ヒーローを待ち望んでいる
スマホが枕元で低く唸った。ふと目を開けてロックを解除すると、見慣れたアイコンから『おきてる?』という吹き出しが出ている。
『寝てる』
『起きてんじゃん』
『いま何時だと思ってんだよ』
『二時の一分前?』
『つまり、人間の休息時間』
『しかし、おれと秀太郎はキリンなので、睡眠時間は一日二時間で十分なのであった』
『ぶっとばすぞ』
俺の送ったメッセージに既読がつき、やり取りが止まる。頭は八割がた覚醒してきたが、向こうが寝たのなら万々歳だ。
『秀』
『なに』
『思った以上に暑くて死にそう』
『布団が?』
『ベンチ』
暗闇のなか、スマホの画面がぼんやり光っている。のそのそと起き上がり、ベッドの傍に落ちていた半ズボンを履いた。スマホと自転車の鍵と財布をポケットに入れて部屋を出る。
父に『りんに会ってくる』とメッセージを送ると、すぐさま『できるだけ早く帰ってくるように』と返信が来た。『父さんもね』とだけ返し、スマホをロックする。
家を出ると、住宅街はしんと静まっていた。自分の血液が流れる音が聞こえそうなほどだ。さすがにそこまでではないか、などと思いながら、じゃこじゃこと自転車を漕ぐ。
木の葉が風に揺れる音がするが、首筋はじっとりと汗をかいていた。
目的地に到着し、適当な場所に自転車を停める。
バス停の待合小屋に顔を覗かせると、そこにはやはり燐がいた。「りん」と呼びかければ、赤髪がのっそり動く。
「早。てか怖っ」
「待ってたくせに」
「……まあ、来てくれねえかなとちょっとは思ってたけど」
あっちいな、と声に出しながら、燐の横に腰かける。待合小屋内の電灯はずいぶん前から切れており、小屋の外にぽつんと置かれた街灯だけが光源となっていた。
七月も半ばに入った。最高気温は毎日更新され、記録的猛暑だと叫ばれている。朝も夜も蒸し暑く、こんな気温で外に出るなど正気の沙汰ではない。
「で? 町一番のやんちゃボーイは今日もナイーブモードっすか」
「おれはやんちゃとおセンチの両方の性質を併せ持つ」
学校生活の中での燐は「何を考えているのかわからない、クールなヤンキー」と言われているが、実態は少しちがっている。
年相応に子どもで、意味のないことばかり考えていて、きょうだい愛の強い、ただの高校一年生だ。
頭を赤に染めているのも漫画のキャラクターに憧れたからで、染髪は校則違反だとか周囲の人間がどん引いているだとかは、本人には興味のないことなのだ。
秀、と名前を呼ばれた。横を向けば燐が至近距離にいて、唇をじっと見つめられる。
「なんでいつも来てくれんの」
「燐が好きだから」
「秀ちゃんはそんなに俺が好きなわけ? 照れるわー」
「りんが好きで、死んでほしくな」
黙れ、と言わんばかりに呼吸を奪われる。
燐は強くて、そしてとても脆かった。俺は燐のなかで燃えている小さな蝋燭の火を守ることに、こんなにも必死になっている。
俺の頬がじっとりと湿っていく。ぱっと目を開くと、燐は目を開けたまま泣いていた。汗と涙でぐちゃぐちゃになっている彼の頬を指で拭えば、骨ばった感触がした。
「しゅう、おれ、さっきおれ」
「うん」
「もう死ねよって、思って、……でも死んだら終わりになるわけなくて、死ねよって思ったのを取り消したくなったけど、でも一回思ったことは絶対消えないし」
「うん」
「おれが叩かれたり暴言吐かれたりするのはまだいい、チビたちが叩かれるのが無理で、おれが逃げたらこいつらがおれにならないといけないし、母ちゃんが仕事しないと家まわんねえし」
「うん」
「ばあちゃんが死ぬまでこれ続くのかよとか思って、ほんとはばあちゃんのことも嫌いじゃないのに、きらいになりたくないのに、かあちゃんのことも、おればっかり、なんでって」
燐の嗚咽の音だけが待合小屋に響く。燐の左手をとって自分のもので握れば、二人ともぐっちょりと汗をかいていて、こんな状況なのに少しだけ笑えた。
燐の指は細い。身体が不健康なほど細いのは体質のせいもあるが、一番はこの成長期の時期に満足な栄養を摂れていないことが原因だろう。
「秀、は、なんで、なんで汗びっしょりになってまでおれに会いにきてくれんの。おれ、こんなだし、そんな価値ないのに」
「俺は、燐が『秀のそばは楽で心地いいなあ』って思わないかなって打算だけで動いてるよ。燐がつらいときに一番に連絡したくならないかな、俺のこと好きにならないかなって。計算づくで自己中でさすがに引くだろ」
「なんで、」
「燐が俺のことを好きになってくれたら、もっと燐自身のことも大事にしてくれるんじゃないかと思って。おれは燐のことが好きで、燐以上に価値のあるものなんてなくて、だからこうやって会いにきてる」
燐がなんと言おうと、どう思おうと勝手だけれど、俺は燐が消えてしまうのがいやで、こうして必死に抗っている。
自分の母親が認知症になったと知るや否や他の女とどこかへ旅立った燐の父親も、三人の子どもと義母の生活を支えるために一日中働いている燐の母親も、昨日の夕食どころか孫のことすら忘れてしまっている燐の祖母も、まだ小さくて何が起きているのかさえわかっていない燐の弟も妹も、やんちゃしていると思っている近所の人やクラスメイトも、燐がここまで苦しんでいることを知らない。
でも、俺は知っている。
燐が夜な夜な外出してバイクで走り回るのは、一種の自傷行為だ。不運な事故に遭うことを、どこかで期待している。
弟や妹にはじゅうぶんに食べさせているのに、自分は少ししか食べないのもそうだ。俺以外と関わろうとせず、学校で孤立しているのもそうだ。先生や近所の人に本当のことを話さないのもそうだ。
燐は自分が死んでしまったときに、できるだけ誰にも責任が生まれないように、後悔させないように振る舞っている。
だから俺は、燐が死んだら全力で悲しんで悔しがる人間がいるのだということを、燐に伝え続けているのだ。
燐の睫毛が涙で濡れている。前髪をかきあげてやり、燐の額にある傷を親指で撫ぜる。
されるがままになっている彼が愛おしくて、燐の顎を両手で掬い、息が苦しく感じるくらい長い口づけをお見舞いした。
「しゅ、う、ん、……しゅう、秀!」
「なんでしょう」
「バカ秀、おまえのことなんか」
「おまえのことなんか?」
「…………おまえのことなんか」
「燐が俺のことを嫌いでも俺は燐がすきだよ」
「メンヘラ! 見る目なし!」
「今日は俺ん家に泊まる? 親いないし」
「帰る」
尖っている唇をまたしても奪うと、燐は「勝手にキスすんな! 減る!」と騒ぐ。さっきまでのナイーブモードはどこにいったんだ、と思うくらい元気だ。
今、この瞬間からも日常は続いている。特別なことは何一つ起きなくて、全員を助けてくれるヒーローなんて絶対に現れない。
燐は苦しいまま、相反する自分の心と戦いつづけて生きていかなくてはいけない。
まだ自分で稼ぐこともできない俺は無力で、ふざけた顔を引っ提げて燐に会いにくることだけが、愛を伝える唯一の方法だった。