【Scene 5】――夜の紅茶と決意
館内の音は遠く、時の流れはゆっくりと溶けていく。
燭台の炎が揺れ、壁の影が綾を描く。夜はいつも真実をやわらかく包むものだが、ここでは真実も毒も同じ香りを放っている。
リリアが静かに退出した後、自室には二人分の温度だけが残された。
クラリッサは扉が閉まるのを聞きながら、ゆっくりと紅茶を淹れ始める。湯気が立ちのぼり、茶葉の香りが部屋の隅々を満たす。所作は完璧で、まるで舞台のワンシーンのようだ——だが、手つきには雑さがない。殺し屋の所作は、どんな所作でも映えるらしい。
テーブルの上には、小さな銀の箱。
開けると、そこには今夜倒れた令嬢リゼットの髪飾りが一つ、静かに横たわっている。血はない。だがそれが“証拠”であることは、紙より重かった。
「悪役令嬢、断罪エンド、婚約破棄。ふふ、どれも味が薄いわね。」
声は寝室の空気に溶け、カップの縁に映る自分の顔を見つめる。鏡の中の微笑みは、昼間のそれと同じように柔らかいが、目の奥には刃の冷たさが光っていた。
クラリッサは茶器にそっとカップを重ね、紅茶を一口含む。温度が舌に当たる。雑味のないおいしさの裏に、わずかな苦みが忍び込んでいる。彼女はその苦みを知っている。慣れているのだ。
窓の外、庭の紅薔薇が月光に銀を帯びて光る。風が吹き、花弁がひとひら、遠くの噴水へと舞い落ちた。花弁は水面で円を描き、小さな波紋を広げる。波紋はやがて消えるが、その消え方にさえ意味を見出すのが、古い職業の悪い癖だ。
「どうせ転生したのなら、物語ごと“暗殺”してやろう。」
呟きは静かだが硬く、決意を含んでいた。彼女はカップをテーブルに置き、髪飾りを指先でつまんで持ち上げる。銀細工の裏側には、小さな刻印——誰も気づかないような瑕。だがこの国の物語は、そんな瑕からも崩れる。
クラリッサは微笑んだ。笑顔は優雅で、そして狡猾だ。まるで午後の紅茶を楽しむ淑女そのものだが、その嘴角の上がり方には「計画」という言葉が隠れている。
「運命という台本を役者の都合で書き換える……それも、悪くないわね。」
彼女は椅子から立ち上がり、窓辺へ寄る。外の夜気が頬を冷やす。遠くに聞こえる街の喧騒は、この館の壁を越えて届かない。ここだけが時間を別に生きているようだ。
クラリッサは心の中で台本をめくる。すでに起こったこと、これから起こるであろうこと、人々が期待する“悪役令嬢”の末路。ページを一枚一枚破るように、その結末を否定していく。いま彼女が欲しいのは生き延びることでも、ただの復讐でもない。物語そのものの掌握だった。
リリアが置いていった小さな紙切れ——侍女が慌てて忘れた“今夜の配膳表”を取り、クラリッサは軽く笑う。配膳の順番、料理の温度、給仕の動線。すべては人の動きと心理に結びつく。あらゆる舞台装置は、裏を返せば罠になる。
彼女は髪飾りを箱に戻し、紅茶をもう一口すする。
カップの底にわずかな茶葉が沈む。茶葉は残り香を吐きながら静かに沈んでいく——まるで、これから仕掛ける“さざ波”のように。
「まずは評判からね。評判は刃よりも鋭い。切れ味が良ければ、相手は自ら退場するものだわ。」
そう言って、クラリッサは窓の外の紅薔薇に向かってそっと微笑む。花弁がまた一枚落ちる。彼女はそれを見て、最後に小さく呟いた。
「いいわ。では、舞台の幕を下ろす時間を決めましょうか。」
絹のシーツと鉄の記憶の間で、彼女の笑いは静かに広がっていった。紅茶の香りに混じるのは、ほんの少しの鉄の匂い——明日の朝は、世界が少しだけ変わっているだろう。
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Scene5終幕一行:
> 夜の紅茶は冷めるが、決意は冷めない。私の仕事はこれから始まるのだ。




