あの日まではしあわせだった
人間を拾った。
それはぼろきれの様にボロボロで、薄汚れた小さな塊だった。
ひょいと摘まんで腕の中に入れてみたら、肩が上下していたので辛うじて息をしていることが分かった。
人間などただの餌だが、私の腕の中で蹲るこの小さな塊を見ていたら何故か血を吸う気にはなれなかった。
理由は大方、薄汚れて美味しそうに見えなかったからだろう。
何の気の迷いか、私はその小さな人間を自らの住処に連れて帰ってきた。
小さな人間は死の淵を彷徨っていたが、分からないなりに作った温かい粥をやって清潔な布団に寝かせてやったら、数日で意識を取り戻した。
目を開けた人間は、私の赤い目と鋭い牙を見ても驚かなかった。
そればかりかその夜を湛えた色の瞳を見開いて、ここは天国かと聞いてきた。
私は君はまだ死んでいないと諭したが、多分そういうことではなかった。
ここが天国だというのなら、道端で捨てられていた時、この人間はどんな地獄を見ていたのだろう。
私は聞かなかったし、人間もそのことについて喋ろうとはしなかった。
小さな人間は私によく懐いた。
私はそれにねだられるまま手を繋いでやり、一緒に寝てやり、散歩に出かけた。
人間などただの餌なのに、私はそれの血を吸って殺す気にはなれなかった。
撫でてやると目を細めて喜ぶし、抱いてやれば口を開けて笑う。
良く分からないが、嫌な気はしなかった。
…
吸血鬼に拾われた。
何の価値もないわたしに名前はなかったけれど、床をゴロゴロしてお願いお願いとお願いしたらヴォルカーは付けてくれた。
世界でたった一つの、わたしだけの名前。
肌が白いからユキだって。
どこの国の言葉かと聞いたら、遠い海の向こうの国の言葉だと言われた。
そんな遠い国の言葉を知っているなんてヴォルカーは賢いなあ。
すごいすごいと言ったら、ヴォルカーは人間よりも何百年も多く生きているから色々なことを知る機会も多いのだと教えてくれた。
吸血鬼ってすごい。たくさん生きててすごい。
わたしもヴォルカーみたいにたくさん生きられるかな?
そうしたらヴォルカーは曖昧に笑っていた。
今日もヴォルカーが窓際で本を読んでいたのでわたしはその足によじ登り、わたしだけの特等席である膝の上に陣取った。
ヴォルカーは読んでいた本を少し持ち上げて、わたしの頭に本の角がぶつからないようにしてくれた。
わたしはそんな些細なことも嬉しかった。
ここはわたしの、世界で一番安全な場所。
わたしはここでうたた寝をするのが好き。
ここから窓の外で沈んでいく夕陽を見るのが好き。
「ユキ、今日の晩御飯は何がいい?」
しばらく無言で本を読んでいたヴォルカーが本から顔を上げた。
そろそろわたしのお腹がすいてくる時間だった。
「めだまやきがいい」
「それは朝も昼も食べただろう。鶏は一日にそんなにたくさん卵は産めないよ」
「そっかあ。じゃあなんでもいい。ヴォルカーのたべたいもの」
「私のたべたいもの……。そうだね、私は食べないけど豆のスープはどうだい」
「うん、それがいい!」
「じゃあ早速作り始めよう。ユキ、畑から豆を取ってきて」
「うん!」
ヴォルカーとわたしが住んでいるお城は森の奥深くにあって、小さくて古ぼけているけれど裏庭には畑も鶏小屋もあってとてもいいところだ。
わたしはヴォルカーの膝から飛び降りると、一直線に廊下を走って畑に向かった。
小さな籠を小脇に抱えたわたしは早くヴォルカーの元に戻りたいので、食べごろの豆を懸命にむしり取って籠に入れていった。
そしてキッチンで下ごしらえをしているヴォルカーの元に駆け戻って、そこで豆の殻を一つ一つ剥いて鍋に入れていく。
危ないから気を付けるようにとヴォルカーは言うけれど、わたしだってもうちゃんと働ける。
ヴォルカーのお手伝いがしたい。
しばらく鍋を混ぜて、ヴォルカーが味を見て欲しいとわたしにスプーンを差し出してくる。
ちゃんとフーフーして冷ましてくれたものだから、わたしが火傷することはない。
わたしはスプーンを口にパクっと含んで美味しいと頷いた。
