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隠居 山に登らんとす 

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 こーちゃんは、仕事をやめたら何をしたいとか、予定ある?

 いや、別に今すぐというわけじゃない。いつか定年がやってくるし、そうでなくても体調その他の原因で、いつ仕事ができなくなるか分からないだろう? そうなってひと段落ついたらさ。なにかやりたいものってある? やっぱり、執筆?

 僕はそれらの目標とか計画、ぜんぜんないんだよね。学校じゃ勉強とか部活をし、いずれ仕事に就いたらひたすらに仕事をし……こう、押しつけられたものをこなしていくので、精いっぱいさ。

 もし押しつけられたものがなくなったら、どうすればいいんだろ。人生が終わるとき、自分は何をしていたんだろうって、思わないかな?

 老後の過ごし方も、昔からいろいろあったみたいでさ。それでまた、不思議な目に遭うこともあったとか。そのうちの一話、聞いてみないかい?


 むかしむかし。とあるご隠居さんは、散歩を日課としていたらしい。

 若い時にはお得意さんをはしごして、その間はいささかも心に安らぎを覚えることはなかった。その中で顔を合わせたくない相手も、ひとりやふたりじゃなかった。

 それでも「仕事だから」と、自分を押し殺して働くこと数十年。ようやく子供に後を任せ、自分は片田舎へ引っ込むめどが立ったんだ。

 隠居してからの彼に、計画などなかった。「人間五十年」といわれてきて久しい。実際にその歳を迎えてみると、目鼻や手足に衰えを感じてしまう。このうえで命がけの狩り、戦に参加するなら、確かに命を縮める結果となるはずだ。

 だがご隠居さんのいる環境は、「安穏」の二文字。くわえてお金には困っていないと来ている。悩まされてきた人間関係から離れて、思う存分に吸う空気のうまさを味わいながら、ご隠居さんは晴れ晴れとした気持ちで、日々、西へ東へ足を向けていたらしい。



 そんなある日のこと。ご隠居さんは気に入っていた散歩道のひとつで、妙な姿に気がついた。

 途中でふもとを通りかかる山のひとつ。その背が、日に日に伸びているような印象を覚えたんだ。雲に隠されて全容が見えないときはあったが、それゆえに判断を誤っているとは、どうしても思えない。

 試しに、家から長めのものさしを持ち出し、山の根元を隠す高木のてっぺんから上を測ってみる。ものさしを浮かせた不安定な状態ながらも印をつけ、天気と体調が許す限りで計測を続けた。


 すると一日で、およそ一寸(約3センチ)ほど、山のてっぺんが高くなっていることに気がついたのだとか。あくまでふもとから見ての長さだから、実際のところ、どれほど山の背が伸びているのかは分からない。

 やがて、ものさしひとつ分では足りない高さにまで到達。ご隠居さんは自分のうちの好奇心がうずき出すのを感じた。

 もし働いている間なら、たとえ同じようなものを目にしても、「店の利益にならないから……」と、半ば脅されるような思考回路が邪魔をしただろう。追及する気を起こせなかったと思う。

 それがいまは、縛るものはなにもない。ご隠居さんは軽く山登りの準備をすると、その日はゆっくり休む。もちろん、あの山へ登って何が起きているかを探るためだ。

 

 調べる基準に使っていた木立の中へ分け入り、ご隠居はやがて山のふもとへたどり着いた。

 少しおかしな光景が広がっている。これまで続いたなだらか地面から、斜面へ切り替わろうというとき、大きなほりらしきものが、そこに横たわっていたんだ。

 水が張っている気配はないが、その溝は幅五十尺(約15メートル)、深さ十尺(約3メートル)にも及ぶ。それがぐるりと斜面を囲んでいるんだ。


 自然にできたものとは考えづらい。さりとて、誰かを傷つけて外へ追いやりたいという、意志までは感じない。

 ご隠居は溝のふちからそっと足を入れ、濠の底へ歩いていく。むき出しの地面は、先ほどまで踏んでいたものよりずっと湿っていて、一歩ごとにぴちゃぴちゃと音を立てた。

 やがて底の平らな部分へ着いたご隠居だが、不思議とその先へ進むことができなかったという。

 濠を上ることが、難しいというわけじゃない。その対岸までたどり着くことができないんだ。

 ご隠居は歩く。けれどもその前進は、濠の中心あたりで止められてしまうんだ。いつまで経っても、距離を縮めることができない。きつねに化かされたのかと、紫煙をくゆらせてみるも結果は変わらず。

