暴虐な蝋燭の足音がする
「アン兄さま、抜け出して来てくれるって。きっともう学校を出てるよ」
「あぁ良かった。父上やヘレノスお兄様を丸焦げにせずに済んだ」
アレクトーは大きな三人掛けのソファにひとり座っていた。そこへパリスがやってきて隣に座った。
同じような背丈の姉弟は向かい合って二人でくすくす笑った。侍女が抜けた一瞬の隙に談話室で内緒話を始めたのだった。
アレクトーは満足顔でパリスを撫でた。パリスのつきたての餅のような柔らかな頬をふに、と押した。
「ありがとう、お前が居なくてはこうはいかなかった」
「ふふふ、アン兄さまは説得難しそうだもんね」
「うん。ご苦労様」
パリスはくすぐったそうに身をよじったが、自分から姉の手に頬を寄せた。もっと褒めろと言わんばかりにスリスリ頭を動かした。猫の様でもあり、犬の様でもある。可愛い弟にアレクトーは快活に笑った。
「でも本当にいいの?」
「良いよ。何もかも、順風満帆。万事順調だ」
にこりとしなるアレクトーの目はどこか血生臭い。パリスがぶぅと顔を顰めるとアレクトーがその鼻を押し上げた。弾みでブヒっと豚のような鳴き声が出る。
「めりあ!もう!!やめて!」
パリスの子どもっぽい怒りの表情に気をよくしてまた鼻を2,3度押し込んだ。フガフガと情けない声が出る。
「やめてったら!!めりっピギッ!」
「あははははは!かわいい!」
▼
1週間前─矢に射られて1か月経ったある日のことだ。
難航する損害賠償内容について手紙ではなく、直に話し合おうとアイギス家から提案があった。プリアモス・トリアイナ─トリアイナ侯爵はその提案に是と答え、会合は本日午前10時に設定された。
1か月も何をグズグズしているのか、とは長女クレウーサの言だがそれも致し方なし。件の事件はちょうど夏季休暇中に起こったので貴族たちはみな領地や避暑地に散らばっていたのである。
よって夏季休暇が終わりちょうど両家が王都へ戻る時期、つまり今日会合を開くことにしたのだった。非常に合理的な調整である。
屋敷は朝からざわざわと落ち着きがない。アレクトーとパリスはそんな様子を傍目にひそひそ話を続けていた。ドアノブが回る音がすると二人とも話を止め、扉を振り返った。イレミアが戻ってきた。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
予想外の呼び出しに二人とも面食らった。もう10時をいくらか回っている。会合の真っ最中のはずだが何故かアレクトーが呼び出された。話し合いがこじれたか?パリスは首をひねった。
「今すぐに?」
「はい」
アレクトーもパリスと全く同じ顔をしていたが、兎に角来いと言うのなら仕方がない。立ち上がって後でねとパリスに小さく手を振った。
イレミアについて庭に出ると気持ち良い風が吹いていた。なるほどこれは外に出たくなる天気である。会談が終わって一服しようと外にでも出たのだろうか。
行く先の東屋には三人の男女が見えた。プリアモス、クレウーサ、そしてアイギス侯爵である。
父と姉はいつも通りの様子だがアイギス侯爵の優し気な顔はどことなく疲れて見えた。まぁ無表情の強面と正体不明の美女に挟まれれば疲れもするか。アレクトーは思い直して促されるまま侯爵と父の間に座った。変な座位置である。その場に流れる空気も庭の清浄な空気とは違いどこか堅苦しい。法廷の証人席にでも座らされた気分であった。
「やぁ、君がメリアスだね」
アレクトーをにこやかに迎えるとアイギス侯爵は柔らかく目を細めた。彼は長年女児を望んでいたので頬が緩んだのだろう。そうでなくてもテュンダレオース・アイギスは子供好きで有名だった。
「お初にお目にかかります。アレクトー・メリアスです」
用件を聞くべきかどうか、それが10歳児に相応しいか考えた。一拍置いて何も聞かないことに決めた。しかし、しっかりとアイギス侯爵を見つめ返した。侯爵は少し眉を下げた。困った話題なのだろう。
アレクトーは父を振り返った。
「卿は頑なに結婚という形での補償を望んでおられる」
アレクトーは俯いた。考え込んでアイギス侯爵を見つめ返した。彼は困惑顔のままだが、主張を取り下げる気はなさそうである。素直に理由を聞くほかあるまい。
