかデジャブのような……」
「おはよう、メフィーネ」
聞く者の背筋を伸ばさせるような、高貴な声。幾度となく学園で聞いた、あの忌々しい声。
視線を上げた先に、座っていたのは、カロリーヌだった。
隣には、父・フォンターナ侯爵。冷ややかな笑みをたたえているカロリーヌとは対照的に、能面のように表情がない。
質素で品の良い部屋だ。フォンターナ家の一室だと、メフィーネは推測した。
「なんで……カロリーヌが」
「驚いた? 私って婚約者を奪われた可哀想な女だものね。部屋でめそめそ泣いているのがお似合いよね」
カロリーヌの声は、妙にすっと頭の中に入ってくる。意識が冴えてきたところで、自分がソファに座らせられていることに気付いた。
「あっ……貴女もあの趣味の悪い男と同じことをするの?」
「同じこと? 罪人アルヴィクが何をしたのか詳しくは知らないけれど、手荒な真似はしないわ。安心して」
一ミリたりとも安心できない。何せフォンターナ侯爵が毎秒のように殺気を飛ばしてくるのだ。
「……カロリーヌ。許してもらえるとは思ってないわ。でも、私も必死だったの。それに……本当は、貴女が妬ましかった。いつだって私に無いものを持っている貴女が」
「ええ、ええ、分かっているわメフィーネ。だからね、これは救済措置。フォンターナ家のもとでずうっと働いてもらうのはどうかと思って」
天女のような甘い提案。罪の重さから考えて、断れば死刑もあり得るかもしれない。
この『救済措置』とやらに頼らない選択肢はなかった。
「何でもするわ。罪を償えるのなら」
「まあ良いお返事! じゃあ最初に、貴女には王宮騎士団に入団してもらうわ。王太子様が、人手が足りないって」
「騎士団? でも……私では難しいわ。この細腕じゃ」
「何も剣を握るだけが騎士団の仕事じゃないわ」
カロリーヌは立ち上がり、ソファに座るメフィーネの後ろへと移動すると、首にするりと手を回した。
弄ぶように囁く。
「貴方の美しい腕なら、国家の敵を抱きしめられる。貴方にやってほしいのはそういう類のお仕事。でしょう、父様」
「その通りだ」
侯爵が重い口を開いた。
「我がフォンターナ侯爵家は、代々王家を裏から支える任務を拝命している。我が娘も当然その訓練を積んでいる。だから我々は驚いたのだ。あのドラ息子を、我が娘から奪った女がいると聞いてな」
「最初は他国のスパイを疑ったわ。公爵令息となれば情報の宝庫だもの。でも、正体はただの見栄っ張りな子爵令嬢だった」
「二人でお前の手際に感心した。この逸材を囲わぬ手はない。そう結論付けた」
「あのチケットは上手くアルヴィクを嵌めるために使ったの。あの男の執着の強さは知っていた。だから逃げるチャンスを与えれば、すぐに貴方を監禁して表舞台から姿を消すと考えた」
「彼の借りた監禁部屋も、私達が素性を隠して提供した。そうそう上手く見つかるものではないからな」
ここまで全てこの親子の掌の上だったという事実に動揺し、メフィーネは体の力が抜けてしまった。
項垂れるメフィーネを、カロリーヌは慈しむように撫でる。
「お仕事、お願いね。尊敬してるわ、メフィーネ」
「……ええ」
カロリーヌはその返事に嬉しそうに微笑むと、傍に控えた従者に合図を送る。従者が扉を開くと、何人かの騎士団員が部屋に入って来た。
「で、首尾はどうなったんすか? お嬢」
「後輩が増えるわ、ゾーイ。おめでとう」
「こいつの面倒見るの嫌っすよ俺は……」
ゾーイはメフィーネを一瞥すると、やれやれといった風に首を振った。「ほら行きますよ」と声をかけ、メフィーネを連れていく。
手駒を増やした策略家の二人は目を合わせてほくそ笑んだ。
◇◇◇
「まさか、婚約者を奪った『その後』があるなんてね。しかも結局あの女の言いなりかあ」
まあいい。
メフィーネはヒジャーブを巻いた。東方の女性は髪を隠すために巻くのだそうだ。
「こうなったらなるようになれ、よ。せめてあの激重男から助けてもらった恩位は返さなきゃね」
メフィーネは初任務に向けて、砂漠を一望した。
与えられた密命は、東方王家への潜入調査である。




