4話
一軒目の家を片付けてから、数日が過ぎた。
あの物置の奥で感じたすすり泣くような気配。
そして、静かに粒子になって消えていった、誰かの大切な想い。
あの経験が、今も胸の奥で静かにあたたかく灯っている。
私は、あの家の裏庭で見つけた井戸の水を使って、自分の服を手洗いしたり、身の回りを少しずつ整えながら、家を仮の拠点として暮らし始めていた。
スキルを使って綺麗になった床の上で、小さな火を焚き、簡単なスープを作る。
不思議なことに、この異世界の暮らしは、思っていたよりも心地よかった。
忙しさや孤独に追われていた前の世界より、ずっと穏やかで、自分の呼吸の音さえ丁寧に聴こえる。
ある日、村の市場に足を運んだ。
ありがたいことに女神様が用意してくれたであろうお金もあったが、なるべく手を付けず干し果物や、布端切れ、古い薬草など捨てるものを少しだけ分けてもらいながら、村の人たちと挨拶を交わす。
「おや、あんた……こないだの、あの古家を片付けたって?」
声をかけてきたのは、小柄なおばあさんだった。
くしゃくしゃと笑うその顔は、どこか懐かしい。
「はい。少しだけですけど、なんとか住めるように」
「ほう……まぁ、あの家も長いこと人が寄り付かんかったからねぇ。でも、よくまぁ、あの空気に呑まれずに済んだもんだよ」
おばあさんは、ふと遠くを見るような目をした。
「……似たような空気を纏った家が、もう一軒あるよ。村の外れに、老夫婦が住んでた家があってね」
「ご夫婦……?」
「いや、もう今は、爺さんひとりだよ。奥さんが亡くなってからというもの、ずっと家に籠もりきりでね。誰が行っても門前払いだ」
その話を聞いた瞬間――
胸の奥が、ぴくりと反応した。
言葉にできない、けれど確かに感じる。予感のようなもの。
あの時のスキルのざわめきにも似ていた。
「…その家、行ってみたいのですが…。…どこにありますか?」
おばあさんは少し驚いたような顔をしたが、すぐに静かに頷いた。
「村を出て、小川を渡って左手の坂道を登った先さ。昔は仲の良い夫婦だったんだよ。今も、玄関の横にふたつの椅子が置いてあるはずだ」
その夜。
焚き火の前で、私はあの家で拾ったハンカチをそっと撫でた。
――片付けって、誰かの心と向き合うこと。
きっと、あの人の家にも、向き合うべき“想い”がある。
翌朝、火の消えた焚き火を見て私は立ち上がった。
ーーーー
静かな村の外れ、小さな川を越えた先に、その家はあった。
苔むした石畳の道を抜けると、古びた木の門が現れる。
周囲を囲うのは、手入れされず伸び放題になった植木と、積み上がった木箱や袋。
風が吹くたび、何かがカサリと鳴る。
「あそこだね……きっと」
村の噂で耳にした。
――妻を亡くしてから、あの家の老人はずっと家に引きこもっている。
お金はまあまああったようだから、飢え死にするような事はないとは思うが…誰とも話さず、畑にも出ず、家には物が溢れていくばかりだと。使用人もいるが、食事の準備などの最低限しか関わりを持たせてもらえず、片付けなんてもってのほからしい。
その話を聞いたとき、心のどこかがふっとざわめいた。
「……たぶん、私が行かなきゃいけないんだと思う」
あの手紙とハンカチを胸にしまい、私は門をくぐる。
近づくにつれて、スキルがかすかにざわつき始めた。
家の奥から、かすかに聞こえてくる気配。
それは、誰かが泣いているのでも、叫んでいるのでもない。
ただただ、静かな“諦め”のような空気。
私は扉の前に立ち、軽くノックした。
「……すみません。旅の者ですが、少し、お話を……」
しばらくして、ぎい、と扉がわずかに開く。
中から顔をのぞかせたのは、やせ細った老人。
白く伸びた髭と、深く刻まれた皺。だが、その目は驚くほど澄んでいた。
「……なんだ、お前は。役人でも、隣の婆さんでもないな?」
「はい。どちらでもありません。ただ……お部屋を、少しだけ片付けさせていただけないかと」
老人は、しばらく私の顔を見つめた後、ふうと長く息を吐いた。
「……勝手にすればいい。どうせ、わしにはもう必要ないものばかりだ」
そう言って、扉を開いた。
その瞬間――
強烈な埃と、古い油の匂いが押し寄せてきた。
家の中は、かつての生活の名残に満ちていた。
空になった保存瓶、割れた陶器、新聞紙の束。中には、折れた杖や、使われなくなった編み物道具まである。
そして――
リビングの隅にぽつんと置かれた、ふたつ分の椅子と、埃をかぶった写真立て。
「……奥様の、席ですか?」
尋ねると、老人は一瞬だけ目を伏せ、何も言わず背を向けた。
“この家には、まだ誰かを待っている想いがある”
スキルの反応が、前よりも強くなっていく。
私はそっと手を伸ばした。
「……失礼します。大切なものは、ちゃんと残しますから」
そして、私はまた、片付けを始めた。
今度は――「想いを繋ぐために」。