「なにゆえですか?」
アイギス侯爵はすぐには答えなかった。クレウーサが目を細めると視線から逃れるようにアレクトーに向かい合った。クレウーサのような人間は苦手なのだろうか、アレクトーは首をひねった。
プリアモスは相変わらずピクリとも表情を変えずに全体を観察している。
「気軽には話せぬ事情という訳ですのね」
クレウーサの一言に場が凍った。アレクトーは言い淀むのだから当たり前だろうと考えたが、使用人たちは全員時が止まったように動かなくなった。
アレクトーは一生懸命考えに考えて一つの疑問に行き着いた。そういえばアレクトーを射た矢は態々祝福付きの物だった。祝福付きの矢など普通の狩りに使うはずはない。素材も合わせて恐ろしく高額で楽に入手できるものではない。あの狩りは特別な儀式や祝いのための供物を探していたのだ。
するとアイギス侯爵自身が矢を用意したことは明白である。その上、その特別な矢が何を引き起こしたかも知っているのだろう。アイギス家もトリアイナのように必ずと言うことはなくても多くの魔術師を輩出している家系である。
アレクトーと同じ加護を持つ矢。更に射手の、アレクトーより格上の神々の加護が加わる。そうするとどうなるか。
「矢傷のことでしょうか」
アレクトーが言葉を発するとアイギス侯爵は驚いて目を見開いた。プリアモスは不審そうに二人を見ながら続けた。
「皆復術は施した、痣の一つも残っておらぬはずだ」
アレクトーは意外に思った。ヘレノスは父に事態を報告しなかったらしい。アレクトーとしても態々知らせるつもりはなかったが、アイギス侯爵が知っているなら話すべきか。視線を彼に送るとまたしても驚いた顔をしていたが諦めたようにため息をついた。
「なるほど、それで納得して貰えなかった訳か」
プリアモスがアレクトーの胸に傷が残ったことを知らずにいるとは思っていなかったようだった。
アイギス侯爵は冷めた茶を一口含んだ。アレクトーの心臓あたりを見つめると今度は悲しそうに眉を下げた。
「彼女を射った矢は特別な祝福を受けたトネリコの矢だ。傷は簡単には治らないだろう。否、一生痕が残るものと予測する」
その言葉にはたまた以外にもプリアモスが息を止めた。クレウーサも少しの間驚いていたが、すぐ切り替えたのかいつもの取り澄ました表情に戻った。そしてアレクトーに目線を寄越した。傷跡は在るのかと問うていた。
「はい、残りました」
「馬鹿な、ヘレノスを以てしても完治できなかったのか?」
「傷自体はきれいに治りました」
「でも痕は残っているのね」
予想はしていただろうが、トリアイナ三者の言葉の応酬が重なるにつれアイギス侯爵は俯いていった。可哀そうだなと感慨もなく彼を見つめながらアレクトーは思った。どの登場人物もただの巻き込まれ事故なのだが、貴族という家柄ではそうもいかないものだ。
「私は気にしておりません。相応の賠償をして頂ければ私の人生まで責任を負うて貰わずとも結構です」
淡々と放たれたアレクトーの宣言にアイギス侯爵は顔を上げた。無論希望に満ちた顔ではない。一層悲しみを湛えていた。
「そうは行かないよ。その傷痕は君から善き結婚、善き人生を取り上げるだろう。プリアモスならそれでも良い相手を見つけてくるかもしれないが、社会から…世間から何かとケチを付けられることになる」
世を知らぬ幼子に言い含めるように彼は言った。しかしアレクトーはふ、とその世間を嘲笑うように吐息を漏らした。
「私どもには関係ありません」
10歳の女の子から飛び出した硬質な言葉に大人たちは三者三様、しかし驚いていた。誰にでもなく、世間へ向けられていた冷たい双眸がふと父親を捕らえた。へにょんと顔が緩んで困惑の表情に変わった。
いや、困惑しているのはこっちなんだが。大人三人のこころがひとつになった。
「そんなことはないだろう…」
アイギス侯爵が思わず呟いたのも致し方ないことである。
「どうして?お前だっていつかはお嫁に行くのよ。関係はあるわ。それとも婚家を滅ぼしたいの?」
クレウーサのとてつもなく不穏な一言にアイギス侯爵は今度こそ固まった。ぎぎぎと音がしそうなほどぎこちなく首を回してクレウーサを視界から遠ざけた。
