5話
その家は、初めから“空気”が違った。
木の門には、風に晒され色あせた布が垂れている。
玄関脇のふたつの椅子は、片方だけがやけに埃をかぶっていた。
扉を叩いた時も返事はなかった。
老人とは一言二言会話をしたが、目は虚ろで"ここ"
に生きていないように感じた。
「……入りますね、おじゃまします」
中は、かつて誰かが確かに“暮らしていた”痕跡に満ちていた。
埃がかぶった椅子。皿の乗ったままの食卓に写真立て。
散らかってはいたけれど、どこか「そのまま時間が止まってしまった」ような空間だった。
そして、食卓の端に置かれた、干からびた花束――
「……ずっと、このままだったのかな」
そっと近づいて触れようとしたその瞬間、また、胸の奥が“ふわり”と温かくなる。
スキルが反応している。
けれど今回は、前のようにすぐに光ることはなかった。
「……?」
指先に宿る“ぬくもり”は、静かに、ゆっくりと鼓動のように脈打っている。
それはまるで、「急がないで」「ちゃんと気づいて」と言っているようだった。
「そうだよね、これは……誰かの、大切な記憶だもんね」
私は、そっと花束を手に取り、隣の椅子の埃を払った。
その瞬間――
ぽん、と手のひらに光が灯る。
けれど、それは何かを“消す”ためのものではなかった。
むしろ、そっと撫でるように、ぬくもりが空間を包み込みはじめた。
「……癒してるの?」
自分でも、言葉にしてはじめて気づいた。
この家に必要なのは、“片付け”ではなく――“癒し”だったのかもしれない。
私は時間をかけて、ひとつずつ触れていく。
シミだらけのスカーフ。破れた便箋。埃をかぶったレコード。割れてしまった茶碗。
どれも、何気ないものだった。
けれど、手に取るたび、少しずつ、スキルが温かく反応する。
まるで、「ちゃんと触れてくれてありがとう」と言ってもらえるみたいに。
そのうち、古びた本棚の裏から、小さな木箱が出てきた。
開けると、手紙が入っていた。
震えるような文字で綴られた、“奥さんからご主人への最後の手紙”。
「おじいさんへ
あなたの笑った顔が、私は一番好きです。
あなたが独りになっても、どうか、心は寂しくなりませんように。
あなたなら、きっと、誰かをまた笑わせられる。
私は、ずっとここにいます。」
読み終えた瞬間、部屋の空気がふっと変わった。
ぽう、と、両手が柔らかく光を放つ。
さっきまで消えなかった埃や、重く沈んでいた気配が、静かに粒子となって消えていく。
まるで、ようやく奥さんが旅立つ準備ができたかのように。
その時。
背後から、ぎぃ……と扉が開く音がした。
振り返ると、そこには老人が立っていた。
真っ白な髭。深く刻まれた皺。けれど、どこか人の良さが滲む目。
私は咄嗟に立ち上がった。
けれど、彼は何も言わず、まっすぐに床を見つめた。
さっきまで散らかっていた場所。
今は、光が差し込むように整った空間。
そして、ゆっくりとひとつ、椅子に腰を下ろした。
「……あいつ、笑ってたかい?」
その問いかけに、私は静かに頷いた。
「ええ。とっても、優しい手紙を残していました」
すると、老人は小さく笑った。
それはまるで、ようやく重い荷物を降ろしたような、安堵の表情だった。
「……ありがとうよ」
それは、奥さんのための言葉であり、
そして、自分自身のための言葉でもあった。
――癒しって、片付けのその先にあるんだ。
私はそう、胸の奥で静かに確信した。