妹と新たな家族の形
クリスマスイブともなれば、ひと月前の11月でもホテルの予約は難しく、
ようやく取れたのは郊外にある小さなビジネスホテルのシングルルームだった。
それでも、あの家から離れられるというだけで、俺にとっては十分すぎるほどありがたかった。
駅までの道すがら、電車の中でも、ホテルでのチェックインの最中も
——薫は一言もしゃべらず、ただ俺の手をぎゅっと握りしめていた。
通された部屋は狭いが、掃除の行き届いた清潔な空間で、暖房が効いているのかほんのり暖かかった。
時計の針はもうすぐ18時を指そうとしており、俺たちは食堂へ向かった。小ぢんまりとしたホテルゆえ、ビュッフェ形式の夕食は品数も限られていたが、薫は目を輝かせながら自分の好物を小皿にそっと盛っていく。
「まあ、お兄ちゃんと旅行かしら?いいわねぇ」
隣にいた老婦人が優しく声をかけてくれた。
俺は軽く会釈をしただけだったが、薫はにこっと笑って答えた。
「うん!今日はお兄ちゃんと、クリスマスパーティーなの」
その言葉に、俺の心臓が一瞬跳ねた。記憶が戻ったのかと思って——。
けれど、そんな様子は微塵もなかった。
あの事件以来呼ばれていない『お兄ちゃん』はただ、老夫婦との世間話の中で自然と出た言葉だったのだろう。
あまり豪華とは言えない、そしてすごくおいしいとも言えない絶妙なビジネスホテルのビュッフェを薫は嬉しそうに食べていた。そして、気に入った肉団子と切り干し大根を取りに席を立った。
自分がよそった食事のプレートは、あまり進んでいなかった。
あの家に残っていれば、きっと豪華なディナーやケーキ、プレゼントがあったはずだ。
だけど、俺はどうしても、相手が誰であれ、耐えられなかった。
ただ、クリスマスだけは、去年のようにチキンを買って、家族と
——本当の意味での“家族”と過ごしたかった。
「兄さん、シュウマイ出来立てだって!取ってこようか?」
薫が下から覗き込むように聞いてきた。俺ははっとして、慌てて笑みを作りうなずいた。
食事を終えた俺たちは、部屋に戻って着替えを取り、ビジネスホテル最上階にある大浴場へ向かった。
一緒に入るわけにもいかないので、集合場所は風呂上がりに設置されている牛乳の自販機前にした。
今から一時間後と約束して、それぞれののれんをくぐった。
思いのほか、大浴場はきれいだった。体を清めてから湯船に体を沈めた。
俺は左腕の火傷跡をゆっくり指でなぞった。
——これは、父親に熱湯をかけられた時の傷。
随分と薄くはなっているが、傷はそこにあったし、これから先も薄くはなるが消えることはないだろう。
一か月前の母からの連絡を受け取って以来、あの頃の悪夢ばかり見るようになった。
暗闇の中、薫が何度も俺の名前を叫び、手を差し出している。
なんとか手を伸ばそうとしているが、手が届かずに目が覚める。
——今度こそは、守らなくちゃいけない。
衝動的に、薫と二人で、大学の近くに小さな部屋を借りて暮らしていきたいと思ってしまう。
でもそれは、俺のエゴだ。俺が幸せになるための逃げでしかない。
薫の未来も、温かな家庭も、安定した生活も——俺の一言「いやだ」で、すべて壊れてしまう。
大学生という中途半端な立場の俺にできることは、現実を受け止めて、ただ薫が傷つかないように見守ること。それしかない。
肩にお湯をかけながら、ふと時計を見ると一時間近くが経っていた。
慌てて風呂を上がり、髪を乾かして男湯を出た。
のれんをくぐった先、ちょうど正面にある自販機の前には、顔を真っ赤にした薫がいた。
きっと、ついさっきまで湯に浸かっていたのだろう。
「ごめん、待った?」
と聞けば長湯していて気づけばぎりぎりで、薫もついさっき出たところとのことだ。
「牛乳、飲む?」
俺の問いに、薫はにこっと笑ってコーヒー牛乳を指さした。
俺も同じものを選んで、自販機に小銭を入れる。
ほてった身体に、冷たい甘さがしみていく。少しだけ、救われた気がした。
