13話
その家に行くことになったのは、診療所で小さな騒ぎを見かけたのがきっかけだった。
「足を痛めてるみたいだったんですけど、部屋が……その、物がすごくて動けない状態で……」
そう話したのは、街の診療所で働く若い女性だった。
彼女の話を聞いてみると、一人暮らしの男性が、部屋に物が溢れて身動きが取れない状態で怪我をしたらしい。しかも、彼の家は以前から「何かがおかしい」と噂されていたという。
「……もし、よければ行ってみてくれませんか?」
その頼みに、私は静かに頷いた。
ーーー
診療所の裏手、小さな坂をのぼった先に、その家はあった。
外から見れば、特に変わったところはない。ただ、扉の前に積まれた古い荷車や、カラカラに乾ききった植木鉢が、どこか時の止まったような空気を漂わせていた。
ノックをすると、何かを引きずるような音がして、数分後にようやく扉が開いた。
「……来てくれて……ありがとう……ご、ごめん…なさい……」
現れたのは、やせ細った中年の男性だった。
ひどく緊張した面持ちで、声にはわずかに吃音が混じってたどたどしかった。でも、その目は必死だった。
部屋の中に入ると、まるで“時間が押し寄せて積もった”ような空間だった。
床は見えず、腰の高さまで様々なもので埋め尽くされている。古びた布、折れた椅子、焦げついた鍋、色褪せた紙の束。どれも、埃をかぶり、そこにただ「存在している」。
けれど、彼はその一つひとつに、明確な記憶を持っていた。
「これ……母が、最後に、ぼくに作ってくれた、……お味噌汁…の……鍋で」
「これは……弟の…姿絵……喧嘩…して…それっきりだけど……でも、いちどだけ、“またな”って……言ってくれたんです」
モノではなく、思い出。
彼にとって、ここは“過去”そのものだった。
「……す、捨てることが…怖いんです。…忘れて……しまう気が…して。……裏切るみたいで。……だから、…今まで……誰にも言えなくて……」
うつむき、震える手を膝に置いて、彼は小さくこぼすように言った。
私は、そっと視線を巡らせた。
部屋のすみに、くしゃくしゃになった手紙が落ちていた。たぶん、誰かの書いたものだろう。
それを拾いながら、私はふと思い出していた。
(……こ◯まりさんが言ってたな。「ときめくか、ときめかないか」って)
(ときめき……この部屋には、思い出がありすぎて、もはやときめきも何もないのかもしれない)
けれど。
その上で、私は静かに彼に問いかけた。
「これは、今のあなたに……ときめきますか?」
彼は驚いたように私を見つめ、そして、少し困ったように笑った。
「……ときめき……は、よく、わかりません。でも……あの時の気持ちは、覚えてます。……やさしかったな、って」
私はそっと微笑んで、続けた。
「……なら、“ありがとう”って言って……手放してみませんか?」
彼の手が、ほんの少し震えた。
でもそのあとで、彼はゆっくりと頷いた。
「……うん。……ありがとうって、言ってみます……」
(◯シダさんだけじゃなくて、こ◯まりさんまで出てきた…なんなのよ… 。心のこ◯まり……)
内心でそんなツッコミを入れながら、私は彼と一緒に“思い出”に向き合っていった。
「これは……まだ、大事にしていたいです」
「それは……ありがとうって、言います。……手放せそう」
泣きながら、笑いながら。
彼は少しずつ、積み重なった“罪悪感”と“思い出”を、自分の中で分けていった。
その夜、月明かりが差し込んだ部屋の床が、ほんの少しだけ見えるようになった。
「……こんなに広かったんだ、この部屋……」と彼がつぶやいた時、私は確かに感じた。
過去を切り捨てたんじゃない。
思い出と一緒に、生きていくために、彼は「ありがとう」を選んだんだ。
それは――とても優しくて、勇気のあることだった。




