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努力家を貶す悪意

逸君からの着信は、下校時間を大幅に経過した20時にかかってきた。


「……もしもし?」


けれど、応答はなかった。ただ、微かに息をする音と、かすれたため息だけが聞こえてきた。

何か言おうとしているようで、声にならない呼吸音が、受話器越しに伝わってくる。


「逸君……?聞こえてる? 大丈夫?」


返事はなかった。でも、なぜか通話は切れずに続いていた。

まるで、彼自身も無意識にかけたことに気づいていないみたいに。


それだけで、胸がざわついた。


──この感じ、知ってる。


前世で──似たようなシーンを、私は経験したことがある。。

会社の別部署の新人が、上司に極限まで追い詰められ、誰にも助けを求められず、ただ無言のまま電話をかけてきたことがあったのだ。

彼女と再会したとき、すでにベッドの上から動けない状態だった。

彼女は自殺未遂をしていた。あの時、もっと親身になっていたらと何度も後悔をした。

地方から上京してきた彼女にとって、最後に頼れるのが、数回話したことがある私だけだったのだ。

それほどまでに彼女は孤独だった。


「お願い、どこかで無事でいて」


私は、スマホを握りしめたまま走り出した。


制服のまま、スマホだけを持って、ただ足だけを動かした。

運動不足の足が悲鳴をあげていたけれど、それすら気にしている場合じゃない。


「逸君!」


通学路をたどり、学校の近く、商店街の裏道、スポーツ用品店──思い当たる場所を必死に走り回る。

私が彼を探している理由。それはただの心配じゃない。


このゲーム、『紅野エリカが幸せになるための物語』は、全員が幸せで終われる世界じゃない。

ヤンデレをテーマにした作品だからこそ、彼らには理不尽で過酷な試練が待ち受けている。


その困難を乗り越えてこそ、本当のエンディングが見えてくる。


でも、現実に起きると、それはとても「イベント」なんかじゃ済まされない。

努力して、信頼して、少しずつ築いてきたものが、いとも簡単に踏みにじられてしまう現実。


逸君は、真面目で努力家だった。

部活でも、勉強でも言語という壁があっても、いつも前を向いていた。

合宿の時も……誰よりも仲間を気遣って、楽しませてくれた。


そんな彼が、嫉妬や偏見に巻き込まれて、何もかも壊されていくなんて──許せなかった。


「お願い、逸、君っ!」


そう祈りながら辿り着いた公園の奥。

薄暗くなり始めたベンチの上で、うなだれている背中を見つけた。


「……逸君!」


名前を呼ぶと、彼はゆっくりと顔を上げた。

目元は赤く、唇は乾ききっていて、何かを言いかけたまま沈黙していた。


「……薫ちゃん、何で……」


かすれた声だった。本人も覚えていないらしい。


「ううん、大丈夫だよ」


私は震える手でスマホを取り出し、兄に連絡した。


「ごめん、今すぐ車で迎えに来て。お願い、逸君が……」


そこから先は、記憶が曖昧だった。

ただ、車の中で隣に座る彼の手が異様に冷たくて、思わず指先をそっと重ねた。


すると、逸君は力なく、けれど確かに、握り返してくれた。


どうか、私の体温が彼に届きますように。

このぬくもりが、彼の中の何かを繋ぎとめてくれますように。

そう願わずにはいられなかった。


***


家に着くと、母も兄も逸君の怪我の深さに驚いた。

バスタオルを敷き、傷を消毒しながら、母は静かに言った。


「……これは、明日、朝一で病院に行ったほうがいいわね」


「いや、それは……すみません…ええ、流石に申し訳ないですよ」


「君の貴重な人生を台無しにしたくないなら、きちんと処置を受けるべきだ」

兄も、いつになく真剣な顔で逸君を説得した。


その夜、逸君は初めて我が家に泊まることになった。

私はお風呂から上がった後、髪も乾かさないで、母と兄に詰め寄った。

なんとしても、彼を独りぼっちにはできなかったのだ。


「お願い。私、今日だけ、逸君のそばにいさせて」


「薫。だめよ、」

「お願いぃいいいい!床で寝るから!お願い!」

「ダメだ。劉君も気が休まらないだろ」

