愛の傷
北見健司 二十七歳。
朝、スマホのアラームで目を覚ました。
お湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れ、ソファに座る。
……その後何をしたかは覚えてないな。ただ、気付いたら出かける時間だった。
「着替えるか……」
俺はそう呟いて、ジャケットを脱ごうとした。
……ジャケット?
ふと見ると、ネクタイをしている。
「着替えたのか……」
俺は飲みかけのコーヒーをそのままに、玄関を出た。
街は今日もガヤガヤしているようだ。
……俺には何も聞こえない。
決められたルートで会社に行く。
会社に着いたら挨拶をする。そして仕事を始める。
俺はデキる営業マンだった。
……いや、今もそれはそうなのかな。
昨日も新規の契約をとったし、今日も十四時から商談のアポイントがとれている。
その商談の準備も万全だよ。多分、二日続けての契約取得になるだろうな。
夜に戻ってきたら、課長は俺を褒めるだろうよ。"よくやった"ってね。
どうでもいいわ……
そう……今の俺にはもう、全てがどうでもいい……
「昼メシ食って、そのままクライアントのところに行ってきます」
俺は課長にそう言って会社を出た。
フラフラと街を歩き、俺は喫茶店に入った。
ーーあいつと、よく来た店ーー
昼時だけど、この店はガラガラだ。よく潰れないでやってるよ。
俺は四人掛けのテーブル席に座った。
ウェイトレスが水とメニューを持って来て、
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」
そう言って去って行った。
俺はメニューを開いた。
……………………………
「あの……」
声を掛けられ、ハッとした。
「ご注文はお決まりですか?」
さっきのウェイトレスだった。
俺はメニューを開いたまま固まっていたようだ。
「あ、ああ……ナポリタンのセット。アイスコーヒーで」
ウェイトレスにそう答えたが、正直、食うものなんかなんだっていい。
誰も座っていない、向かいの席を見つめた。
『私、パンケーキのセット』
『は? ちょっと待て、昼メシだぞ? パンケーキはおやつだろ?』
『本当、健司ってダサいよね。今どきの女の子は、ランチにパンケーキ食べるのよ』
『……俺には理解できん』
「アイスコーヒー、お待たせ致しました」
「え? あ、ああ……」
向かいの席を見る。やっぱり誰も座っていないよな……
夏美とは大学の同級生だった。
俺はそんなに友だちも多くはなく、ひとりでいることが多かった。面倒臭いからな。
『なぁ健司、俺さ、テニサー入ろうと思ってんだけどさ。一緒に入らね? あそこ普通に可愛い子多いんだよ。お前ももっと青春しよーぜ。マジで』
少ない友人のひとり、和真が俺をサークルに誘ってきた。
一度は断ったよ。テニスなんかやった事もないし。
『バカだな、テニサーっつったって、テニスなんかやらねぇよ』
ま、テニスサークルがテニスをやらないのは知ってたけどさ……
そんなこんなで、結局俺もテニサーに入ったんだ。
夏美は本当、名前の通り"夏"みたいな女だった。
陽気で、自由で、奔放で。そして……
ーー眩しかったーー
俺はどんどん夏美に惹かれていったよ。
俺にとって"恋愛"なんて億劫なものでしかなかった。
初めての気持ちに戸惑ったなぁ……認めようとしなかったしね。
……でも無理だった。
多分この時初めて、"感情はコントロール出来ない"ってことを知ったんじゃないかな。
告白したのは四年の夏。
"卒業したら会えなくなる"、そんなことを意識するようになった頃だ。
夏美は一瞬驚いた顔をしてたな。でもすぐに、
『いいよ。付き合お』
そう言ってくれた。
正直信じられなかったけど、嬉しかったっけな……
二人とも東京に就職が決まって、卒業後に一緒に出てきた。
たまたま同じマンションの二階と四階が空いていて、俺が二階を、夏美が四階の部屋を借りた。
今思うと、わざわざ部屋を二つ借りることなかったよな……
ほとんど同棲みたいなもんだったし。
「お待たせ致しました」
ウェイトレスがナポリタンを持ってきた。
「あ、ああ……どうも……」
「ごゆっくりどうぞ」
さっき持ってきてくれたアイスコーヒーには、ストローすら刺していない。
氷が溶け、上の方にうっすらと透明な層が出来ていた。
俺は紙の包装を破いてストローを取り出し、グラスの中をかき混ぜた。
カラカラカラン……
『ねぇ健司。私たち、結婚するでしょ?』
『はっ? な、なに?』
『なに? しないの?』
『あ、いや……す、するけどさぁ……なんて言うか、もうちょっと、こう……』
『私、子供たくさん欲しいな』
『お前、俺の話聞いてねぇな』
『十人』
『十人? まさか野球チーム作るなんて言わねぇよな?』
『えへへ、当たり』
『当たりって……そんな事、本気で考える奴いるか?』
『いるよ、ここに』
『たいたい、十人じゃひとり多いじゃん』
『だって、ピッチャーは二人いた方がいいじゃない』
『…………本気っぽくて怖いんだけど……』
そんなバカみたいな話をしたのも、確かこの席じゃなかったっけ。
あいつはいつも唐突に、とんでもない事を言い出すんだよな。
"あの時"も……
フォークにナポリタンをに巻き付け、口に運ぶ。
口に入れたナポリタンを噛み砕き、飲み込む。
そんな、作業のような食事の後は……
なんか、空中を見つめてたな。たまにアイスコーヒーに口をつけて。
そこにスマホの着信。
「北見です。…………はい、お世話になっております。…………はい、十五時に変更、かしこまりました」
これから会うクライアントからだった。
時間の変更の連絡。
夏美も俺も海が好きで、二人でよく行ったよ。季節に関係なくね。
サーフィンなどのマリンスポーツをやるわけではない。
ただ潮風に当たりながら、波打際を歩いていた。
そして"あの時"、夏美はふと足を止めたんだ。
『私たち、終わりにしよう』
『……えっ?』
最初は何を言われたのか分からなかった。
『な、なんで?』
『もう終わりにしよう、私たち……』
『だからなんでだよ!?』
俺は声を荒らげた。動揺してたんだろうな。
『他に好きな男でも出来たのかよ?』
『そうじゃない』
『じゃあなんでだよ!』
俺は同じことしか聞けない。
夏美は何も答えない。
『ごめん、私、先に帰るね』
そう言って歩き出した夏美を、追うことが出来なかった。
なぜか、体が動かなかった。
……それから、灯りがつかない四階の部屋。
俺は会計を済ませて外に出た。
今日も街は慌ただしく、そしてせわしなく動いている。
人の声……車の音……
風の声……街の音……
俺には何も見えないし、何も聞こえない。
"あの時"、俺の手のひらから世界が零れ落ちた。
思い出は、波がさらっていった。
癒えることのない傷。
二度と立ち上がれないほどの傷みを受けながらも、人はそれを受け入れていく。
俺は腹に食べ物を詰め込み、意味のない仕事を繰り返す。
追いつけない悲しみを残して。
今日も……明日も……
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『愛の傷』は1話完結の短編小説ですが、現在長編小説『薔薇のオルゴール 〜次はあなたが傷つけばいい〜』を連載しています。
そちらも読んでいただけると嬉しいです。