その夜、俺たちは同じベッドで眠った。薫とこうして眠るのは、小学生以来だ。
そっと後ろから抱きしめると、あの頃とは違い、彼女は少しだけ大きくなっていた。がりがりに痩せていた身体には、今は健康的な肉がついている。
母は、俺たちの未来よりも、自分の幸せを選んだ。
けれど——俺は、薫を守る。
今すぐには無理でも、必ず。
連日の不眠と移動の疲れ、そして薫のぬくもりに包まれながら、俺は意識を手放した。
その夜見た夢は、とても温かくて、穏やかで、幸せな夢だった。
***
朝は、思いのほかすっきりと目が覚めた。
窓のカーテン越しに、淡い朝の光が差し込んでいる。
まだ冬の朝は遅く、外は少しだけ白んでいるだけだったが、身体は妙に軽かった。
あれだけ疲れていたのに、頭も冴えている。
深く、ぐっすりと眠ったことを自覚する。
隣を見ると、薫はまだ小さく寝息を立てていた。
ふわふわとした髪が頬にかかり、それをふうっと吐く息が揺らすたび、心がやさしくなる。
俺が失いたくなかったものは、きっとこの時間なのだ。
そっとベッドを抜け出し、部屋のソファに腰をかけた。
スマホを手に取り、電源を入れると、数件の通知が届いている。
その中には、母からのメッセージもあった。
「蓮、ごめんなさい」
短い一文だったが、母の不安と葛藤がにじんでいた。
俺は深く息を吸い込んでから、電話をかける。
ワンコールも鳴り切らないうちに、母は出た。
「蓮……本当に、ごめんなさい。あんなつもりじゃなかったの」
声は少し掠れていて、昨夜泣いたのだろうかと想像させた。
「……いいよ、母さん。俺も、ちょっと大人気なかったと思う」
しばしの沈黙。
そして、少し驚いたような母の声が返ってきた。
「でもさ、条件がある」
「条件……?」
「結婚するなら、俺の言うことを条件を吞んでほしい。これだけは譲れない」
言いながら、俺は背筋を正した。
母が息をのむ気配が電話越しに伝わる。バタバタと何かを探す音がする。
紙とペンを探しているのだろう。音が収まると俺はゆっくりと切り出した。
「まずひとつ目。俺も来年から家に戻って、一緒に暮らすこと。
ふたつ目。結婚は、同じく来年の薫が中学生になってにすること。
三つ目。薫の大学までの学費は、ちゃんと用意しておくこと。
そして最後に——家族を、何よりも大切にしてくれ」
静寂が訪れた。
やがて、メモを取るペンの走る音が聞こえ、それに続くように、低く穏やかな声が受話器の向こうから響いた。
「……承知しました。蓮君。君の条件は、すべて守ります」
それは、灰葉透の声だった。
まだ朝の6時だというのに、芯のある声で、迷いなくそう言った。
「——ありがとうございます。……透さん、母さんをよろしくお願いします」
電話を切ると同時に、深く息を吐き出した。
まだ、全然納得いかなし、もやもやもする。
しかし、肩にかかっていた重たい何かが、少しだけ軽くなった気がした。
ベッドの上、目をこすりながら身を起こした薫が、小さくあくびをしながら言った。
「……兄さん、おはよう」
「おはよう、薫。よく眠れた?」
「うん。とっても、あったかかった」
そう言って、にこりと笑う薫の顔を見て、胸の奥がじんわりと熱くなる。
——この笑顔を、守る。
誰よりも、何よりも。
この日から俺は、来年からの「新しい家族の形」に向けて、準備を始めることになる。
この先、どんな道を歩むことになっても、薫の隣にいられるように。
俺は、計画を立て始めた。
これにて、幼少期編は完結となります。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
次回からは、エリカ視点による中学校編がスタートします。
「なぜ彼女がヒロインなのか?」――その理由に迫る、重要なエピソードをお届けできればと思っています。
高校生編にも繋がる大切な物語、ぜひご期待ください。
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