7話
午前の光が、古びた窓から差し込んでいた。
埃を舞わせながら、部屋の片隅をやさしく照らす。
私は黙々と手を動かしていた。
何も聞かず、何も言わず。ただ、目の前の“もの”と向き合っていく。
空き缶の中に、手紙が一枚。くしゃくしゃになった便箋には、途中で破られた言葉の残骸。
キッチンの隅には、開けかけの箱。中にはペアマグカップがひとつだけ残っていた。
捨てられないまま、ただ“そこにある”。
…それだけで、痛みは、確かにそこに息づいていた。
ふと――背後から、かすかな声が聞こえた。
「……なんで、私は……」
振り返ると、彼女は、ずっと抱えていた膝に顔を伏せていた。
「なんで、私だけ……こんな目にあうの……?」
その声は、涙のにじんだ、かすかな、かすかな本音だった。
「信じてたのに。毎日、頑張ってたのに。
お弁当も作って、洗濯して、笑って……。
……それでも、“あの人”は、他の人のところに行ったの」
私は何も言わず、膝をついてそばに寄った。
彼女の目は、遠くを見ていた。
泣いているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、何かが“壊れて”、止まったままの人の目だった。
「……全部、無駄だったのかな。私の毎日も、気持ちも。あの人に言った言葉も、笑ったことも……」
私は、そっと手を伸ばした。
“スキル”が、指先にじんわりと灯る。
でも今は、何も消さない。
ただ、そっと――彼女の手の上に、自分の手を重ねただけだった。
「……無駄じゃ、ないです」
彼女の肩が、かすかに震えた。
私は続ける。
「あなたの過ごした時間も、想いも。
それを“残していた”この部屋も――あなたが、ちゃんと愛していた証拠です」
彼女は俯いたまま、こくりと小さく頷いた。
私はそっと、もう一度手を重ね直す。
そのぬくもりは、前よりもさらに深く、優しく、包み込むような光になっていた。
すると――
彼女の目から、一筋の涙が落ちた。
無言のまま、頬をつたって、静かに床に落ちる。
それはまるで、こぼれた悲しみを、“自分自身”に返していくような涙だった。
その涙のあと。
彼女は小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
その声は、かすれていたけど。
確かに、何かがほどけた音がした。
私は、そっと頷いた。
そして、もう一度、部屋の片付けに戻った。
この空間に、少しずつ、光と風が戻ってくる。
失われた時間を、静かに――優しく、取り戻すように。
午後の陽が、部屋の中をゆっくりと移動していく。
さっきまで重たかった空気が、少しずつ柔らかくなっていた。
彼女は、まだ床に座ったまま、手元を見つめていた。
私は、手近な棚を拭きながら、そっと声をかけた。
「……これ、一緒に畳んでもらえますか?」
差し出したのは、洗いざらしの布の山。
しわくちゃだけど、やわらかな肌触りのものばかりだ。
彼女は一瞬だけ迷ったような顔をしたけれど、そっと手を伸ばして、布を受け取った。
そして、ゆっくりと、畳み始める。
ぎこちない手つき。でも、その手は確かに“今”を生きていた。
私はそっと微笑む。
やがて、彼女がふと立ち上がった。
そして、玄関の方へ歩いていく。
「……少し、風を通したい」
彼女がそうつぶやいて、ギイッと玄関を開けた。
途端に、初夏の風が一気に吹き抜ける。
カーテンがふわりと揺れて、部屋の埃を巻き上げ、どこかへ運んでいった。
「……こんなに風、気持ちよかったっけ」
彼女がぽつりとつぶやく。
その顔は、ほんのすこし――少しだけど、確かにほころんでいた。
私は、そっと立ち上がった。
「庭の花……水、あげてきてもいいですか?」
彼女が驚いたように私を見たあと、恥ずかしそうに笑った。
「……それ、私がやるわ」
そう言って、彼女は玄関の傍にあったジョウロを手に取った。
水を入れる音、ジョウロがきしむ音。
そして、庭に出て、久しぶりに土の匂いを吸い込む彼女の横顔。
彼女の動きには、まだ痛みの影があった。
けれど、その奥に――
小さな“希望”が、ゆっくりと芽吹いているのを私は感じていた。
家の中に戻って、私は最後に一つだけ残った棚を開ける。
中には、古びた絵が入っていた。
絵の中では結婚式の日の彼女が写っていた。
…けれど、そこには、もう“呪い”のような気配はなかった。
絵の中の笑顔を、私はそっと見つめる。
「これは…残しておいてもいいかもしれないですね」
ふと戻ってきた彼女がのぞき込む。
少し迷って、でも最後には――静かに頷いた。
その日、片付けは終わった。
けれど、たぶん、本当に大事だったのは“心の片付け”だった。
玄関先で彼女が言った。
「……ありがとう。私、少しだけ、進めるかもしれない」
私は、そっと笑った。
「ええ。大丈夫です。あなたなら、きっと」
彼女が初めて、まっすぐ私の目を見て笑った。
それは、曇っていた空に、ようやく一筋の光が差したような笑顔だった。
ーーー
こうして、またひとつ、“居場所”が救われた。
でもきっと、まだこの世界には、心をなくした家がたくさんある。
私は、また歩き出す。