【第7章】裏切りの傲慢【Scene1:〈傲慢〉の名を継ぐ者】 ――王都・中央広場/灰の雨の昼
灰が、雨のように降っていた。
人々の声が遠のき、鐘の音さえ、灰に溶けていく。
クラリッサは傘も差さず、ただ紅茶を手に、石畳の広場を歩いていた。
紅い薔薇の紋章が首筋に微かに光る。
その周囲だけ、灰が触れる前に蒸発していく――死神の余熱のように。
「静かね……死の気配が美しいわ。」
リリアが慌てて隣を走る。
「お嬢様!灰の中で紅茶飲む人います!?」
「香りが落ち着くのよ、リリア。灰にも礼儀ってものがあるわ。」
「その“礼儀”が命懸けなんですよ!?」
そんな軽口を交わす間にも――空気が、音を失った。
風も消え、群衆の動きがぴたりと止まる。
瞬きの途中で凍ったような静寂。
ただ一人、その中心に立つ銀髪の少女だけが動いていた。
銀糸の髪、琥珀の瞳。
冷たい整然さの中に、わずかな狂気を含んだ微笑。
エレナ。
かつてクラリッサが教え、最も愛し、最も失った弟子。
今は協会の〈傲慢〉を冠する、幻術の頂点。
彼女の声が、空気そのものを震わせた。
「師匠。あなたの存在は“紅薔薇再誕の器”として保護される。
……それが、協会の最終命令です。」
クラリッサは紅茶のカップをゆらりと揺らし、紅の波紋を作る。
その瞳には懐かしさと、退屈がないまぜになっていた。
「命令? ええ、聞き覚えはあるわ。いつも、私の首を刈る側だったものね。」
「……あなたが再び死を拒むなら、今度こそ“殺す”しかありません。」
「まあ。成長したわね。最初の頃は“殺せない”って泣いてたのに。」
エレナの表情が、微かに揺れた。
だが次の瞬間、世界が音を立てて裏返る。
灰の雨が止まり、空が裂ける。
王都の街並みが反転し、上下が曖昧に崩れ――鏡のような空間が広がる。
「……幻術展開、〈灰鏡界〉。」
エレナの声とともに、現実が滑り落ちる。
紅茶のカップがふわりと宙に浮かんだ。
灰の粒とともに、液体が逆流している。
テーブルも椅子も、上下がひっくり返りながら静止する異様な光景。
リリアが悲鳴をあげた。
「お嬢様っ!紅茶が空中を泳いでます!?」
クラリッサは涼しい顔でそれを眺める。
「ええ、重力に逆らうほど香りが強いのね。」
ルシアンが肩を押さえながら叫ぶ。
「物理法則より紅茶優先ってどういう判断です!?」
「美学の問題よ。」
クラリッサは微笑んで、指先で空を撫でた。
逆さの雨がその指先で止まり、紅に染まる。
エレナは沈黙のまま、杖を構えた。
その瞳には迷いがなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ――灰の中に、光る紅が揺れる。
“彼女の幻は冷たく、しかしどこか懐かしい。
かつて教えた『死の礼儀』を、今は武器にしている。”
そして、灰の世界が、ゆっくりと紅に染まり始めた。
――師と弟子の、再会が告げるのは。
再誕か、それとも破戒か。




