電話
翌朝、着信音で目が覚めた。
今日は土曜日で、完全に休みのはずなのに……。
いったい誰だろうと、うつ伏せになったままスマホを手に取る。
画面に表示されていたのは——『紅野エリカ』の名前。
朦朧としていた意識が、一気に覚醒した。
どうしよう、頭が全く回らない。
彼女は死んだはずではないのか?
では、一体誰が彼女の電話からかけているのか。
動悸が激しくなる中、震える指で画面をスライドし、恐る恐る電話に出る。
「もしもし……誰ですか?」
「……あ、薫ちゃん?」
蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな声。
女性の声だった。
「もしかして、エリカちゃんのお母さんですか?」
「……ええ、そうよ……」
ぐすん、ぐすんと鼻をすする音が聞こえる。
「この度は、なんといえばいいのか……」
どう言葉を選べばいいのかわからない。
エリカちゃんのお母さんは、彼女の死を受け入れられていない。
そんな母親に、「ご愁傷様です」なんて、とても言えなかった。
「ねえ、エリカは……自殺なんかする子じゃないわよね?」
——そうよね? ね?
エリカちゃんの母親は、確信を持ったように私に同意を求める。
「正直、私もエリカちゃんが自殺するとは思っていません……」
その瞬間、電話越しに嗚咽が漏れる。
ううう……と、胸を締め付けられるような呻き声が響き、それはしばらく続いた。
漸く落ち着きを取り戻したのは、それから10分後のことだった。
「……エリカの司法解剖の結果が来たの。お願い、どうか、協力して」
司法解剖——。
エリカちゃんの葬儀の連絡がこないので、親族のみで執り行っているのだと思っていた。
だが、そうではなかった。
彼女の母親が、自ら司法解剖を望んだのだ。
愛する娘の遺体がメスで切り開かれることを選択するほどに、母親は「自殺」という単純な結論を許せなかったのだろう。
「すぐに行きます」
エリカちゃんの母親から病院の住所が送られてくる。
私は急いで身支度を整え、その場所へと向かった。
***
ママチャリにまたがり、運動不足の太ももを叱咤しながら必死にペダルをこぐ。
病院までの距離は約三キロ。決して遠すぎるわけではないが、今の私には微妙にきつい。
道中、大きな公園の前を通りかかったとき、見覚えのある友人が朝のロードワークをしているのが目に入った。
遠くからでもすぐに分かる独特の髪型と、手足の長い青年。
半袖・半ズボンの黒いスポーツウェア姿が、この公園の誰よりも似合っている。
視力が2.5あるらしい彼は、すぐに私の存在に気付き、駆け寄ってきた。
サラサラの黒髪は左側へ流れるようにセットされ、長めの前髪が左目を隠すように垂れている。
襟足は短く整えられ、全体的にシャープで洗練されたスタイル。
おそらく美形でなければ似合わないであろう髪型の彼は、同じクラスの劉 逸飛、通称逸君。
卓球の大会のために留学している彼は、中学時代に単身で中国から日本へ渡り、金メダリストの親戚の家から学校に通っている。
普段は物静かだが、語尾に独特のクセがあることも。
それでも、内に熱いものを秘めた努力家で、優しく誠実な青年だ。
「おー、スミレ。どうしたの?」
「うん、ちょっと用事がね!」
彼は顔色ひとつ変えずに、私の自転車と並走する。
さすが、世界を目指す男だ。すごい。
「どこに向かってるの?」
「秘密」
「え~、秘密? ワタシとスミレの仲で、そんなもの必要ないよ」
そう言うや否や、片手で私の自転車のハンドルを掴み、まさかの強制停止。
スピードが出ていたのに、いとも簡単に止められた。
驚いて顔を上げると、彼は切れ長の瞳を涼しげに細め、朝日を浴びて爽やかに微笑んでいた。
「どこ行くの?」
身長180cm近い彼に見下ろされ、振り切るのは不可能だと悟る。
「……病院に」
「病院? どこか悪い?」
「いや、悪くないよ?」
「家族が入院?」
「みんな元気だよ」
彼は腕を組み、考え込むように唸った。
この隙に逃げようかと思ったが、彼の脚力を考えると、私のママチャリでは到底勝ち目がない。
「あー、もしかして彼女?」
まさかの図星だった。
「え、どうして?」
「スミレがそこまで焦って動くのって、家族か親友の時だけよ。ワタシと家族が元気なら、残りはあの子しかいない」
ちゃっかり自分も「大切な人」枠に入れているあたり、彼らしい。
「……うん、そうなんだ」
「ワタシもついて行っていい? エリカの自殺、ワタシも納得していない」
再度の髪を耳にかけて真面目な顔をして彼は言う。
「でも、紅野さんのお母さんがなんて言うか……」
「大丈夫。ワタシもエリカの友達だから。それに、ワタシはおばさん受けがいいからネ。」
そう言って、ポンと背中を叩くと、彼は先に病院の方へ向かって走り出した。
結局、病院に着くまでの道中、一度も彼を追い抜くことはできなかった。
今度は電動自転車でお相手していただきたい。