週末、彼に会いに行く理由
土曜の午後。私はカフェの前で、ずっと立ち尽くしていた。
スマホの画面には、何度も確認したマップアプリと、店の口コミ。
可愛いスイーツ、落ち着いた空間、接客が丁寧――
評価はどれも高い。でも、今の私には、そんな情報はどうでもよかった。
目の前にあるのは、橘隼人がバイトしているカフェ。
あの図書館での出会いから数日。私は今日、一人でここに来た。
薫ちゃんは「外せない用事がある」と言っていたので、今回は同行していない。
(これはイベント。ゲームなら、隼人の好感度が上がるイベント)
「大丈夫、落ち着いて。シナリオ通りにやれば、すべてうまくいくんだから……」
鼓動は、選択肢を吟味する余裕もないほど速くなっていた。
意を決してドアを開けると、店内にはふわりと甘い香りと、低く流れるジャズが満ちていた。
前に薫ちゃんと来た時と同じ店なのに、橘隼人がいると思うだけで、まるで別の空間に感じる。
レジカウンターの奥――いた。
「……!」
一瞬、言葉が出なかった。
黒いシャツにエプロン姿の隼人先輩。
水色の髪は、サイドを数本のヘアピンでまとめている。図書館で会った時よりも、少し大人びて見えた。
彼はお客さんと談笑していたが、すぐに私に気づいて――ふっと、笑った。
「お、来てくれたんだ。いらっしゃ~い、紅野さん」
まるで、待っていたかのような声。
日本人離れした髪色なのに、整った顔立ちによく似合っている。
「今日、ここで働いてるから。一応、接客モードね」
にかっと笑いながら近づいてくると、店内の一部でざわつく声が上がる。
見れば、視線の先はほとんど彼。隼人は確かに“目を引く”存在だった。
「薫ちゃんはいないんだ……おひとりさま?」
「……は、はい!」
「じゃあ、カウンターの端っこ空いてるから、そこどうぞ。あとでメニュー持ってくね」
言われた通りに席に着き、店内を見渡す。
木製の家具と観葉植物が優しい雰囲気をつくり出しているけれど、今の私には、そこに隼人がいるというだけで十分だった。
しばらくして、隼人先輩が水とメニュー、おしぼりを持ってやってきた。
「はい、お水です。今日の日替わりメニューは『春キャベツのぺぺロンチーノ』。これがまた、絶品なんだわ」
メニューを指さしながらニコニコと接客をしてくれる。
「あ、俺のおすすめデザート、聞いとく?」
耳元で囁かれて、顔が熱くなる。
返事ができずにいると、彼は小さく首をかしげた。
「……あの、お願いします」
「おすすめのデザートは、“桜餅風アイス”! これ、俺が考案したやつなんだよね」
そう言って、にかっと笑う。
私は慌てて水をひと口。冷たい感触が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「ありがとうございます。一旦、考えます」
「うん! 決まったらベル鳴らして教えてね~」
そう言い残して、隼人は軽やかに厨房の方へ戻っていった。
――メニューは、決まっている。
紅野エリカの大好物、『オムライス』。
このカフェでは、隼人がいるときは必ずそれを頼むと決めている。
ドリンクはレモンティー。これも定番。
隼人の攻略ポイントの一つは、“彼の言うことを全て聞かないこと”。
だから、期間限定パスタも桜餅アイスも――今日は我慢。
薫ちゃんと一緒に来るときに食べようと心に決める。
机の上のベルを鳴らすと、隼人がすぐに駆けつけてくれた。
メモを取りながら、変わらぬ笑顔を向けてくるその姿がまぶしい。
薫ちゃんと一緒に来たときは、つまり、隼人が確実にいない日曜には、静かな常連の男性客が多い。
でも、土曜日だけは様子が違う。隼人目当てと思しき若い女性や主婦たちの視線が、店内の至る所から彼に注がれていた。
私は、オムライスとレモンティーを注文する。
「も~、せっかくおすすめしたのに! 今度は頼んでよね?」
そのタイミングで別の席のベルが鳴り、「はーい、ただいま~」と手を挙げて彼は離れていった。
気づけば、ずっと目で追っていた。
しばらくして、オムライスとレモンティーが目の前に置かれる。
ケチャップの香りがふわりと漂う、どこか懐かしい匂い。
「ね、紅野さんが頼みたかったのって、本当にオムライスだった?」
「えっ……?」
「なんか、春キャベツのパスタ、めっちゃ気になってた風だったからさ。反応がちょっと……不自然?」
(――やば、バレそうになってる……!?)
「……確かに迷いました。でも、オムライスが大好物なので!」
「そっか!」
ふわっと笑って、お盆を抱えたまま続ける。
「本当はさ、女の子相手にこうして接客するの、俺そんな得意じゃないんだよね」
「えっ、そうなの? 意外……」
「意外ってよく言われる。でも最近さ、“無理に格好つけなくていい相手”って、悪くないなって思って」
その瞳が、まっすぐに私を見る。
(それって……私のこと……?)
――聞く勇気は出なかった。
でも、その言葉だけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
そこに、またベルが鳴る。
「また来てよ。シフトは、土曜と木曜。あと……勉強の相談も、いつでも乗るから」
「あ……ありがとうございます」
「薫ちゃんも、良かったら一緒にね」
紅茶を口に運ぶと、甘くて、酸っぱくて、ほんのり苦かった。
(ああ、どうしよう……本当に“好き”になってるかも)
今、この気持ちは――確かに、本物。