10話
手紙を手にした翌朝、私はその送り主のもとへ向かっていた。
村の外れ。森と畑の境目のような場所に、ぽつんと立つ小さな家。
屋根は苔むし、外壁はあちこち黒ずみ、窓は厚い布で覆われていた。
けれど、どこかその家は“気配”が薄かった。人の住んでいる気配を、なるべく消しているかのように。
「……ごめんください」
扉の前で声をかけると、しばらく沈黙が続いた。
中に人がいるのかも分からず、私は一歩だけ下がる。
すると――
「…………っま、ま、ま……っ……」
か細く、息の詰まるような声が聞こえた。
「……ま、待って、くださ……」
音が、つっかえ、絡まり、ようやく出た言葉は震えていた。
それでも、懸命に、ひとことひとことを紡ごうとしていた。
「……はい、ゆっくりで大丈夫です。私は、急ぎませんから」
やがて、扉がきぃ……と静かに開いた。
そこに立っていたのは、痩せた青年だった。
髪はぼさぼさで、視線は足元に落ち、目の下には深いクマ。
けれど――
その手が、ほんの少しだけ震えながら、手紙を書いたあの文字と同じように、私の前に差し出された。
「ぼ、ぼく……しゃべるの、にが……っ……」
声を発することそのものが、まるで“痛み”のように見えた。
それでも彼は、必死に言葉を探していた。
私は、ふと◯シダさんの言葉を思い出す。
『勇気を出して連絡してくれてありがとう。頼って良いんです。頼ってください』
あの言葉を、今、彼に向けて伝えよう。
「……来てくれてありがとう。あなたが“助けてほしい”と伝えてくれて、私はとても嬉しいです」
彼の肩が、ふるふると揺れた。
その目に、かすかに涙がにじんでいた。
ーーー
家の中は、本で埋め尽くされていた。
ただの散らかりではない。
そこには“執着”があった。
「……ぼ、ぼっ、ぼく……しゃべるの、ずっと……っ、にがっ…にがてっ…で……」
彼は少しずつ語った。
吃音を治したくて、あらゆる本を読んだ。
「音読がいい」と聞けば、毎日毎日、声を出して読んだ。
だけど一向に良くならず、「努力してるのに治らない自分」が、どんどん苦しくなっていった。
「……だれとも、もう……っ、話せ、なく、なって……」
本は増え続け、でも捨てられなかった。
自分ががんばってきた“証”だったから。
でも今は、それに埋もれ、押し潰されそうになっている。
私は、ただ静かにうなずいた。
「……すべて、ちゃんと伝わってますよ。あなたの気持ちも、努力も、ぜんぶ」
彼の目が、ぽろぽろと涙をこぼした。
「自分の声が、届いた」と知った瞬間の、安堵の涙。
そして私は、ゆっくりと手を伸ばす。
本と紙が積み上がった部屋の中。
ページの隙間から埃が舞い、窓の向こうには薄い曇り空が見えていた。
「……はじ、めは、こ、こ、こんな、じゃ、なかったんです」
青年は、ぽつりぽつりと語り始めた。
「しゃべるの……へ、下手でも、本をよ、読んでたら……なんとか、なるって……」
彼の手元には、折れた鉛筆、付箋だらけのノート、
そして何度も開かれ、角が丸くなった参考書。
そのどれもが、「諦めたくない」という思いの痕跡だった。
「でも、読んでも、音読しても……な、なにも、変わらなくて……っ」
彼は顔を伏せ、言葉を詰まらせた。
「……“努力しても変われない人間”って……思っ、たら、もう……全部、こわくて」
彼の声が震えるたびに、私は心の中で◯シダさんの言葉を思い返していた。
――「人には、その人の歩幅がある。見えてなくても、ちゃんと前には進んでる」
「……努力は、ちゃんと意味があったと思います」
私の言葉に、青年は顔を上げた。
「うまく話せなくても、あなたの言葉は、ちゃんと届いてる。私は、あなたの気持ちを“聞けて”います」
青年の瞳が、大きく揺れた。
「……聞けて、ます……?」
「はい」
私は微笑み、ゆっくりと座り込んだ。
「そして今から、一緒にこの部屋も、片付けていきましょう。“捨てる”んじゃなくて、“選び直す”んです。あなたにとって本当に必要なものを」
青年は、しばらく動けなかった。けれど――
やがて小さくうなずき、立ち上がった。
ーーー
片付けは、まるで過去との対話だった。
「これは……三冊目で、音読したやつ、で……」
