家族の肖像 鏡を割ったヘレノス
何よりも酷く!熾烈に!ボウボウと!
この世界が現実であることをアレクトーが認めたのは事件から1週間ほどたった頃だった。
(士官学校への入学を希望した)土曜のあの日でさえまだ夢の中のような気分でいたが、今ではもう諦めて二度目の生らしきものを受け入れている。目にする景色、控える使用人、懐かしい家族の姿を見てこれを受け入れないということはできなかった。中でも早くに亡くしたはずの父と兄の健在な姿がアレクトーの心を揺れ動かした。7日がこの超非現実を受け入れるのに長いのか短いのかは分からない。
ここはアレクトーの人生の最初期、10歳のころのそのものの時間だ。記憶と何の変わりなく、何のズレもなく、ただアレクトーひとりが未来か過去かよく分からぬものを引き摺っている。そういう世界だった。
アレクトーはずっと夢を見ていた。
高熱で意識を失っている時、回復したのちは夜ベッドに入ったあと。悪夢のようなそれは必ずやってきた。
父を失って間もなく兄も失い呆然自失の日々。アドニスの落ち着かぬ視線。王国の危機。憤怒、転がり落ちるように駆け抜けた戦場。そういったものをまるで走馬灯のように見せられた。
朝起きれば落ち着いた感情でそれを思い返すことはできたが、体は汗まみれになっていた。心は平静を取り戻していても体がついていかない。漸進回復は悪夢によって相殺され、なかなか傷口が治りきらずにいる。
「お嬢様、お早うございます」
神経質な顔の侍女─イレミアがカーテンを開けるとまばゆい日光が部屋に差し込んだ。アレクトーは目を細めてイレミアを見返した。常時険しいその顔にじんわりと喜色が浮かんでいる。
彼女は侍女の地位にあると言うのに下級使用人と仕事の区別なくアレクトーの世話を焼く。洗面所の後ろに立ちタオルを渡す、着替えをさせ、髪を梳かし、結ぶ。支度の最期に全身をくまなくチェックし、一部の隙なく侯爵令嬢に相応しく主人を保つ。満足そうに口角を上げるイレミアを見ていると、つられてアレクトーも少し笑った。
使用人達にはそんな光景はいつものことだが、いつも以上に上機嫌なイレミアには驚いていた。しかし何か良いことがあるに違いない、彼女のお嬢様に。
朝食を終えるとアレクトーは侍女に促されて談話室に入った。中の方に入ると飛び込んできた懐かしい顔に目を見開いた。
二番目の兄がソファに横になっていた。
腕で目を覆い光を遮って寝ている。長い足は組まれ、ソファからはみ出していた。母と同じ、くすんだ金髪は比較的しっとりと纏まっているので昨日は風呂に入っていないのかもしれない。
「兄上、」
アレクトーは様子を観察しながらゆっくりと近付いた。音を立てないように足元から近付いて胸まで到達した。顔を覗き込もうと上半身を前傾させた時、突然長い腕に締め付けられた。
「びゃっ!」
アレクトーは驚いて上ずった声を上げた。倒れないように必死に兄の胸に手をついて踏ん張った。しかし場違いにも発達した筋肉の柔らかいような、硬いような感触に感心する。
ふと顔を上げると同じ黄金色の目と視線がかちあった。
「メリアス・・・?生きている!」
瞳孔が開ききったやや狂気じみた目、短く刈り込んだボサボサの髪。トリアイナの狂犬と呼ばれている男、次男のヘレノスが笑っていた。演技じみた大げさな言動は相変わらずでアレクトーは思わずフと吹き出して笑った。
「相変わらずですね、兄上は」
懐かしさに失笑するどこか大人じみた笑みにヘレノスは表情を曇らせ、黙り込んだ。じっと見透かすように妹を見つめた。アレクトーは少し眉を下げて彼が満足するまで待った。
「もうおにいさまと呼んではくれないのか?」
同じように眉を下げて至極残念そうに言った。
最後まで共に戦ったヘレノスと三番目の兄は成人後も密に付き合いがあった。なんなら二人とも軍部の要職に入り込んでいたので、トリアイナで作戦会議室を牛耳ったこともあった。懐かしさに口角が上がるのを感じながらアレクトーは目の前に迫るヘレノスの手首を掴んだ。柔らかい頬をつまんで感触を楽しまれるところだった。
「アンがもうそう呼んでいたから。まだ早かったでしょうか」
アレクトーがアンと呼ぶのはアンティポス、5歳上の三番目の兄だ。トリアイナの家では年の近い兄弟を愛称で呼ぶのがなんとなく習わしになっている。
兄の手首をぶらぶら揺らして遊ばせながら言った。ヘレノスは無邪気な妹に目を細めた。
「まだ裳着も迎えていないだろう?大人ごっこかい?」
