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不愉快な情報提供者

少女として転生してから、まだ最低限の情報しか与えられていない。

午前中は心理カウンセラーとの面談、昼食後は運動のリハビリ。

どれも淡々と進む中、私は静かに現実を観察していた。


ある日、思い切って担当の先生に家族について尋ねてみた。

けれど、返答はどこか曖昧で、話はすぐに別の話題へと逸らされてしまった。

どうやら病院側が面談を制限しているらしい。記憶喪失の患者には、家族や友人と会わせて記憶を呼び起こすのが一般的だと思っていたけれど、「体調が回復してから」というのが今の方針らしい。


――つまり、私は「スミレ」という少女の過去をまだ何も知らない。


私が「スミレ」真実を知ったのは、入院して五日目のことだった。

体重も少しずつ増えてきて、ふらつきながらも松葉杖なしで歩けるようになっていた頃。

家族との面会の許可がおりた、ちょうどその日の午後だった。


リハビリを兼ねて、手すりを頼りに病院内をゆっくりと散歩していた。

顔馴染みの入院患者たちと挨拶を交わしながら廊下を歩いていたとき、見慣れない中年の男が近づいてきた。


「氷室薫ちゃん、だよね?」


名前を呼ばれた瞬間、私は本能的に“この男は危険だ”と悟った。

無理やり笑顔を作っていたけれど、その奥には腐った本音が透けて見えるような気がした。


「ちょっとおじさんとお話しようか」


通報されてもおかしくないセリフを平然と吐き、まるで親戚のように私の手を取り、人通りの少ない自販機横のベンチに連れていかれた。


逃げようと体勢を変えかけたとき、

「何か飲もうか? ココアでいい?」と聞かれ、

私は思考し、なにか知っているらしいこの男の提案に乗ることにした。


――念のために言っておくけど、ココアに釣られたわけじゃない。

むしろ、私を“情報源”として扱うこの男から、逆に情報を引き出すチャンスだと思ったのだ。


「おじさん、何が聞きたいの?」


小さな手で缶を手に取り、ココアを半分ほど飲んで喉を潤す。

連日のリハビリで身体はだるく、ちょうどいい休憩にもなった。

受け答えは小学一年生にしては少し大人びていたけど、まぁバレなければよしとしよう。

それにこの記者とはこれっきりで今後会うこともあるまい。


男はほんの少し驚いたように眉を上げ、そして気持ち悪い笑みを浮かべて話しかけてきた。


「体調はどうかな?」


「リハビリ、がんばってるよ」


「偉いね。……ところで、事件のこと、覚えてる?」


――事件?