「こ、これは、なに言ってるか……わからなくて、閉じたまま、で……」
そのたびに私は聞いた。
「この本は、今のあなたにとってどうですか?」
彼は、ひとつひとつ悩み、考え、時には手放し、時には抱きしめ直した。
途中、涙ぐむ瞬間もあった。
けれど、泣くことは、恥ずかしいことではなかった。
そして、積み重なった紙の山の下――
一冊の、小さな日記帳が出てきた。
「……こ、これは……」
彼の指先が震えた。
その日記には、努力の途中で書き残された、自分への手紙がいくつも綴られていた。
『きょうは音読でつまったけど、声を出せた。だから大丈夫』
『きっと明日も緊張する。でも、それでも声を出してみよう』
彼は無言のままページをめくり、最後の方で、ふと手を止めた。
『だれかに届くような声が、いつか出せたらいいな』
青年はそのページを閉じ、胸にぎゅっと抱きしめた。
「……あの頃のぼく……ちゃ、ちゃんと……、がんばってたんだ、なって……」
私は、そっと微笑んだ。
「はい。あなたは、ずっとちゃんとがんばってた。ずっと、声を出そうとしてたんですね」
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
窓の布を外し、外の光が差し込む。
埃が舞い、光の粒になって散っていく。
青年の表情も、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。
「……ありがとう、ござ……ま、す……っ」
言葉がつまっても、伝わるものは確かにあった。
その日、私は彼の“声”を、しっかりと聞いたのだった。
青年の部屋が片付き、日が昇ったある日。
私は彼を誘って、市場へ行くことにした。
彼の表情は強張っていたけれど、それでも玄関のドアを開けるその手には、ほんの少しだけ力があった。
「い、いっしょに……いけて、よかった……です」
「うん。大丈夫。焦らなくていいんです」
町に出るのは久しぶりだという青年は、最初こそ人の視線におびえ、声も小さかった。
けれど、私は彼にこう言った。
「無理に言葉を出さなくてもいいです。まずは“ここにいていい”って、感じてください」
市場の空気は、騒がしくもどこか温かい。
笑い声、呼びかける声、野菜の匂い、焼きたてのパンの香り――。
彼は少しずつ、視線を上げていった。
途中、小さな布屋で彼が足を止めた。
「……こ、これ……母の……す、好きだった、柄……」
震える声だったけど、その“誰かを思い出す”表情は、とても優しかった。
彼は小さな布切れを一枚、大事そうに握りしめた。
その帰り道。
彼は、ぽつりとつぶやいた。
「ぼ、ぼく……ありがとうって、いい、たかっただけなんです」
「ずっと、だれかに、ありがとうって」
私はふと、足を止めて空を見上げた。
高く澄んだ空に、ひとすじの雲が流れていた。
そのときだった。
心の中に――ふわりと、あの“気配”がした。
暖かく、でもどこか寂しげな、
誰かが、遠くから“見守っているような”感覚。
「………女神様……?」
思わずそう口にしたとき、胸の奥で小さく光が揺れた。
スキルではない、でも確かに“反応”のようなもの。
それは、まるで女神様が、
――「ありがとう」
――「もう少しよ」
とでも、囁いてくれたような。
「大丈夫です。あなたの“ありがとう”、ちゃんと届いてます」
私はそう言って、青年の背中を押した。
彼は、はにかんだように笑い、うなずいた。
ーーー
その夜。
私は、焚き火のそばでそっと手をかざしながら考えていた。
スキルは確実に変わってきている。
誰かの“過去”に寄り添い、“今”を一緒に片付け、“未来”をそっと照らす力へと。
そして――
女神様の声が、少しずつ近づいてきている気がする。
でも、なぜ今の自分に、それを託したのか。
それを知るには、まだ何かが足りない。
そのとき、どこからか届いたささやかな依頼。
「今度は、小さな村の離れに住む老婆の家を片付けてほしい」――と。
依頼をくれたのは、前に助けたおじいさんだった。
「昔世話になった人でね。気難しい人だが、あんたなら……と思ってさ」
何かがまた、つながっていく予感がした。




