8話
市場の一角で、私はおばあさんと並んで座っていた。
そよ風が吹き、どこからか焼いたパンのいい匂いがしてくる。
けれど私の心は、老人の家を訪れてからずっと、どこか落ち着かなかった。
「……あの後、何かお変わりはありましたか?」
そう尋ねると、おばあさんはにこりと微笑んで頷いた。
「変わったよ。あのじいさんな、庭に花を植え始めたのさ。奥さんが好きだったやつを」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。
“片付ける”ことが、物を捨てることじゃなくて、
“心を見つけてあげること”だと、私はようやく分かってきた気がしていた。
おばあさんは、そんな私の顔を見てから、ふと真剣な表情に変わった。
「……実は、あんたにお願いしたい家があるんだよ」
そう言って話し始めたのは、とある母娘のことだった。
母親は村でも評判の“しっかり者”。
誰よりも働き者で、娘の教育にも一切の妥協を許さない。
高価な道具、質の良い服、きれいな部屋、立派な習い事。
「娘のために」と、彼女は惜しみなく与えてきた。
……けれど、その娘は、今――
何も話さず、誰にも心を開かず、
ただ“いい子”の仮面をかぶって、生きているらしい。
「部屋はきれいなんだよ。ゴミ屋敷でもなんでもない。でも……あたしは、あの子の目が怖いんだ」
おばあさんはそう言って、静かに目を伏せた。
「なにかが、詰まってる。……でも、見えないのさ」
私は迷わず、家の場所を教えてもらった。
“見えない”ものこそ、いちばん大事なことかもしれない――
この旅で、そう思うようになっていた。
ーーー
小高い丘の道を登り、立派な門構えの家にたどり着いた。
庭は整然と手入れされ、花が規則正しく咲いている。
ドアをノックすると、すぐに中から女性――娘の母親が現れた。
背筋をぴんと伸ばし、無駄のない動きで私を迎える。
「お話は伺っております。まあ、散らかってはおりませんけれど……どうぞ」
家の中も、その言葉通りだった。
整えられた家具、埃ひとつない床、飾られた賞状、見事な刺繍入りのカーテン。
まるでモデルハウスのような空間。
でも、私はすぐに違和感に気づいた。
ここには、“誰の気配”もない。
人が住んでいるはずなのに、生きている気配がない。
完璧なのに、冷たい。
そんな家だった。
「娘さんは……今?」
「あの子は、部屋で勉強中ですわ。来年には都の高等学舎に行かせますの。将来は立派な公務員か、医者がいいでしょう。安定していて誇れる職ですから」
母親は誇らしげに語った。
「夢」という言葉は、どこにもなかった。
私は案内されて、娘の部屋へと向かった。
ドアの前で立ち止まり、小さく深呼吸する。
「……ごめんください。少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
中から、かすかな声が返ってきた。
「……どうぞ」
扉を開けると、そこもまた見事な整頓ぶりだった。
机には高級な筆記具。棚には専門書。壁には資格の認定証。すべてが“正しい”。
だけど、その部屋の主――娘さんの目は、虚ろだった。
椅子に座ったまま、私を見ず、口元だけが動いた。
「……どれもこれもお母さんに言われたからやってるだけ。……私がやりたいわけじゃないの」
私は何も言えなかった。
ただ、そっと部屋の中を歩いて、机の引き出しを開けてみた。
一番奥に――スケッチブックがしまわれていた。
ややぼろぼろになったそれは、きっと昔のものだろう。
中をめくると、幼い字と絵が並んでいた。
「わたしは、どうぶつのおいしゃさんになりたい」
「わんちゃんも、にゃんこも、たすけたい!」
色鉛筆で描かれた笑顔の動物たち。
それは、誰に気を使ったわけでもない、ただ“好き”という気持ちで描かれたもの。
私はスケッチブックに手をかざす。
スキルが、ほのかに光った。ぬくもりが広がり、部屋の空気がやわらかく変わる。
その変化に、娘さんがはっと顔を上げた。
「……それ、どこで……?」
「引き出しの奥に。……あなたの、気持ちがしまってあった」
私はやさしく答える。
「この部屋、とっても綺麗。でも、あなたの“心から欲しかったもの”は、きっと……ここには、なかったんだよね」
娘さんの目に、ふっと涙が浮かんだ。
その涙は、きっと――誰にも見つけてもらえなかった、心の声だった。
この家は“ゴミ屋敷”じゃなかった。
でも、見えない“心の居場所”が、ずっと閉じ込められていた。
“片付いている”ようで、
本当に大切なものが、置き去りにされている家―