ヴォルカーは味が分からないから、こうやっていつもわたしに味見を頼む。
出来たよと言って、ヴォルカーはお皿に豆のスープをよそってくれた。
ヴォルカーは作ったものを決して食べようとはしないけど、わたしが食べている時は一緒に席について話し相手になってくれる。
ヴォルカーがいるから、わたしはいつもしあわせだ。
…
食事をしているところを見られた。
正直に言って、その晩の私は油断していた。
小さかったユキは今や中くらいになり、短かった髪も随分伸びた。
でも相変わらず甘えたがりで、いつも手を繋いで寝て欲しいとねだってくる。
この日も私は寝転がってユキを寝かしつけてやっていた。
そうしてユキがスースーと寝息を立て始めた時、私はそろりとベッドから起きだした。
そろそろ腹が減ったと思ったのだ。
私はユキを起こさないように城の扉の鍵を閉めて森に入った。
人の里へ下りる為だ。
そして人の里へ下りた私は餌を狩って暗い森の中に戻ってきた。
ゆっくりと食事にしよう。その時はそう思っていた。
ユキはいつも一度寝ると朝まで起きてこないので、今宵もそうだろうと勝手に確信していた。
しかし、城に残してきたユキは私の予想を裏切り、夜中にいなくなった私を探して森を歩き回っていたのだ。
そして食事中の私を見つけた。
ユキにはこれまでに色々な事を話して聞かせていた。
だから私が今何をしているか、この賢いユキには簡単に理解できるだろう。
だが、首筋に齧りつかれてビクビクと動いている肉塊と血を滴らせた私を見て、ユキは逃げるでもなく叫ぶでもなく、私に駆け寄ってきた。
そして一言、おいていかないでと言って引っ付いてきた。
おいていかないよ、と宥めても離れてくれなかったので、私はユキに血が跳ねてしまう前に食事を終わらせることにした。
食べ終わった肉塊を捨て、私は血を拭った手をユキと繋いだ。
夜中に起きてきて眠たいだろうに、ユキは私と手を繋げて嬉しそうだった。
私はその小さな手を壊さないように、でも放さないように強く握って住処への帰路についた。
…
今の私は多分、ヴォルカーと7歳差くらいに見える女の子だと思う。
勿論ヴォルカーが7歳年上だ。
ヴォルカーが言うには、私を拾ったのが15年前だから、今の私はぴちぴちの15歳、よりもう少し上で、多分18歳くらい。いや、ちょっとおっぱいも大きくなってきたし19歳かも。19歳ということにしよう。
私は19年も生きていたから、あれだけチビだったのに足も手も長くなって身長も伸びた。
もう背伸びをしなくても洗濯物が干せるし、高い木になった木の実も獲れる。
だけど、良いことばかりじゃない。
私の体が大きくなってしまったから、ヴォルカーが一緒に寝てくれなくなってしまった。
ベッドが狭いからと、ヴォルカーは黒い箱の中で寝るようになってしまったのだ。
それに私がヴォルカーの膝の上に座りたいと言うと嫌がる。
私の座高が高すぎて、膝に乗せたらもう本が読めないんだって。
だから私はヴォルカーの隣で本を読む。ヴォルカーが教えてくれたから、私はたくさんの本が読めるようになった。自分の名前の言語も勉強したので、東の国の言葉で書かれた本だって読める。
私は本が好きだけど、ヴォルカーが本の紙を静かにめくる音はもっと好き。
伏せられた長いまつ毛も好き。長くて黒い髪も好き。
肘掛椅子に何気なく置かれたその手の長い指に触ると、本から目を逸らして少し難しい顔をするその仕草も好き。
それから私が手を握ると、仕方なさそうに握り返してくれるところも好き。
私は、ヴォルカーと過ごすゆっくりとした時間が好き。
「ユキ、今日の晩御飯は何がいい?」
私のお腹がすいてくる時間、ヴォルカーが本から顔を上げた。
「オムレツ!」
「それは朝も昼も食べただろう。もう今日の分の卵がないよ」
「じゃあ豆のスープが食べたい」
「わかった。そうしよう」
「うん、豆を取って来るね」
いつかと同じような夕暮れの空を見ながら、私は率先して畑に向かった。
ヴォルカーはあまり陽に当たりたがらないから、畑仕事は私の担当なのだ。