その一言で、スミレの過去に“何か”があったことを確信した。

異様に細い体、青アザ、怯えたような仕草の原因は、もしかして

――監禁、虐待を受けていた可能性があったのではないだろうか。


「おじさんは、どこまで知ってるの?」


そう聞いてみると、男は自慢げに鼻を鳴らしながら答えた。


「おじさんはね、なんでも知ってるんだよ」


そう言った瞬間、視界の隅で小さな男の子がスマホを構え、こちらを撮影しているのが見えた。

あの子は最近なかよくなった男の子だ。

もしも何か事件に巻き込まれたら、あの子のスマホが証拠になるはずだ。

私は指摘することなく、すっと目線を記者に戻した。


「じゃあ、私が話すことないんじゃない?」と返せば、男は少し焦ったようだった。


それでも諦めずに、“知っていること”をペラペラと話し始めた。


スミレの父親は、大手企業の役員。

表向きは絵に描いたようなエリートだったが、実態は日常的に家族に暴力を振るう最低の男であった。

兄は家を出て知人宅を転々とし、母親は看護師の仕事で家を空けがちだった。


――なるほど、あのイケメンはスミレの兄だったのか。

なんだか悪いことをしてしまったな。


「スミレちゃんを一人にして、仕事を理由に逃げたかったのかもね。お母さんも」


悪気もなくぽつりと吐かれた言葉が、心に刺さる。

けれど、私が目を覚ましたとき、あの女性は真っ先に私を抱きしめてくれた。

あの涙は――嘘ではなかったと思う。


「……お母さんは、私がいたから逃げられなかったんだよ」


きっと兄と母のふたりだけなら逃げることもできた。

それでもスミレを置いていけなかったのだ。

それだけ、この小さな少女が重い鎖だったのだ。


男の話はさらに続いた。

投資に失敗し、借金を抱えた父親は、なんとスミレに売春まがいの行為をさせていたという。

最初は服装を撮影する程度だったのが、次第に過激になり、最後には“おさわり”まで許容されていたという。


「一年で一千万稼いだらしいよ。お父さんより稼いでるんじゃない?」


心底気持ち悪い笑みで、男はそれを“面白話”のように語った。


「おじさん、詳しいんだね。……で、何が知りたいの?」


必要な情報は聞き出せたし、心底不愉快な記者から私は解放されたかった。

男は口臭まじりの吐息を吐きながら、ボイスレコーダーを取り出し、私に向けて突き出した。


「お父さんのこと、怖かった?」

「何人と会ったの? どんなことされたの?」

「君を見捨てたお兄さん、今どう思う?」


その瞬間――私の中で、何かが切れた。


無言でココアを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放った。

そして、ソファから立ち上がり、ためらいなく男の急所を――踏みつけた。


「ぐがあああああ!!」


苦悶の声を上げた男の手からレコーダーを奪い取り、私は叫んだ。


「お兄さんの悪口を言うなああああああ!!」


ベンチから降りて、置かれていたカメラを手に取ると、思いきり床へ投げつけた。

しかし、案外丈夫ななカメラは、部品が少々かけた程度で病院の床をバウンドして統べるだけで終わった。

さて、もう一度、また覚束ない足取りでカメラに向かって歩き出す。

その先に――呆然と立ち尽くす兄の姿があった。


「あ……」


スミレの名を借りた私の激昂は、明らかに彼女の人格とはかけ離れていた。

家にほとんど帰らなかったとは言え、スミレの兄がそれに気づかなかったはずがない。

やばい、どうしよう。乖離しないように、「スミレ」の性格を把握しようとしていたのに。

血の気が引いている私を余所に、彼は流れるように無言でカメラに近づき、メモリカードを抜き、足元で粉々に踏み砕いた。


そして、私をそっと抱き寄せ、病室へと連れて歩き出した。

その間に、少年が人を呼んでくれたのか騒ぎを聞きつけた警備員や看護師たちに取り押さえられた。


***

病室に戻ると、兄さんがそっと私をベッドの上に下ろしてくれた。

そのまま、しばらくのあいだ沈黙が流れる。


……お礼を言うべきか、それとも謝るべきか。

色んな感情が混ざり合って、うまく言葉が出てこない。


というか――「お兄さん」って、呼び方としてちょっと距離がある気がする。

でも「お兄ちゃん」なんて年齢的にも気恥ずかしい。

「兄さん」あたりがちょうどいい、かな……?


そんなことを頭の中でぐるぐる考えていると、

その空気を破るように、勢いよく病室の扉が開いた。


「スミレちゃん、大丈夫!?」


ユウキ先生だった。

いつもの優しい笑顔を浮かべながら、少し早口で駆け寄ってくる。

私の顔を見るなり、心配そうに目を細めた。


「無理してない? 怖かったよね……」


先生は兄に軽く会釈をすると、慣れた手つきで簡単な診察を始めた。

おでこに手を当て、次に手首で脈をとる。


「うん……ちょっとだけ熱が上がってるね」


先生の手のひらはひんやりしていて、それが妙に気持ちよかった。

もしかすると、熱のせいかもしれない。


「スミレちゃん、今日は本当によくがんばったね」

そう言って、肩をポンポンと軽くなでてくれる。

そのやさしい仕草に、ようやく張り詰めていた心が少しだけ緩んだ。


「お兄さんも、わざわざ来てくれてありがとう。でも今日は、スミレちゃんをゆっくり休ませてあげて」


ユウキ先生の口調は柔らかいままだったけれど、どこか圧を感じた。

兄は何も言わず、すっと立ち上がって小さくうなずく。


「じゃあ……また来るね」


それだけを残して、病室を後にした。


すぐに先生の携帯が鳴り患者さんに呼び出され、私は一人残される。


静かな病室。

事件はあまりに衝撃的だったけれど、そのぶん色んなことが分かってきた。


スミレという少女の過去。

そして、今この身体に宿っているのは私の魂――でも、本来の“スミレちゃん”の魂は、今どこにいるんだろう。


あんなに怖い思いをして、こんなにも傷ついて、

――どうか、どこかで幸せに生きていてくれたらいい。


そう願いながら目を閉じると、自然とまぶたが重くなっていった。


気がつけば、私はそのまま、深い眠りへと落ちていた。

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