19話
それは、ある静かな夜だった。
あたたかい布にくるまりながら眠りに落ちようとしたその瞬間、胸元で光っていた鍵が、ふっと熱を帯びた。
目を閉じていたはずなのに、まぶたの裏が赤く染まっていく。
――気づくと、私はあの白く透き通った空間にいた。
穏やかに広がる霧の中で、女神様が静かに立っていた。
「……またここへあなたを呼んでしまったわ。」
その笑顔は少しだけ陰っていた。
前のような凛とした優しさはそこにあるのに、今回はどこか怯えるような――自分自身にすら触れたくないような、そんな迷いが見えた。
「次の場所は……わたしにも、手に負えなかったの」
「封じたのは、わたし。でも……本当は、あの炎が怖かったの。自分の中にも、それと同じものがある気がして」
女神様の指先が、小さく震えていた。
「その地にある炎は、ただの炎ではない…そして、ただの魔力でもない。“想い”が形を変えたもの……強すぎる感情が、生き物のように燃え続けている」
「それは悪ではない。けれど、放っておけば人を焼き尽くしてしまうの。だから私は、あの場所を結界で閉ざしたわ」
「でも、もしかしたら…あなたなら……」
女神様の手のひらに浮かび上がったのは、深紅の小さな種のような石だった。
それを受け取った瞬間、熱が胸に灯る。
行くべき場所の輪郭が、はっきりと私の中に焼き付いた。
「あなたなら、共に歩いてあげられる。そう思えたから……」
私は、そっと頷いた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど――逃げないと決めたのは、私自身だった。
ーーーー
山深い場所にある、誰にも知られていない屋敷跡。
獣道のような小道を抜け、霧とゴツゴツした岩に覆われた急斜面を登っていくと、空気が一変した。
温度が上がったわけじゃない。
けれど、空気そのものが、燃えているようだった。
――赤く焼け焦げた屋敷。
壁は崩れかけ、窓ガラスや金属の取っ手は黒く変色している。
一歩入ると、空気がぐらぐらと揺れて見える。視界が歪み、足元の影まで赤みを帯びる。
中には黒くすすが被った家具、焼き尽くされた本棚、そしてそのすみっこには日記のような束が隠すように残されていた。
「これ……」
触れた瞬間、熱が跳ねた。
ぽうっ、と手のひらからスキルの光があふれる。
けれど、違う。
これは、“ぬくもり”じゃない。
光が、赤く染まりはじめていた。
「っ……!」
胸の奥が燃えるように熱くなる。
浮かんできたのは、自分でも思い出したくなかった感情。
――なんで、私じゃなかったんだろう。
――どうしてあの人は、あんなに認められてるのに、私は。
――私だって、必死だったのに。必死だったのに。
「やだ……」
嫉妬、焦り、劣等感、報われなかった記憶。
人を羨んでしまった自分。
そう思ってしまうこと自体が醜くて、嫌で、心の奥に押し込んできた気持ち。
その想いが身体の中で膨れ上がっていく。
その時――女神様の声が、私の背中を包むように響いた。
『あなたが感じたこと、全部、その気持ちごと、受け止めてくれる誰かがいたら、きっと、あなたも――救われた』
『だから今度は、あなたがその人になって』
目の前に、燃えさしのような光が浮かび上がる。
まるで揺らめく炎の精霊のような、それは――
女性の声で、語りかけてきた。
「私の気持ちは……醜かったの」
「だから、全部焼き尽くして消えた方がいいって、そう思ったの」
声が、震えていた。
燃えるほどの嫉妬が、心を壊し、誰も信じられなくなった彼女。
その痛みが、今もこの屋敷に残り、燃え続けていた。
私は言った。
「……狂ってしまいそうなほど嫉妬したこと…ありますよ。私にも」
「誰にも言えなかった。誰かの成功や喜びに、心からおめでとうって思えなくて、そんな自分を情けないって思ったこと、たくさんあって」
「こんなに頑張ったのに…自分を犠牲にしてでも頑張ってきたのにあっさりと使い捨てられて…ぽっと出の誰かに成果を全部持っていかれたり…悲しくて悔しくて…上手く立ち回れる人が…正直羨ましかった。でも…それを認めるのが怖かった…。」
炎の精霊のような女性の声が悲痛な声で言う。
「私っ…愛する人を…親友に奪われて…親友だと思っていたのに…。大事な人たちが結ばれて、祝福してあげられなかった…憎くて憎くて…そんな自分が嫌で…そんな時に仕事でも信頼していた相手からも騙されて…やってもいないことを私のせいにされて…誰も味方がいなくなったの…それで…私っ…」
私は聞いていて涙が溢れてきた。
「まるで道化師になったような気分よね…つらい…けどつらいって認めてしまうとあまりにも自分自身が惨めで…誰にも可哀想って言われたくない。だから落ち込んだ姿も見せられなくて…つらかったよね。」
静かに、日記の束がほどけ、中心から一通の手紙が現れた。
焦げ目に囲まれながらも、読みやすく残っていた言葉。
『……ごめんなさい。わたしはずっと、あなたを羨ましかった』
『でも本当は、あなたと笑っていた時間が、一番好きでした』
精霊の炎が、赤い光となってふわりと揺れた。
「誰かに嫉妬している時…本当は自分にもできるって、その力があるって知っているから嫉妬するの。自分の力を自分がみくびっているのよ。だから怒りが湧いてくる。妬ましいのは本当はあなたもそれが出来るから。それに、自分の本当の気持ち、悲しみに目を背けるとそれは怒りに変わるの。あなたは自分の気持ちに向き合えないほど弱い存在じゃないわ。あなた自身の力を誰でもないあなたがみくびっているの。思い出して…あなたは凄いのよ。あなたは、堂々と胸を張ってそこに居るだけで良かったのよ!」
精霊の光は柔らかく揺れると、涙を流す女性の姿へと変わった。
「私…みんな敵だと思って…誰にも弱い姿を見せられないって…私は多分、私以外の何か凄い存在になりたかったのかもしれないわ。…でもなれなくて…腹が立って、悲しみと惨めさで自分自身を見失っていたのかもしれない…」
「…でもそうよね。私は…私以外の何者にもなれないし、そもそもなる必要なんてなかった…私は私として堂々と生きるだけでよかったのよね。……ありがとう…。……もしも…今度生まれ変われたら…もう、間違えないわ」
そしてにっこり微笑むと静かに薄くなり、空へと昇っていく。
そして、炎がすべて消えたとき――屋敷の庭の片隅に、一本だけ、赤い花が咲いていた。
まるで、誰かの想いが静かに残ったように。
私はその花をそっと摘み、布に包んで懐にしまった。
その夜。
私は焚き火の前で手をかざしながら、ぼんやりとその花を見つめていた。
そして、気づいた。
スキルの光が、少し変わっていた。
以前よりも、やさしい赤みがさしていて――
まるで“共感”するように、じんわりと寄り添ってくる。
痛みを焼くのではなく、抱きしめてくれるような。
(……“浄炎”)
そんな言葉が、自然と浮かんだ。
人の心の中で、誰にも言えなかった感情。
それに触れて、痛みに寄り添い、少しずつ、明日へつなぐ――
そんな新しい力が、芽生えた気がした。
私はまた歩き出す。
けれど、ひとつ分かったことがある。
嫉妬や悲しみも、“捨てるべきゴミ”じゃない。
ちゃんと見つめて、受け止めて、自分の本当の気持ちに耳を傾けた時……それは、きっと、誰かを癒すぬくもりに変わる。