私は鼻歌を歌いながら、手際よく豆をもいでいた。
口ずさむのはヴォルカーが教えてくれた海の歌。水中を自由に泳ぐことのできる尾ひれを持った一族が作った歌なのだとヴォルカーは言っていた。
この日も、昨日と同じように私とヴォルカーだけの一日になる筈だった。
昨日と同じように、私とヴォルカーだけの世界が続く筈だった。
だけど。
「こんなところに、女性?君はここに住んでるのか?」
豆が籠に集まってきた時、得体の知れない人間に声を掛けられた。
そこには金髪の青い目の人間と、それに付き従った何人か。
金髪の人間が私に手を差し出しながら、こちらに歩いてくる。
「僕たちはこの森を開拓しようと王都から来たんだけど、君はこの森に詳しそうだね。是非色々案内して欲しいのだけど」
「来ないで!」
私は微笑む人間に向かって叫んでいた。
この場所は人間に知られてはいけない。
ヴォルカーの住処が、人間に知られることがあってはならない。
直ぐに城に駆けこんで、ヴォルカーに絶対外に出てくるなと伝えなければ。そして私たちは一刻も早くこの住処を離れなければ。
「ユキ!なにかあったのか!」
だけど踵を返した私より、私の叫び声を聞いて駆けつけてきたヴォルカーの方が早かった。
背中で、人間たちが息を飲んだ音を聞いた。
赤い目と影のようなヴォルカーの出で立ちに、人間たちは一目で気が付いただろう。
武器を構える音がした。
私は人間たちの持つ武器を見たことはないけれど、幼いころに私に苦痛を与えた器具と同じ色で同じ音だったから、良くないものだということは分かった。
「待て!今発砲したらあの子にも当たってしまう!」
「構うものか!」
金髪の男が武器を構えた仲間を制した。
それなら私はヴォルカーを守ろうとヴォルカーに駆け寄ったが、金髪の男の仲間は構わず発砲した。
バンバンバンと身の毛がよだつ音が容赦なく連続した。
思わず目を瞑ってしまった。
私は恐ろしさに目を閉じていたものの、体の方はヴォルカーに覆いかぶさり盾となったつもりでいた。
だけど目を開けると状態は逆転していて、ヴォルカーが私に覆い被さっていた。
「ヴォルカー!なにしてるの!」
「……私は大丈夫だよ」
ヴォルカーは青ざめる私の耳元で薄く笑った。
違う。大丈夫じゃない。
肩から血が出ているのが見える。背中から伝った血が足元をどす黒く染め始めているのが見える。広がる絶望の様にどんどんと血だまりが出来ていく。
私は血を止めようと手を伸ばしたけれどその前に、ヴォルカ―が砂のように崩れた。
ザラザラザラ。
そんな音を立てて崩れていく。
私の世界が壊れていく。
私のたった一つの世界が消えていく。
プツリと気を失った私が再び目を開けた時、私は得体の知れない場所の得体の知れないベッドの上で寝ていた。
そこは金髪の男が用意した部屋だった。
意味が分からなかったけれど、私にはその謎を解き明かす気力も、その場所から逃げ出す目的もなかった。
もうヴォルカーがいないから、私には帰るところがない。
「また泣いていたんだね。酷い目に遭ったことを夢に見たんだろう。可哀そうに」
金髪の男はベッドに腰かけ、私に話しかけた。
この男が言うには、私は吸血鬼に捕まっていた哀れな女の子で、勇ましい人間がその窮地を救ってくれて、その上優しいこの男は、酷い目に遭った私の面倒をみてくれているらしい。
男は日に何度も私のところにやって来て、何度も私に話しかけてくる。
だけど私は石像の様に固く口を結んで、ただ息をするだけだった。
ヴォルカーは憎悪という感情を教えてはくれなかったけれど、ヴォルカーを殺した男を目の前にして、私はそれをここで勝手に学んでいた。
「僕は王都の出身だけど、この地域の開発責任者としてこの場所に住むことになったよ」
「これで君を置いて王都に帰らなくちゃならない事態にもならなそうだ」
「僕がこれから君の心の傷を癒していければいいと思ってる」
男が何か真剣な顔で話していたが、それらはすべて私を苛々させるだけだった。
だけど体に力の入らない私は、その苛立ちをどう扱えばいいのか分からなかった。