 ただ口から吐き出す煙そのものも、ご隠居の足より先へは行かない。煙はその地点から上下に分かれ、伸びていくばかり。どうやらここに、阻まれたことさえ相手に感じさせないほどの、見えない壁があるらしかった。

 

 ご隠居は広がる濠の中を歩いていく。見えない壁のあたりに伸ばし、左回りでぐるぐると巡る。一周したら、高さを変えてもう一度……と、ひたすら数を重ねていった。

 朝にたどり着いてより続けるこの作業。すでに太陽は正午を回っているように思えたが、ご隠居はついに見つける。

 自分の頭より、二尺近く高い空間の一点。そこには壁がなかったんだ。アタリをつけて石を投げこんでみると、跳ね返らずに中へと吸い込まれたのを確かめられた。

 ご隠居が跳びあがって手をかける。相変わらず、手には痛い、冷たいなどの感触はないまま、身体が空中にぶら下ってしまった。そこを起点に、やはり壁らしい壁の感触がない、奇妙な防壁を足掛かりにして、身体ごと向こう側へ入り込むことに成功したんだ。

 先ほどまでの停滞がウソのように、あっさり対岸の濠を渡り終えてしまい、ご隠居は頭上を見上げる。

 おそらくこの斜面こそが、この山のすそ。そのてっぺんはもはや見通せないほどになっており、ご隠居は二の足を踏んでしまう。暗くなる前に帰れるか、不安がこみ上げてきたんだ。

 

 ――見通しは甘かったが、タネは分かった。次はも少し支度をして、早く家を出れば……。

 

 そう思った矢先のことだった。

 

 

 突然、足元の地面がひっくり返ったんだ。

 地震の比喩じゃない。本当にぱっと、ご隠居の頭が下に、足が上を向いたんだ。周りの景色も一緒に、逆さまに転じた。

 足が離れる。けれども、先に着くべき頭の先に、あるのは広がる空ばかり。

 叫ぶことはできなかった。息を絞り出そうとすると、きりきり頭が痛む。ぐっと歯を噛んで耐えるも、何をしない間も頭の痛みは増していくばかり。

 更には、自分について落ちてくるものがある。あの山そのものだ。

 てっぺんをひっくり返されたその山は、頂上よりきらめく粒となって、空へ空へと落ちていく。

 おそらくは、ご隠居と落ちる速さは変わらない。それでもほとんど見えなくなっている「地の空」に残した山すそは、心なしか細くなっているように思えたんだ。

 

 ――もしかしたらこのまま双方、あの見えない壁にせき止められるまで、落ちる羽目になるか……。

 

 

 そう考え出すご隠居のわき腹を、何かが突き飛ばした。

 骨がきしみをあげるのがはっきり分かり、その相手の顏さえ分からぬままに、ご隠居の身体は下から横へ進む方向を変える。ぐんぐん山から引き離され、その姿が見えなくなるかというところで、背中をしたたかに何かへ打ち付けた。

 地面。逆方向へ落ちて、遠ざかってしまったはずのそれが、痛いほどにご隠居の背を受け止めてくれたんだ。

 ご隠居の目の前には、あの濠が横たわっている。でもその先にあの山の姿はなく、自分が歩いてきたところと変わらない草地が、広がっているばかりだったのさ。

 

 のちにご隠居は、砂時計の存在を知る。

 ひょっとしたらあそこは、山の大きさほどに砂が溜まる砂時計の一部で、自分はそこに入り込んじゃったんじゃないか、とご隠居は語ったとか。


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