部活と勉強とそれから
学友とも自然に挨拶を交わせるようになってきた。
前世の学生時代、私はクラスの隅で、同じオタクの女の子と絵を描いたり漫画の話をして過ごしていた。
それはそれで楽しかったけれど、世間一般が思い描く「青春」とは、ちょっと違っていた。
今は違う。
鏡を見るのが楽しい。おしゃれが楽しい。
運動神経があるってだけで、体育が好きになれるなんて知らなかった。
オシャレなカフェで、カスタマイズ注文だってできるようになった。
カップにスマイルマークを描いてもらえた時は、すごく嬉しくて――
洗って乾かし、今はペンケースとして使っている。
そのプラスチックの容器は紅野エリカの部屋には少しそぐわない、庶民的で安っぽい。
だけど私にとっては、かけがえのない「初めての青春」の証だった。
乙女ゲームの世界とか、転生の設定とか、そんなことを抜きにして――
ただ、もう一度、こうして青春をやり直せることが、純粋に楽しい。
そんなことを思いながら、私は鞄から一枚の紙を取り出した。
それは――卓球部マネージャー入部届。
ペン立てからボールペンを抜き取り、名前と日付を丁寧に書き込んでいく。
これから先、きっともっと楽しいことが待っている。
前はあんなに「明日」が怖かったのに、今は「明日」がこんなにも待ち遠しい。
どうして私が、紅野エリカに成り代わったのかは分からない。
だけど今は――このチャンスをくれた神様に、心から感謝した。
ものの数秒で書類は書き終え、クリアファイルに慎重に入れて折れない様に鞄にしまった。
ベッドに潜り込むと、心地よい疲労感と期待感に包まれて、まぶたがゆっくりと落ちていった。
***
翌日の放課後。
早速私は職員室前の提出ボックスの前に立っていた。
正直、少しだけ不安もあった。
攻略とか忘れて危険な道なんて進まずに、友達と笑いあうルートがあってもいいのではと。
でも、ここで選ばなければ、本当に私が望む次のルートには進めない。
体験入部のときに見たあの眩しい光景――あれが、ずっと胸に残っていた。
(大丈夫。私は知識がある。そして、これはゲーム通りの選択。間違ってない)
深呼吸をひとつして、入部届をそっと差し入れる。
かたり、と書類が底に当たる音がして、胸の奥がふっと軽くなった。
その足で、私は体育館へと向かった。
中では、劉君が先輩たちと一緒に淡々と準備をしていた。
実力者でありながら、まったく驕らず、静かに、落ち着いている。
私に気づくと、彼はタオルを肩にかけたまま、静かに歩み寄ってきた。
にっこりと、いたずらっぽい笑顔で私の顔を覗き込む。
「……決めたんだね」
「うん。入部自体は来週からなんだけどね。よろしくね。マネージャーとして」
驚くほど自然な声が出て、自分でもびっくりした。
「ま、頑張ってヨ」
劉君はそう言って、ぽんと私の頭を撫でてくれた。
そして何事もなかったように練習へと戻っていく。
その背中を見送りながら、私は心の中でガッツポーズを決めた。
(やった……! これは、劉ルートの初のスチルイベントだ!)
ようやく、ちゃんと“ゲームの中のルート”を歩けている。
この世界に来てから、初めてと言っていいほどの安堵感が胸に広がった。
* * *
校門まで戻ると、薫ちゃんが待っていてくれた。
「お疲れさま、エリカちゃん。マネージャーにしたんだね」
「うん!部活は来週からだけど。すごく緊張しちゃった」
「ふふ。マネージャー、似合ってると思うよ」
優しい笑みを浮かべながら、薫ちゃんが続ける。
「そうだ、明日なんだけど――放課後、一緒に図書館で勉強しない?」
「図書館?」
「うん。中間試験も近いしね。エリカちゃん、アルバイト希望なんでしょ? 成績条件、気をつけないと」
「あっ、そうだった……!」
(来た! 図書館イベント → 隼人先輩との初接触フラグ!)
