9話
娘さんは、膝の上で小さく丸めた手を見つめていた。
私の言葉――「あなたの心から欲しかったものは、ここにはなかった」――に、
静かに反応を示したまま、少しの間、部屋には沈黙が流れていた。
そして、ふと、うっすらと涙を浮かべた彼女が、口を開いた。
「……ほんとは、動物のお医者さんになりたかったの」
「でも……“女の子がそんな仕事する必要なんてない”“安全で尚且つ手に職がある方が良いわ”って、言われて」
言葉の端々が、震えていた。
長い間、胸に閉じ込めていたものを引きずり出すように、ゆっくりと。
「それに……服も、道具も、部屋も、全部“お母さんが選んだもの”だった。綺麗だけど……ずっと、ここが“自分の部屋”って思えなかった」
そのとき、ドアの向こうで聞き耳を立てていた母親が、音を立てて入ってきた。
「何を言ってるの。馬鹿らしい」
ぴしゃりとした声が、空気を裂く。
「あなたのためを思って、どれだけ尽くしてきたと思ってるの? 一流の道を選んであげたのに、そんな幼稚な夢に縋って……」
娘さんの顔が強張る。
私は、母親を止めようとはしなかった。
けれど、彼女の横をすっと通って、部屋の中央に置かれた椅子に静かに腰かける。
「……ねえ、今、どんな気持ち?」
娘さんに、そっと問いかける。
彼女は震える声で答えた。
「悔しかった……嬉しかったはずの誕生日プレゼントも、なんだか“私へのご褒美”じゃなくて、“理想の娘に育てた自分へのご褒美”みたいで……」
「いつからか、“ありがとう”も言わなくなった。“嬉しい”って感じなくなった」
「だって、私の“好き”なんて、どこにもなかったから」
その言葉に、母親がなにかを言いかけて口をつぐむ。
私は静かに続けた。
「……お母さん。お嬢さんが“自分の部屋”だと思えなかったって…ここまで綺麗に整えられていても、心が置き去りだと“居場所”にならないんです」
娘さんの肩が、こくりと揺れる。
「……でも」私は言った。
「だからこそ、今、言葉にできたことが、大切なんです」
「心の中を片付けて、置きっぱなしになってた“本音”を、ちゃんと自分の手で取り出せた」
沈黙の中、娘さんの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
堰を切ったように、彼女は泣きながら言った。
「私……お母さんが怖かった! 嫌われるのが怖くて、笑ってた!」
「でも、夢がなくなってくのが、もっと怖かった!」
「私は……! 自分の人生を、生きたかった……!」
部屋に、彼女の嗚咽が響く。
私は何も言わず、ただその音を聞いていた。
否定もせず、肯定もしすぎず、ただ、空気を整え、涙の居場所を守る。
しばらくして――
「……そんなふうに思ってたのね」
母親の声が、震えていた。
「あなたが黙ってるのは、わかってくれているからだと……ずっとそう、思ってた」
娘さんが泣きながら、ゆっくりと母の方を見る。
「私……間違ってたかもしれない。ごめんなさい」
母の手が、ようやく彼女に向けて伸びた。
ぎこちなく、でも、ちゃんと。
娘はその手を握り返した。
その指のあいだに、しばらく前から光っていた“スキルの光”が、ふっと広がっていく。
暖かく、優しいぬくもりが、部屋の空気を包み込んだ。
まるで、この部屋に初めて“春”が訪れたように。
ーーー
帰り道。
私は一度だけ、振り返ってその家を見た。
綺麗なだけだった家が、今はほんの少し、“誰かの居場所”に近づいていた。
「……きっと、もうすぐ、この家にも風が通うようになる」
私はそっと呟いて、坂を下っていった。
その夜。
私は過保護な母と娘の家を後にしたとき、あの娘さんが私に言った言葉を思い出していた。
「……本当は、黙って居なくなっちゃおうかってずっと思っていたの。それが微かな希望だった。でも、もうちょっとだけ、この家にいてみようかな」
あれは“誰かに話してもいい”と心が決めた人だけが言える、小さな勇気だった。
そんな日の翌朝。
私のもとに、小さな“手紙”が届いた。
羊皮紙に震えるような文字で、短くこう綴られていた。
《……たすけて ほしいです。》
たった一行。でも、にじむような筆跡に、
どれだけの“ためらい”と“決意”が込められていたか、私はすぐに分かった。
あの娘のように。
あの老人のように。
この手紙もまた、勇気のかたちなのだ。