くそったれの四文字
最初から全てが間違っていたのだ。
「ね、もう会うのやめよっか」
頭をばかにさせていたのは俺だけだった。
「あんたは入学準備に忙しいし、私はまだ受験終わってないしさ」
「なあ、ついさっき俺、お前に告白したんだけど」
「……これが返事だってわかんない?」
「好きじゃないってこと?」
「好きだよ」
あっさりと求めていた言葉が返ってきて、少しだけ戸惑った。じゃあその顔はなんだよ。罪悪感でいっぱいです、みたいな、あなたのお気持ちはわかりますが、みたいなその表情は、何を意味してるんだよ。
見たことない顔してんじゃねえよ。
「好きだよ。好きだけど、蛍の向けてる気持ちとは絶対的に違う。だからごめん。付き合えないし、もう話さない」
「話さないのはいやだ」
胸を刃物でぐさぐさ刺されている気分だ。決定権はこいつが――海だけが持っていて、俺が何を言ったって、この決定を覆すことはできないのだろう。
そうわかっていても、こうして縋ってしまう自分が情けない。
「だって無理だよ。なんで私のこと好きになったの? 友だちとしてなら一生付き合っていけるのに、なんで恋愛対象として私を見たの? 蛍が私を好きにならなきゃ、こんな、」
真向かいに立つ海の瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。海は俺に涙を見られたことが気に食わなかったようで、目にも止まらぬ速さで頬を拭う。そんなことをせずとも、涙はすでに風にさらわれてしまったというのに。
「私も蛍も、かなしまないで済んだ」
「……無理だった」
海から目を逸らして言った。
ここ数日は今季一番の寒波が襲来しているらしく、痛みすら感じられるほどの冷たい風が吹きつけている。風に揺れる彼女の二つ結びの毛先すら好きだと思うのだから、本当にどうしようもない。
最初に好きになったのは彼女の内面だった。でも、一度気持ちを自覚してしまえば、彼女の見た目や、彼女にまつわるすべてを好きになっていった。
明るくてやんちゃでがさつな性格も、そのくせへんなところで繊細なところも、丸い後頭部や華奢な肩も、右側だけに浮かぶえくぼも小さな背中も、首筋にあるほくろも、小さく細い手足も、少しだけ低くて丸い鼻も、彼女だから好きになった。
どれも最初はそんなに気にしなかったのに、今では街中で似た人を見かけたら目で追ってしまうほどだ。
「お互いが相手の一番近くにいて、好みも合って、一緒にいたら楽しくてリラックスできて、なんでも相談できて、これで海を好きにならないでいるなんて無理だ」
「私も、そうだよ。でも、私のこれはぜったい恋じゃないって知ってる。蛍は私のかけがえない、唯一のとくべつだけど、恋じゃない。恋にしたくない」
「……べつに、海は俺に恋愛的な好意を向けなくても」
「それで恋人関係をしようって? 蛍にいろんなことを我慢させるのがわかってるのに? さいていじゃん、そんなの。蛍に我慢を強いるとか、やだよ」
やっぱり、海の心はもう決定していて、何があっても揺るがない。きっと海は俺の気持ちを分かっていて、言い出された時にはこの手札を切ろうとずっと考えていたのだ。
それも、とことん悩みながら。
そんなふうに、どこまでも、ばかばかしいほどに人に対して誠実であろうとする態度が好きで、憎い。
俺だけが、恋愛にばかになっていた。
海は友だちを続けたくて、俺を失うのは惜しいと思ってくれていた。だけど、この気持ちが俺に芽生えた瞬間、それは不可能になってしまった。
海への恋情が生まれた時に、二人の友情は死んだのだ。
「ごめんね」
はっと顔を上げると、海は俯いていた。前髪で表情が隠されている。こんな時、謝るのは果たしてどちらなのだろう。どちらも悪いような気もするし、どちらも悪くないようにも思える。
お互い正しくて、間違えている。
「俺もごめん」
俯いたまま海は首を振って、ごしごしと小さい子どものように目元を拭った。俺は何もできずに、黙って海の旋毛を眺める。
俺の初恋が死に、俺たちの友情も死んだ。いや、死んでいた。どちらも、相当前から死にっぱなしだった。
高校一年生で同じクラスになって初めて彼女に話しかける前に、次第に仲良くなって好きだと気づく前に戻ることができたとして、この関係が終わるものだとわかっていたら、俺は始めなかったのだろうか。
「もう、俺からは話しかけないから」
海がゆっくりと顔を上げた。その瞳も鼻の先も頬も赤く、表情だけ見たら彼女のほうがフラれたみたいだ。
「……わかった」
「聞いてくれてありがとう」
「こっちこそうれしかった。ありがとう」
ありがとう、なんて言わなくていい。ありがたいものではなかったはずだ。