心臓の上に大きな傷跡のある娘など絶対に何事か難癖を付けられるであろうが、少なくても嫌味でも言われるだろうが、そのようなことは絶対に許さないとクレウーサは言う。姉のことなら結婚相手だろうがその一族だろうが、ましては王その人であろうが許さないだろうという確信が父と弐の娘の胸には生まれた。
アイギス侯爵はクレウーサに抗っていた首を一生懸命アレクトーに向けて比較的穏やかな顔に戻した。
「小さなレディ、アフェトルにもアイギスにもそのような心配はない。アフェトルは、寧ろ責任を取れるものなら何でもしたいと言っているのだ」
「何でも」などと軽く言ってくれる。アレクトーは誰にも見られぬ角度で一度、鼻で笑った。そして顔を上げて無邪気な笑みを見せた。
「ならばお父様の仰るようにして頂ければ良いのです」
遠慮して、と言うよりは命令の口調を強めてアレクトーは言った。だがそれは傍目に見ればいじけた子供のヤケクソ買い言葉にしか聞こえない。簡潔に言って、ただの可愛い駄々っ子である。その証拠にアイギス侯爵は先ほどとは打って変って頬が緩み始めていた。
しかし器用にもそれと同時に悲しそうに目尻を下げた。如何にも哀れっぽくアレクトーに目線を合わせた。
「アフェトルは好みでない?」
今度はアレクトーが驚愕する番だった。5秒ほど大きく目を開いてアイギス侯爵の悲壮な顔を見つめ返した。しかしそこに演技めいたものを見つけてふっと笑った。
返事を返すことはなく、小脇を抱えてけらけら笑いをかみ殺し始めたので男二人は顔を顰めた。
「ヒッヒッ…ヒィッ…。ごめんなさい」
その謝罪がどこに対しての物なのか、当然男たちには分からなかった。しかしそうなるとアイギス侯爵はますます困ったことになる。うんうん唸りながら目頭を暫く揉んでいたと思うと、ずいとアレクトーへ体全体を向けた。長い脚がアレクトーの両側を挟んではるか向こうへ投げ出された。うわあ足なげぇ。アレクトーが引いていると両手を取られた。更にアイギス侯爵は身を屈めて視線を合わせる。
「君は?」
殊更きらきら輝く強い目線がアレクトーに向けられている。ああ、アフェトル、親父譲りの目なんだなぁなどと考えているとアイギス侯爵が両肩を絞らんばかりに掴んだ。
「君の望みは何かないのかい?」
「私の…?」
アイギス侯爵はゆっくりと頷いた。ちらと目を斜め下にやってからアレクトーに戻した。
「うちは傍系も美形が選り取り見取りなんだ。どれでも言ってくれればすぐに整える」
どうしても結婚という形でことを収めたい様である。なんだ?気に入られたか?アレクトーは冗談交じりにクレウーサへ視線を投げかけた。姉は笑みを深くするばかりである。
このままアイギス家への嫁入り勧誘を続行させると侯爵の命が危ないかもしれない。
アレクトーはとりあえず要求を考えた。そこへふとパリスの姿が思い浮かんだ。知らずのうちに口角が上がった。
「結婚相手に興味はありませんが─・・・望みは何でもいいのですか?」
困ったような顔から一転、見透かすような視線を受けてアイギス侯爵はやや戸惑った。
大人しい女の子だという噂だったが、これは大分話が違うかもしれない。しかし他家の大事なお嬢さんに大きな傷を残した罪は深い。
アイギス侯爵は気を取り直してうんと頷いた。
「アイギスに出来るだけ、なんでも」
するとアレクトーは満足げに微笑んで言った。
「ならば、アイギスの教育を」
そんなことかと侯爵は胸を撫でおろそうとした。しかしその後には特大の爆弾が待ち構えていた。
「”戦略のアイギス”のための教育をご教授頂きたい」
アイギス侯爵は目を剥いてそのまま沈黙した。最初のワンフレーズで何を言いたいか察していたのか父と姉は特に驚いたそぶりは見せなかった(ド級の無表情であるプリアモスはもしかして驚いていたのかもしれない)。アレクトーはやっぱり企業秘密かと肩を落とした。ならば妥協するしかない。
「もしそれがネックならば、秘儀以外の部分だけでも構いません。できるなら少しでもそれに触れたいところではありますが。ヒントだけでも良いので」
「えっいや、それは─」
驚きすぎて言葉がうまくまとまらないのだろう。アイギス侯爵はしどろもどろに返事をしては顎に手を当てて考え込み始めた。入れ替わるようにプリアモスが口を開いた。
