【第一章:Lesson】④
◇ ◇ ◇
「沖先生に呼ばれました」
ほとんど足を向けることもなかった職員室。
怜那は、ドアを開けたその場で立ったままそれだけ口にした。
「おう、有坂。こっち来なさい」
声が掛かった方向へ目を向けると、部屋の中ほどで沖が座ったまま手招きしている。学年で一塊になっているらしい机の一番端なのは、やはり若いからだろうか。
怜那はおざなりに軽く頭を下げて、ゆっくりと彼の元へ歩を進めた。
「有坂。お前もうちょっと何とかしないと、このままじゃマズいぞ」
真剣な顔の沖の言葉の意味はわかっている。
先日の中間テストの結果だろう。怜那にとっては、特に驚くようなものでもなかったのだけれど。
「私、私大文系希望だし。受験にも数学なんて要らないから、別にいいです」
平然と答えた怜那に、沖は一瞬言葉に詰まったようだが、教師に対して失礼だと咎められることはなかった。
「いや、私大は推薦も多いだろ? その場合、評定で数学の成績は嫌でも外せないし。それよりなにより」
彼にとっては怜那の物言いを気にするどころではないのだろう、と次の言葉から察せられる。
「お前さ、なんでそんなに余裕持っていられるのか知らないけど、受験以前にこのままじゃ進級も危ないんだよ。去年の担任の先生には何も言われてないのか? お前、二年に上がるのも結構ギリギリだったんだけど」
シビアな現実を突きつけられて、さすがに怜那は動揺する。
「え、進級、ってそんな……。去年……は、先生には数学もっとやれとか怒られた気はするけど、進級なんて聞いてない……。たぶん」
「四十点未満は赤点、つまり欠点だって言うのは知ってるよな? 学年通して、平均が四十点割ると単位認定できない可能性が高いんだよ。もちろん、なるべく留年も退学も出したくないから、救済措置として期末や学年末のあとに追試することもあるけど」
「……追試」
鸚鵡返しする怜那に、沖は窘めるような口調になった。
「いや、追試だって『受ければ合格』じゃないから。わかるか? 結局は最低限の学力は要るんだよ」
──こういうの、熱血教師ってーの? 普段から熱いとこはあったけど、直接見せられるとなんか凄いな、この人。
懇切丁寧に説明してくれる沖に、現実逃避するかようにどこか他人事のような感想を抱いてしまう。
それでも怜那はなんとか彼の言葉の意味を必死で考えようとするが、頭の回転がついて来ない。
「ちょっとテストの結果が悪かっただけなら、いちいち個別に呼び出して説教なんかしない。有坂、授業もちゃんと理解できてないんじゃないのか?」
図星を指されて何も返せない怜那に、目の前の沖は仕方なさそうに息を吐き、さらに言い聞かせるように続けた。
「もちろんまだ二年になったばかりだし、今すぐどうこうなんて話じゃないけど、こんな点数が続いたら確実にアウトなんだよ。……高校は義務教育じゃないからな。したくなきゃ、勉強なんてしなくていいってのはその通りだ。いい大学に行くだけが人生じゃないんだから。でもせっかく高校来たんだから、ちゃんと卒業はした方がいいだろ? それもどうでもいいんなら、俺ももう何も言わないけどな」
「いえ。私、卒業はしたいです。……大学も、行きたいし」
噛んで含めるような彼の言葉に、怜那は反射的に返す。
「だったら、もっと本腰入れて頑張らないと」
怜那の返事に、沖は少しは安堵したようだ。
「他の教科は、理科も含めてまあ平均以上にはできてるしな。特に英語はかなりいい。進路調査では、外国語学部かそのあたりに進みたいって書いてたよな? あとは数学さえもう少しどうにかすれば、進級や卒業は何も心配ないから」
「数学、……要らないと思ってたから。私、中学からずっとできてなかったけど高校も受かったし、文系だし、でも──」
言い訳のつもりもなく、ただ勝手に気持ちが口から零れて行く。
沖は怜那のいい加減な姿勢を叱ることもなく、冷静に打開策を提示して来た。
こういうところが数学教師らしいというのだろうか。
「放課後、補習やろうかと思ってるんだけど、参加するか? それとも一人で何とかやれるか、どうする? 今すぐ決めなくてもいいから、家に帰って考えてからでも──」
「補習行きます!」
予想外の事態に思考停止状態だった怜那は、ようやく我に返ってそれだけ告げた。
普段と違うだろう強い反応に、沖が驚いている様子が見て取れる。
「……そうか、だったら詳しいことはまた知らせるから。今週中には始められるかな」
──進級、卒業……? 私、そんなに……。
沖の声を半ば聞き流しながら、怜那は足元が揺らぐかのような感覚を覚えていた。