「休む!」

「なんでそんなに確信めいているんだ」

兄さんはあきれている。

分かっている。高校生の年頃の二人が、リビングとは言え同じ場所で寝ることに抵抗があるのはよくわかる。


「……兄さんが許してくれるまで、私は床から動きません」


兄に両腕を引っ張られながら、必死に体重を床にかける。

兄は困ったように溜め息をついたが──


「まあまあ、今日だけなら……ね」

母の言葉に、兄はしぶしぶ肩をすくめた。


すると兄さんは引っ張っていた力を徐々に緩めて、私を床に下ろした。

「布団、敷くぞ」

「にいさああああん」

と抱き着けば、大きなため息をつかれた。母さんは仲良しねえとほのぼのと笑っていた。


私は安堵して、リビングに寝具を敷きながら、カーテンの外をみた。

そこには星は見えなかった。


この世界の物語は、主人公のエリカが中心に回っている。

たとえ脇役で、報われない運命だったとしても。

この命は、ここで出会った大切な人のために使いたい。


彼の手の温度が、少しだけ戻っていた気がした。



***


逸君はソファーベッドを使用し、私は床に敷布団を引いて寝ている。

この逸君のいじめ、そしてこれから起こるケガによる大会欠場は必ず起きないといけないストーリーなのか。

私はそのことをずっと考えていた。

未来を知る紅野エリカがいるのなら、それを回避できるのではないだろうか。

そんなことを考えて、リビングのカーテンを呆然と見ているとき、「起きてる?」と逸君の声がした。

「どうしたの?」

「そういえばこの前メッセージの件、覚えてる?」

「うん、ラケットを預かって欲しい件だよね」

「そう。鞄の中にあるから、薫ちゃんに預かってて欲しい」

「エリカちゃんじゃなくていいの?」

と聞けば、エリカは部員から監視されていて、頼むことができないといった。

私は小さくわかったよと返事をした。

メッセージでもエリカちゃんからの助言だ逸君が言っていたので、問題ないと思った。


「薫ちゃん?」

か細い、消えそうな声で私の声を呼ぶ。

長い手がソファーの上から延びてくるのが分かった。

私はソファー側に寝返りを打って、その寂しそうに伸びた手を握る。

一瞬びくついたが、そのあと徐々に優しく力が込められた。

その手は、ほんの少し暖かかった。

「エリカに心配かけたくないヨ」

「逸君…」

「だから、今日の事、これからワタシが相談することがエリカに言わないで欲しい」

「でも、エリカちゃんならきっと良いアイディアを提案してくれるよ」

「薫ちゃん、お願い。助けてほしいときは、ワタシが直接お願いするから」


ほんの少し力が込められたその手を握り返した。

「逸君がそうしたいなら」


暫くすると、スースーと寝息が聞こえた。

明日は金曜日。

京雅さんは、なんだか大事になりそうだし、ウィリアム君ははいじめにすごく過敏になる。

伏見先輩や陽人先輩には相談してもいいかもしれない。


自分が生徒会のメンバーになれて、この時ほどよかったことはない。

エリカちゃんはきっと、部活の方で動いてくれているはずだし。


「おやすみ、逸君」

握られた手をそっと放して、私は逸君に布団をかけて眠りについた。



***

翌朝。

逸君は顔色もよくなり、普段通りの冷静な姿に戻っていた。

表情を隠すのがうまいだけかもしれないが、隠せるほどになる程度には復活して嬉しかった。


蓮さんと劉君は病院に寄ってから学校に来ると言っていた。


お母さんや兄さんが応急処置をしたとは言え、早く治って欲しい。

そして、一日でも早くまた卓球ができる環境に戻って欲しい。



あの合宿から、颯真は自分で起きるようになった。

あの甘えん坊な颯真が、徐々に大人になっていく姿ほんの少し寂しさを覚える。


朝食を食べ終えた私と颯真は先に学校へ向かう。

颯真は私にベタベタしなくなった。

それに、習慣だったいってらっしゃいのハグもなくなっていた。

途中まで同じなのに、彼は私を置いてすたすたと行ってしまった。


これが親離れなのかと、見えなくなった颯真をみて思った。




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