「お前、まだ諦めていなかったのか?」
「私はトリアイナです。知識ぐらい、良いでしょう?」
「知識ぐらい?」
クレウーサの疑問が鋭く突き刺さったがアレクトーはそ知らぬ顔で頷いた。
強い、この子強いぞ。この姉にしてこの妹なのか?アイギス侯爵は戸惑いつつ、口を開いた。
「知識はいつでも授けられるが、夫は売り切れ御免だよ?いいの?超人気有望物件なのに」
「まるで商品のような仰い様ですね」
アレクトーは取り付く島なくケラケラ笑った。
多くの貴族に言えることではあるが、アイギス家は揃いも揃って美形ばかりの一族である。本家の息子三人は当然ながら侯爵本人も目の覚めるような爽やかな紳士である。一族揃って今まで女性に誘いをかけて断られた経験はないに等しい。
別にそれを鼻に掛けて生きてきたつもりはないが、この袖にされようはアイギス侯爵にとっていささか、いや正直に言えばかなりショックなものであった。無表情のこびりついたプリアモスの視線でさえなんだか憐れみを含んでいるような気がする。
「美形は嫌いなのかい?我が家に誰か君の好みに沿う男はいないのかい?」
しょんぼりと目をすぼめて言う彼の姿は使用人達の涙を誘った。更にアレクトーは困った顔をするものだから一層彼の立つ瀬は無い。
アレクトーは腕を組んで視線を彷徨わせた。あれこれ考えているうちにプリアモスはブランデーを二杯飲み干していた。
「ただの好みのお話でしたら─」
希望が覗く喋りだしに一向僅かに身を乗り出した。
「ポリュデウケース様は知る限り一番憧れる男性です」
それは勿論兄達を除けばという話であるが言及していないのでクレウーサぐらいにしか真意は伝わっていないだろう。しかも言葉通りに純粋な憧れの話である。「願わくばああなりたい」という種類の。
アイギス侯爵はガックリと肩を落とした。
「それは残念だ・・・もう婚約済みだ」
「無論存じております」
一応アイギスの男を褒めたので喜ばれるかとアレクトーは思っていた。意外な反応に首を傾げた。
(おや?本当に気に入られたのか?)
「なるほど。確かにうちの上三人を一人にしたような、良い男ね」
ポリュデウケース・アイギスはアンティポスと同い年のアイギス家次男坊である。責任感が強く真面目で体のがっしりしたもの静かな男として知られている。ただ、華やかな性格ではない。アイギスらしい美形ながら、アフェトルの影に隠れて女性人気はイマイチだった。少し前までは。
「そうか・・・そうだったか・・・勿体無いことを、あ、いや勿論婚約者のお嬢さんもとても素敵な方だが」
「とてもお目が高い方です」
アレクトーは素直に婚約者に名乗り出た令嬢を賞賛した。彼はアイギス本家で一番堅実な男だった。
頭を抱えるアイギス侯爵にプリアモスがひとつ咳払いをした。
「テュンダレオース。それで、どうなんだ」
話が脱線しすぎていた。男の好みなど10歳の女児に長々と聞く話ではない。
「お前こそどうなのだ。トリアイナの姫に戦術など教育しても良いのか?」
「教育だけで済めば易いものだが」
「は?」
ぽかんと口を開けるアイギス侯爵にプリアモスはため息をついた。そしてクレウーサと何かアイコンタクトを取ったが、二人以外に何のコンタクトなのかは分からなかった。
アレクトーはしょんぼり肩を落とした。
「それ以外に特に望みはありません」
そう言われると、アイギス侯爵も拒否するのが難しい。秘儀、社内秘うんぬんについては裁量でなんとでもできるが本当に女児に軍事教育など施しても良いのか。迷いに迷った。
ふとアレクトーがアイギス侯爵の腕をしっかり掴んだ。侯爵は何かと顔を上げた。
「子供、いや女に戦を教えるのが嫌ですか?」
「それだけではないが・・・」
戸惑う侯爵にアレクトーは笑った。勝利を確信したその笑みはとてもじゃないが、女の子が、令嬢が浮かべるようなものではなかった。パリスが眉を顰めた、あの血生臭い笑みだった。
「私にはその価値があります」
何言ってるんだこの子は。
しんと静まり返った庭に少年の声が割って入った。
「メリアス、なんだそれは」
ここからチェック入ってないのでおかしかったらすみません。
しんどかったです。おじさんの優しさは描けてもかっこよさは描けませんでした。