「じゃあ、帰るわ。またな」
「ばいばい」
海を置いてその場を離れた。同じ場所に居たのに二人で帰らないのは初めてかもしれない。それと、「またな」と言って「ばいばい」と返されたのも、初めてだったかもしれない。
たった四文字で明確な終わりを告げられるなんて、日本語のくそったれ。
*
高校の同窓会の真っ最中、手持ち無沙汰にあたりを見回していると、見慣れた背中が目に入った。正確には見慣れていないのだけれど、でも、見覚えがあった。
遠目でじっと見つめていると、その人は隣にいる友人と談笑しているようだった。
「あ」
ちらりと見えた横顔に、自分でも気づかないうちに、誰にも聞こえないくらい小さな声が出た。振り向くな、振り向いてくれるな、――一瞬でいいからこっちを向いてくれ。
彼女がゆっくりとこちらに目を向けた。その動作がやけにスローに見えたのは、俺の頭がそうさせたのかもしれない。
俺は急いで、しかし不自然に映らないように彼女から目線を外し、その場を離れようとした。
俺からは話しかけない、もう近寄らないと高三の冬に誓ったのだから、そうすべきだと思った。あの寒い中庭で、己に釘を打ったのだ。
高三の一月、彼女と俺が仲違いをしたことは、ちょっとした動揺を招いた。しかしすぐに自由登校期間に入ったことで、その騒ぎも早々におさまった。
俺からはそのことに関して誰にも何も言っていないが、「ど派手な喧嘩をしたらしい」とうわさが立っていて、誰かがそのように吹聴しているらしかった。
俺はスポーツ推薦での入学が決まっていた大学にそのまま進学した。彼女は第一志望の大学に合格し、進学したのだと風の噂で聞いた。彼女がどれだけの思いで勉強していたか知っていたので、ガッツポーズが出たのは許してほしいところだ。
約二年ぶりの再会だ。あれからは本当に一言も交わさなかった。卒業式でもお互いが居ないもののように扱って、写真を撮ることも、卒業アルバムにメッセージを残し合うこともしなかった。
それでも、彼女は俺の唯一の椅子に座り続けていた。どうしても、忘れることなんてできなかった。未練がましいと誰かに笑ってほしいくらいだ。告白を受けることもあったが、不誠実なことはしたくないと断り続けた。
「――け、……はせがわ」
聞き覚えのある声で、聞き慣れない音がした。
「はせがわ」
彼女が俺に駆け寄ってきた。紺色のワンピースを着た彼女は、髪も綺麗にセットしており、化粧を施しているせいか随分と大人びて見えた。
あの頃はかわいかったが、今はとても、なんと言うか、きれいになっていた。二年しか経っていないというのに、彼女があの頃とは違うのだと当たり前のことを気付かされる。
「あけましておめでとう」
「……おめでとうございます」
「成人おめでとう」
「そっちも」
がやがやと騒がしい会場なのに、俺たちのいる場所だけやけに静かだ。
「……何歳になったの」
「ハタチだろ」
「そっか」
「ふざけてる?」
「……話すこと、飛んじゃって」
海はふわふわとあちこちに視線をやっていて、俺はそれが緊張した時の彼女の癖だと知っていた。
「外行く?」
「う、うん」
二人で会場を後にして、ホテルの外に出ることにした。
今回は高校の学年全体での同窓会なので、それなりに規模が大きく、そのぶん会場となるホテルも立派なところだ。つい五年ほど前に建てられたばかりで、この地域では一番大きい。
ホテルの外は広場のようになっていて、俺たちのように立って話をしている人もちらほら居た。男子が騒いでいるのは喫煙所のあたりだろう。
着ているものがスーツに変わって、最初はぎこちなくても、時間が経てば高校時代の雰囲気に戻ってしまうらしい。
「寒くねえ? 俺のジャケット着る?」
「大丈夫。あ、煙草、吸いにいく?」
「いや、吸えねえし」
「吸わないの? ちょっとも?」
「一回試してみたけど苦くて諦めた」
「はせがわっぽいね」
彼女の近くには、喫煙者の誰かがいるのだろうか。――ああ、いやだ。こんなことは考えないほうがいい。
少しだけ入れた酒と、高校時代のテンションと、「同窓会」にすっかり当てられている。
「まだ私のこと好きなの?」
顔を見ることなく投げかけられた質問に、一瞬だけ息が止まる。
今日、何度も訊かれたことだった。「大親友と縁が切れた感想はどうよ」「御園のことはもう吹っ切れたわけ?」「無理やり恋人作って忘れるってのも手だぞ」「お前ら、あの時どんな喧嘩したの?」「今日は修羅場んなよ」、言葉はそれぞれ違っていたが、あの頃、とつぜん話さなくなった俺たちのことを案じているのが伝わった。
誤魔化すべきか、としばし考えて、やめた。これまでと同じように誤魔化したって、こいつにだけは通用しない。
