12話
老婆から鍵を預かって数日後、また様子を見てあげて欲しいと依頼された。
森を背に建つ家で、遠くの村から移り住んできたという女性が一人で暮らしているらしい。けれど、噂によれば、その家はまるで倉庫のようにモノで満ちていて、扉も窓も長らく開いた気配がないのだという。
家の周囲は確かに静かだった。けれど静けさは、やすらぎというより「閉ざされた」印象だった。
私はそっと、扉を叩いた。
「……はい」
しばらくして、扉が少しだけ開いた。
現れたのは、背筋を伸ばした気品のある女性。年の頃は三十代半ばか。よく整えられた髪と、品の良い身なり。けれど、その瞳は、何かに疲れ切っているようだった。
「ご依頼を受けて、片付けの手伝いに参りました」
彼女は少し迷ったような間を置き、静かに扉を開いた。
家の中は、整っていた。とても。
家具はすべて上質な木材で作られており、壁の棚には陶器の壺や装飾瓶、刺繍入りの布包みがきれいに並べられていた。
けれど、“気配”がなかった。
使われた痕跡がない。暖かさもない。まるで、誰かの目に見せるためだけに飾られた部屋のようだった。
「……ずっとこういう暮らしに憧れてたの。都会の宿舎は狭すぎて、憧れの生活なんてできなかったから」
彼女は言った。けれどその笑みは、かすかに歪んでいた。
「だから、ここではきちんとしようって思って……ちゃんとした家具、布、道具を揃えたの。必要なものを、ちゃんと……揃えて、積んで、飾って」
「それで、心は休まりましたか?」
私がそう尋ねると、彼女は一瞬、言葉を飲み込んだあと、小さく笑った。
「……ほんの少し。けど、だんだん落ち着かなくなってきて。だから、また買って……また並べて……それでもまだ、何かが足りない気がして……」
私はそっと、部屋の片隅に積まれた木箱に目をやった。
未開封のままの箱には、蝋で封がされ、布が丁寧に巻かれている。開けるつもりもなかったような、封じられた品々。
箱の中身を一つ開けると、立派な銀の燭台が出てきた。けれどそれは使い込まれた跡がなく、どこか淋しげだった。
数日をかけて、私たちは部屋を「ほどいて」いった。
その中で、とある本の裏に挟まれていた紙が、一枚、ひらりと落ちた。羊皮紙に書かれていたのは、古びた筆跡の、自分宛ての手紙のようだった。
《……誰も、私の“好き”を聞いてこなかった。私も言わなかった。
でも、本当は――ただ、誰かに見てほしかった》
《買い物をしているときだけ、自分が“存在している”気がした。ここにいてもいいんだって、錯覚できた》
彼女は、その紙を見つめて凍りついたように動かなかった。
けれどやがて、椅子に腰を下ろし、ぽつりと呟いた。
「……これ、たぶん……昔の私が書いたのね」
「……怖かった。都会にいた頃も、人に囲まれていたのに、ずっと一人だった。
だから、“モノ”に囲まれてれば、心は寂しくないって思ってたの」
「でも、やっぱり心は空っぽのままだった」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。
私は、そっと横に座った。
「……“モノ”は、心を隠してくれるけど、癒してはくれませんもんね」
「……うん。ほんとは、誰かとちゃんと話がしたかったのかもしれない。
誰かに、『ここにいてもいい』って言ってほしかっただけなのに」
その日を境に、彼女は少しずつ変わっていった。
飾るための道具ではなく、使うための器。空気の通る棚。日の差す窓。
そして数日後。
朝日が差し込む窓辺に立って、彼女はぽつりと呟いた。
「……なんだかね、この部屋、やっと“私の部屋”になった気がするの」
私は、積んであった最後の箱を持ち上げながら、微笑んだ。
「お部屋も、そう言ってますよ。ようやく息ができるって」
彼女は、涙を滲ませながら笑った。
今度は、どこまでも自然で、柔らかくて、温かい笑顔だった。