「もちろん、行く! ありがとう、薫ちゃん!」
思わず手を握ると、薫ちゃんは嬉しそうに目を細めた。
凄い、計画通りにどんどん進んで言っている。
***
翌日、放課後。私は薫ちゃんと一緒に、経錬学園が運営する巨大な図書館へ来ていた。
ここは、初等部から大学院の生徒が幅広く利用している。
勿論一般客もOKだが、利用者のほとんどがここの生徒だった。
夕暮れの光が差し込む窓際の席に並んで、教科書とノートを広げる。
……思っていたよりずっと難しい。
社会人のプライドなんて、今はもう役に立たない。
(ううう、折角うまくいっているのに、バッドエンドだけは勘弁……)
申し訳なさを滲ませながら、私は素直に薫ちゃんに勉強を教えてもらった。
「ここどうしてもわかんない……」
「貸して。これはね――」
穏やかな声で、丁寧に教えてくれる薫ちゃん。
可愛くて、頭も良くて、こんなに優しい彼女がただの“ヒロインサポート”なんて、もったいないと思ってしまう。
そんな時だった。
「あれ~? 薫ちゃんじゃん!」
背後からかかった明るい声に、肩が跳ねる。
振り返れば、水色の髪にピアスのどうみてみチャラい男子が複数の経済学の本を手に立っていた――橘隼人先輩。
(来た……! 隼人イベント、発生!)
「……人違いです」
「いやいや、わかるでしょ。あ、髪染めたからかな?イメチェン~。どう?似合ってる?」
「聞いてないです……」
薫ちゃんが、珍しく狼狽えていた。
ゲームでは、好感度によって隼人が髪色や服装を変えてくる。
今の水色ウルフは……私が一番好きな髪型です。
「何々~? 先輩に対してそんな塩対応しちゃうの?」
わざとらしく泣きまねしている。
図書館でこんなに目立つ見た目をしているものだから、彼の行動はより一層周囲の注目をが集まる。
薫ちゃんはは顔を真っ赤にして、思わず俯く。
「先輩って……薫ちゃんの知り合い?」
「……はい、元・経錬高の生徒で、今は経錬大の経済学部に通っている橘隼人先輩です」
「OBなんだ?」
「そ。こう見えて俺、地頭はいいのよ」
軽口を叩きながら、私の隣の席に腰を下ろす。
そして、ひそひそ声で続ける。
「薫ちゃんとは、ちょっとした事件がきっかけで仲良くなってさ。たま~に勉強手伝ってるの」
「仲良しですね」
「仲いいかは微妙だけど、教わってるのは事実」
(……薫ちゃんが勉強教わるって、どれだけすごい人……?)
それに明らかに薫ちゃんが苦手そうなタイプなのに…
「この前、カフェに行ってきましたよ」
「マジ?いつよ?」
「日曜日ですね」
「 うわ、なんでシフト入ってない日をピンポイントで来るのさ。……それって逆に意識してってこと?」
ちゃらけた会話に、薫ちゃんがため息をつく。
私はというと――隣からふんわり香る香水の匂いに、少しだけ頭がくらくらしていた。
(あぁ……これが“橘隼人の匂い”か)
鼻と脳に、しっかり焼き付けておこう。
「ね、そこのかわいい子、紹介してくんない?」
予定通りの台詞に、薫ちゃんが不機嫌そうに言う。
「私の大切な幼馴染、紅野エリカちゃんです。変なことしないでくださいね」
「よろしくね、紅野さん。薫ちゃんの大切な“先輩”の橘隼人です」
差し出された手を取ると、思ったよりも大きくて、指先にはギターのタコがあった。
(……これが、本物の橘隼人の手)
緊張で、すぐに手を引っ込めた。手汗がひどい。
「で、二人は勉強中?」
「中間試験に向けて……はい」
「へぇ~真面目。じゃあ、俺も混ぜてもらっちゃおうかな?」
視線は私へ。薫ちゃんに断られるのを見越して、わざと私に言っている。
(ここは断らなきゃ……!)
危うくはいと解しそうになるのをぐっと堪える。
ここで断らなければ、橘隼人の好感度が上がらないのだ。
「ご、ごめんなさい。今日は薫ちゃんと集中したくて」
「そっか~、残念。じゃあ土曜、カフェ来てよ」
ふっと笑って、手を振りながら遠くの席へ移動していった。
薫ちゃんは明らかにほっとしていて、私は――
握手した手を見つめて、顔が熱くなるのを感じていた。
この日の勉強は、あまり頭に入らなかった。