鼻でゆっくり息を吸って、ふー、と大きく吐く。
「ちゃんと鍵したはずなのに、顔見たらだめだな」
横に並んだ彼女を、横目でちらりと見やる。身長差は埋まってないんだななどと、ばかみたいなことがふと頭に浮かぶ。
俺の言葉に、隣に立つ女は「わははー」と笑っているような笑っていないような声で言った。
「それはたいへん。ちゃんと蓋しておいて」
「でも後悔はしてない」
二年の月日がそうさせているのだろうか。それとも、今後会わないことを知っているからだろうか。いまだに彼女への好意を持っていることも、いまだに彼女が受け取るつもりがないことも、軽やかに話すことができている。
「ほどほどに後悔してよ。私との友情をぶち壊したんだから」
「言われなくても千回ぐらいしたわ。二日ぐらい夜眠れなかったし」
本当のことだ。誰にも言うつもりはないが、あの日から一週間、夜に微熱が出ていたのも、きっと無関係ではない。
「えー、ごめんねって言ったほうがいい?」
「お前が謝ったら俺も謝らないといけなくなるからいいわ。お詫びとして四十五歳になったら結婚して」
冗談のような口調で、わざと軽く聞こえるように言った。それが伝わっていたのか、向こうも少しだけ無言になった。
高校時代の親友は、海は、これだからいやなのだ。なんでもお見通しで、俺が隠したいこともバレてしまう。俺もそうだと思っていたが、いまの海相手だと自信がない。あの頃とはお互い違う。
海は少しだけ声にさびしさを滲ませて、ぼそりとつぶやく。
「……どうせそのとき、あんたは他の人と結婚してるんだよ」
「とか言ってるお前も絶対してるからな。覚えとけよ」
大人になれば、気づかないふりが上手くなっていくものなのだろうか。それが大人になるということなら、できるだけ反抗したい。
「なあ」
「んー?」
「名前、呼んでほしい。一回だけでいいし、今後は『長谷川』でいいから」
「……ばれてた?」
「露骨すぎ」
最初に「蛍」と呼びそうになって慌てて変えたことも、高一の一ヶ月ほどしか使っていなかった「長谷川」で慣れなそうに呼んでいることも、ちゃんと気づいていた。
海がやたら時間をかけてこちらを向いた。ぱちんと音が鳴るように彼女と目が合う。
「け、蛍」
「海。久しぶり」
「ひさしぶり」
笑顔を作ってみようとしたが、寒さで頬ががちがちに固まっていた。そんな俺の様子を見てか、海がゆったりとえくぼを浮かべて笑った。
「蛍、なんも変わんないね」
「海はだいぶ変わった」
「そ? ま、二年で大人のお姉さんになったってことよ」
「……気のせいだったっぽい」
にんまりと笑う顔には高校時代の面影しかなかった。
席が前後になった時に、居眠りをしていると海にシャーペンで背中を刺されることがあった。睡眠を邪魔されたことにむかついて振り向くと、きまって海は今のような顔をして、いたずらっぽく笑っていた。
「二次会行くの?」
同窓会が終われば、今度はクラス単位でのゆるい二次会が行われる。参加する友だちが多いので、俺も連れていかれることになるだろう。
「おー」
「私も行くけどさ、みんなの目が気にならなくなったときに話そーね」
こうして、打ち合わせをしてから話す仲というのは、少し虚しい。けれどしょうがない。俺と海はそういうふうにできている。
「おー」
長谷川、と小さな声で呼ばれた。この時間も終わってしまうらしい。
今回の「明確な終わり」も、やっぱり四文字だった。
「つぎはさ、異性愛主義のなくなった頃にせーので生まれようよ」
御園がうんと伸びをしながら言った。異性愛主義。俺たちを苦しめているものに、ちゃんと名前はつけられるらしい。
「生殖が人体と別個になったときな」
「わはは。そうそう。人類が生殖しなくてもいい時代になったときにまた会お」
始まりが間違っていたのなら、やり直せばいい。
いや、少し違う。今回の俺たちは、こうなるものだったのだ。俺たちの運命はそういう星の下にあった。だから俺たちは、こうしているのが正解なのかもしれない。
なにも、付き合って、結婚することばかりが「ゴール」ではないだろう。一度は交じり合ったのに離れることになって、くっついたり離れたりしながら生きていくのも、立派なゴールだ。
俺たちの正解はこれだった。俺と御園以外には誰にも、神にだって間違っているなんて言わせない。
「会場戻るね」
「俺はしばらくしてから行くわ」
「うん。じゃあ」
「じゃあな」
ヒールを慣らして歩く彼女の背中を見つめ続ける。運命なんか、くそくらえだ。
御園海はずるいところがあり、それでも長谷川蛍は御園海のことを憎めないのだから惚れたもん負けですね〜。それでも、最終的にはなんだかんだで長谷川蛍が粘り勝ちをしそう。がんばれ!