妹と家出
去年の今頃は、あんなにも幸せだったのに。
妹の小さな手を握りしめながら、俺はイルミネーションの瞬く街へと逃げ出した。
家族に異変が起きていることは、濃い霧がかかったような違和感だけは1年前のクリスマス以降ずっと感じていた。
頻繁に妹に会いに来る“ソウ君”と、その父親。
その存在に、どこか拭えない違和感を覚えていた。
親友のエリカちゃんですら差し置いて、薫は彼らと過ごす時間を優先していた。
いや、優先させられていたと今ならわかる。
頻繁に我が家に来るソウ君について母さんに聞いたときは
「病気で学校に馴染めず、授業の遅れもあるから」というものだった。
当時はそんな可哀そうな子を、優しい母さんが放っておけなかったからだと理解していた。
しかし、どうにも胸の奥に澱のように残るざわめきは拭えなかった。
最初は、妹を取られるような気がして――単なる嫉妬や独占欲だと、思っていた。
しかし、帰省する一週間前、母から「会わせたい人がいる」と連絡があった。
そのとき、ようやく俺はこの違和感の正体に気づいた。
――母親が、再婚するのだ。
クリスマスイブ。当日。
俺が実家と呼んでいたマンションの一室に、俺の“居場所”はなかった。
「初めまして、灰葉透です。こちらが息子の颯真です」
紹介されたその場は、“家族になってください”と許しを請う場ではなかった。
“もう家族だからよろしくね”と、確定した未来を告げる報告会だった。
灰葉透――その男は、全身から品の良さを漂わせていた。
仕立てのいいスーツに、某有名ブランドのネクタイ。
職業は弁護士。県内でも屈指の高級住宅地に一軒家を持ち、子ども好き。
俺たち家族の過去まで知っていて、母とは「愛し合っている」と言う。
妹は、彼の息子と仲がいい。
――完璧すぎる男だった。
金持ちで、仕事もできて、かっこよくて、家族想い。
“理想の父親像”を体現したような人間だった。
そんな男に、俺は心の底からムカついた。
すべてが整っているこの状況に、周囲を包囲し、完全に詰ているのだ。
リビングには百貨店の紙袋。温かな惣菜の香りが漂っていた。
薫のワンピースは、高級ブランドのもので、明らかに気軽に買える代物ではない。
「この人なら、きっと母さんも薫も幸せになれる」
頭ではそう理解しているのに、心が激しく拒絶していた。
――俺だけの家族だったのに。
そこに“第三者”が二人も入り込んで、家族を“奪われていく”。
いやだ。再婚なんてしてほしくない。
母の「わかってほしい」という哀願のような視線に、俺は目をそらした。
代わりに目に入ったのは、ソウ君――颯真の顔だった。
困ったような、戸惑ったような表情。
……だが、その顔が妙に作り物めいて見えて、ぞっとした。
まるで、その仮面の奥で俺をせせら笑っているようにすら思えた。
この灰葉透と同じく、計算高く腹黒さどことなく感じる。
しかしながら、それは母さんや薫に対しての悪意は皆無だということはわかった。
――息が、詰まりそうだ。
そんなとき、小さく温かく、ふわりとした手が俺の手に触れた。
「兄さん、大丈夫……?」
不安そうな顔で覗き込む妹――薫。
ああ、今、この場で、俺のことを心配してくれているのは薫だけだ。
「コートを着て、外に行く準備をして」
耳元でそっと囁くと、彼女は戸惑いながらも頷き、自室へ向かった。
「母さん……いつから?」
「透さんたちがこの街に引っ越してきた二年前からよ」
二年前。去年のクリスマスイブからかと思っていた俺は驚いた。
ずっと、知らぬ間に進められていたのだ。
じわり、じわりと、外堀を埋めて、母さんの心を徐々に浸食していったに違いない。
母さんは生粋のお人好しで、人を疑うことを嫌い、嫌みすら聞かない時がある。
相手は弁護士だ。口達者にお母さんを洗脳に近い形にしたのだろう。
「何の相談もなく? はい、そうですか、なんて納得すると思った?」
立ち上がった俺の腕を、母は縋るように掴んだ。
「蓮君……!」
灰葉透は、何も言わずただ静かに傍観していた。まるで“想定内”とでも言いたげに。
直前になってしまったのは、母さんのなかでもずっと新しい家族についての葛藤があったに違いない。
電話をするときも、最後は何か言いたげで、結局なにも言わずに、「ちゃんとご飯をたべるのよ」という一言だけ。
「悪いけど、俺は“家族”とクリスマスを過ごすために帰ってきたんだ。
宿、取ってある。今日と明日は、薫と二人でそこに泊まるから」
母は目を丸くした。まったく予想していなかったらしい。
――あんたはいいかもしれない。けど、俺と薫は“あの男”との子どもじゃない。
なのに、すべてを捨てて、未来だけを見て、進もうとしている。
俺たちを置き去りにして。
薫の記憶はまだ戻っていない。
その隙を縫うように、優しい父親を演じ、颯真という同年齢の男の子を使って彼女の心を囲い込もうとしている。
――許せない。そんなの、裏切りだ。
そのとき、ダウンコートに身を包み、小さなバッグを抱えた薫が部屋を覗いた。
「行こう、薫」
俺たちは、“もう実家ではなくなった家”を飛び出した。