3話
「……お邪魔します」
この家に初めて足を踏み入れたとき、私はそう言った。
その一言を口にした瞬間、なぜか家の空気が、ふっと柔らかくなった気がした。
古びた扉の向こうに広がっていたのは、埃と時間に埋もれた“居間”。
畳はほとんど見えず、布団や紙袋、崩れかけた段ボールが山のように積み重なっている。どこから手をつければいいのか、まるでわからない。
けれど、ふとよみがえった言葉があった。
『これからは、少しずつ自分を大事にしましょうね』
――◯シダさんの声。
彼みたいにうまくはできないかもしれない。
それでも私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「……よし。まずはこのソファから、かな」
汚れた布をめくり、崩れた雑誌の束を脇へどかしていく。
カサッと音を立てて何かが崩れ、舞い上がる埃に思わず咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ……でも、なんか、懐かしい匂いかも」
カビ、古紙、布の混ざった空気――なのに、どこか落ち着くような気がした。
そして、ある雑誌の束を持ち上げたとき。
ぽうっと、胸の奥があたたかくなった。
次の瞬間、手のひらがぼんやりと光り始める。
光というより、“ぬくもり”のようなものが、じんわりと指先から広がっていった。
「……これ、スキル?」
思わずつぶやいたその瞬間、重かった雑誌の束が、ふわっと軽くなった。
触れたものが、しゅるしゅると縮んで、やがてキラキラとした粒子に変わって消えていく。
「なにこれ……すご……」
まるで、不要なものだけを識別して、優しく消してくれる魔法のようだった。
家具の下に隠れていた壊れた食器も、シミだらけの布団も、湿った木材も――
すべて、光に包まれて、静かに消えていく。
“空間整理スキル”――女神はそう言っていた。
でもこれは、ただの片付けじゃない。
きっと、「ありがとう、もう大丈夫だよ」と送り出す、“お別れの儀式”。
私は夢中で居間を片付けた。
ひとつひとつ、確かめながら、丁寧に。
そして、最後の一袋をスキルで浄化したとき。
――カラン。
天井の梁の上から、小さな音が落ちてきた。
「え?」
見上げると、そこにあったのは、古びた鍵。
鉄製の、小さいけれど、ずっしりと重みのある鍵だった。
それはまるで、「よくここまで来たね」と言っているようだった。
「……これは、開けなきゃいけないやつだよね」
鍵を握りしめ、私は家の奥へと向かう。
古びた廊下を抜けて、ひときわ重く閉ざされた扉の前に立つ。
そこだけ、空気が違っていた。
冷たく、重く、乾いた空気。
鍵を握る手が、かすかに震える。
「……◯シダさんなら、どうする?」
心の中で問いかける。
すると、いつもの笑顔が浮かんできた気がした。
『荷物には、それぞれの“背景”があるんです』
『ちゃんと向き合いましょう』
『不要なものかどうかを決めるのは、自分でいいんですよ』
脳裏に、イマジナリー◯シダさんの声が響く。
そうだ。誰かにとって“ゴミ”だったとしても、それでも、大切な思い出が詰まっていることがある。
見つけてもらえなかった気持ちも、置き去りにされた涙も、きっと、ここに。
……片付けって、ただ捨てることじゃないんだ。
私はそっと目を開けた。
この鍵が、きっと“次の片付け”への扉を開く。
鍵を差し込み、ゆっくりと回す。
錆びた音とともに、重い木の扉が軋みを上げながら開いた。
暗闇。埃っぽい匂い。そして、胸の奥をざわつかせる空気。
崩れかけた家具や、黄ばんだカーテン、すでに動かない時計――
そこにあったのは、ただのモノではなく、明らかに「想い」の残滓だった。
踏み込んだ瞬間、胸の奥がきゅう、と痛んだ。
「……ここは、“誰かの心の中”なのかもしれない」
すすり泣くような音は、どこかから漏れ続けている。
それは人の声ではなく、この空間そのものが発している悲しみのようだった。
私は、埃をかぶった人形にそっと触れた。
瞬間、またあの“ぬくもり”が手のひらに灯る。
スキルが、応えてくれているような気がした。
ただのゴミを浄化するのではない。
きっとここに残された「感情」を、どうにか受け止めようとしてくれている。
「……ありがとうね。ひとりで、寂しかったよね」
そう呟いてから、人形を優しく腕に抱き寄せた。
すると、胸の奥が熱くなりぽろぽろと涙がこぼれてくる。
これは、誰の涙だろう?
……私の?
それとも、ここにかつていた誰かのもの?
わからないけれど、ただ静かに流れるその涙が、少しずつ空気を変えていった。
壊れた額縁の中の家族写真。擦り切れたカバンの持ち手。
一つひとつを手に取り、話しかけるようにして、光に変えていく。
「ありがとう。……ごめんね」
「寂しかったね。でも、もう大丈夫だよ」
気づけば、すすり泣くような音は止んでいた。
代わりに、かすかな風の音が、空間の奥から吹き抜ける。
それはまるで、空気が“許してくれた”かのような、優しい風だった。
そして最後に残された、小さな木箱。
それを開けると――
中には、古びた封筒と、小さなハンカチが入っていた。
封筒の文字はかすれていたけれど、たしかに名前が書かれていた。
「……この家の、誰かに宛てた手紙……?」
ハンカチには、子どもの名前と思われる刺繍がほどこされている。
私はそっと封筒を胸に抱いた。
「……忘れないよ。ちゃんと、届けるね」
スキルは反応しなかった。
反応しなかったという事はきっとこれは、“手放してはいけないもの”。
たぶん、次に進む鍵なのだろう。
そうして、物置も空気も、静かに落ち着いた頃。
私の身体はすとん、とその場に座り込んだ。
肩の力が抜けて、はじめて気づく。
私も、ずっと何かを抱えていたんだって。
でも、今は少しだけ、自分を褒めてあげたい。
「……できた。やっと、ここまで片付いた」
物置の奥の壁に、ぽつんと現れた“光の扉”。
それはまるで「次の場所へ行きなさい」と言っているようだった。
私は立ち上がり、振り返る。
きれいになった居間も、静かになった物置も。
すべてが、少しだけ「おかえり」と言ってくれたような気がした。
「なにをすべきなのかわからないけど、やるぞ!」