あの日からどれくらいの時間が経ったのだろう、と私はそればかりを考える。
今日は沈んでいく夕日を見て、ヴォルカーの膝の上を思い出していた。
紙のにおいと、インクのにおいも思い出していた。
上を見上げればヴォルカーの顎が見える、そんないつぞやの日を思い出していた。
「大事な話があるんだけど、いいかな」
「実は僕はね、一目見た時から君に惹かれていたんだ」
「すきなんだ」
ある日私の元にやってきた男は、私の手を取ってそう言った。
私は、男が何を考えてどんな気持ちでその言葉を言ったのか分からなかった。
だけど私は、好きだという感情が何かということなら知っている。
ずっと傍にいたくて、ずっと手を繋いでいたくて、ずっと見上げていたい。
それはヴォルカーが一番最初に私に与えてくれた感情だ。
汚れた布切れのように打ち捨てられていた私に差したひかりだ。
ヴォルカーだけが私にくれる気持ちだ。
私の髪を一筋耳にかけて、男の顔が近づいてきた。
鼻と鼻がぶつかりそうな距離で私の顔を覗き込んでくる。
「キスしてもいい?」
男は湿ったようなまとわりつくような空気を漂わせて、私にそう聞いた。
「……キス?」
「君が好きな女の子だから、僕の特別になって欲しいんだ」
私が初めて言葉を発して喜んだのか、男は更に近付いてきた。
だけど私は腕を思いっきり突き出して男の体を遠ざけた。力の出なかった体は、酷い嫌悪感を原動力に動いたようだった。
男は我に返ったような顔をして、急かすつもりはなかったんだと私に謝った。
私はそんなことがあった日の夜も、ヴォルカーの事を考えていた。
長い指。私を傷つけないように丁寧に切られた爪。切れ長の赤い目。
いつも私が結っていた黒い髪。私と同じ雪のように白い肌。暗いところで昼寝をするのが好きだった。
帰りたいと思った。
もうこんなところにいるのは嫌。ヴォルカーのところに帰りたい。
でも叶わぬ願いだと知っているから、私は静かに泣いた。
月の綺麗な夜だった。
「ユキ、だいじょうぶかい」
唐突に、探していた低い声がした。
幻聴だと思った。
真っ暗闇にいる私はおかしくなって、幻の声を聴いたのだと思った。
でも、そうじゃなかった。
月明かりが届く部屋の中、影を伝って現れたような静けさでそこにヴォルカーが立っていた。
その姿を見ただけで、もう力の入らなかった体が嘘のように元気になった。
跳ねるようにベッドから飛び出し、転がるようにヴォルカーに駆け寄る。
抱き付いて濡れた頬をグリグリと擦り付けると、ヴォルカーは優しく背を撫でてくれた。
「撃ちこまれた銃弾に銀が混ざっていて、少し苦労したんだ。遅くなってしまってすまないね」
「うん」
「これから東に行こう。ここにもじきに吸血鬼狩りが来るだろうから」
「うん」
私は激しく頷いた。
分かっていたはずだった。ヴォルカーが私をおいていくことはない。ヴォルカーが約束を破ることはない。
そして私はヴォルカーが行くところに行く。ヴォルカーがいるところにいる。
「ヴォルカー」
ヴォルカーは真剣な話の続きをしようとしていたが、私は掠れる声で話を遮っていた。
ヴォルカーで胸がいっぱいだった。
「キスして欲しい」
そう言って見上げたヴォルカーは驚いた顔をしていた。
しばらく黙って、何か思案しているようだった。
でも結局、小さく頷いてくれた。
「いいよ。おいで」
ヴォルカーは少し屈んで、私と目線を合わせてくれた。
私はきっと、この瞬間に理解した。
ずっと見上げていたいと思う敬愛の好き。ずっと傍にいたいと思う親愛の好き。
そしてそれだけでは収まらない特別な好き。
この世にたった一つの特別な好き。
ヴォルカーだけが、私の特別だ。
「いこうか」
私はヴォルカーと共に部屋を抜け出した。
人間が全て死んだように静まり返っている街の建物のあいだを抜け、歩を進める。
これから私たちは、誰にも見つからない場所を探して東へ向かう。
皆さんの暇つぶしになれていたら幸いです。
ブックマークや評価してくださると喜びます。