ヘレノスは妹の前髪をかき分けながら頭を撫でた。滑らかな髪の感触を楽しみながら最後には頬に戻ってきて、結局はもちもちの頬をつまんだ。アレクトーを締め付けていた腕を離して左手もそこに参戦してきた。
「おにいひゃま」
アレクトーは仏頂面で応えたが、抵抗はしなかった。
「そう、それで良いのだ!君はまだ私の小さなレディだろう?」
小さなレディ。その言葉にアレクトーは思わず破顔した。まだと言いつつ結局ヘレノスはずっと妹をそう呼んだ。
懐かしい、懐かしい。
アレクトーは眦に涙が溜まりそうになるのを眼輪筋を駆使してなんとか阻止した。せめてもの反抗としてヘレノスの頬を横に目いっぱい引っ張った。
「あひゃひゃ!おほほいは(お揃いだ)!」
二人でケラケラ笑いあいながら互いの頬をつねったり引っ張ったりしあった。上機嫌なヘレノスの視線がふと横に逸れるとそこには鬼が居た。否、鬼のような顔をした憤怒のイレミアが居た。
おおっと大げさに声を上げて体を起こすと妹の体を反転させた。ぐいと顎を掴んでイレミアを見せた。
「見てみろ、お前の所為でご立腹だ!」
「ヘレノス様、早く治療をお済ませ下さい」
イレミアは憤怒の中、冷静に返した。その言葉でアレクトーはやっと次兄が急にこの別荘地へやってきた理由を悟った。そして顔を顰めた。
「あに…お兄様、折角ですがきっと」
「おっと舌を噛むぞ!」
全部言い終わらぬうちにヘレノスに抱き上げられた。彼は片眉を上げてイレミアそっくりのお咎め顔でアレクトーを封じると暖炉の方へ意気揚々と歩いていった。アレクトーが慣れぬ高所にアワアワしている内にヘレノスは横抱きにした彼女もろとも床に腰を下ろした。また妹が口を開く前に幼子をあやすように抱き込んだと思うと歌うように文句を告げた。
「水の精よ、我が妹をご覧あれ、我が妹を苛むあの傷をご覧あれ」
精霊へ語りかけている者を邪魔してはいけない。アレクトーはもう口を挟むこともできなくなり抵抗を諦めた。はーと薄いため息をついた。
ヘレノスはそんな妹をあやすようにゆらゆら揺れ始めた。虚空を恨めし気に睨んで続ける。
「貴女、貴女方は我らトリアイナをお守りくださるという約定ではなかったのか!その約定を元に我らは人生を好き勝手覗かれたり手伝われたり邪魔されておるのではないか!」
しかし先ほどと変わった様子はない。瞳孔はずっと開いているし、目は爛々と輝いている。身振り手振りや言葉遣いはまるで舞台に立つ役者の様だ。他の魔術師が神霊に語り掛けるのとは明らかに異質な現場だった。
ところで神や精霊へ語りかける言葉はその加護のあるものにしか聞こえない。只人の理解できぬ言葉とか聞けぬ言葉を使っていると言われているが、話している本人にその自覚はない。だから傍から見れば、魔術師が神霊へ語りかける姿は空中に向かって謎の言葉を紡ぐ狂人と変わりない。
「我が家の大事な娘を一人とて放っておくとは!こんな大きな傷をこさえた儘にしておくとは如何ばかりの心構えだというのか!」
それはまるで神霊への祈りの気持ちが感じられない、一人芝居のようなものだった。アレクトーは自分の腿に肘をついて頬をその上に置いた。長いのだ。ここからが本当に長いのだ。もう30秒はたっているが一向に終わりそうにない。多分3分ぐらい掛かる。
ふとイレミアに目を向けると、絶対に口には出さないが「早くしやがれこの狂人めが」という顔で二人を見守っていた。アレクトーは曖昧に笑って、またヘレノスに視線を戻した。
「おやおや!貴女方ともあろう高貴なお方がそのようないい加減な返事をして茶を濁すとは─ああ、来るぞ」
突然ヘレノスは台詞じみた口調から素に戻って言った。言った途端、アレクトーの目の前に蛇の巻き付いた金の杯が現れた。ヘレノスがにんまりと笑った。そして妹から体を離すとにゅうとしなやかな手が出てきて杯を掴んだ。疲れた顔の貴女が虚空からすうと現れると杯を傾けた。いつの間にか満たされた、なみなみと揺れる清水がひとところに集まり杯の淵から糸のようにアレクトーの胸元に垂らされた。スーッと服を通過して胸元に染みていった。それと同時に痛みが消えてゆき、わずかな気怠さもなくなった。
素晴らしい。アレクトーが水の精に目を向けて感謝の言葉を捧げようとしたとき、ヘレノスが遮った。
「最初からそうしていれば良いのだ」
胸を張ってふんぞり返る姿はどこかパリスを彷彿とさせる。兄弟だなぁと笑っていると、水の精はアレクトーだけに微笑みを返して消えていった。
「どうだ私の皆復術は?精霊に多めに出させた、疲れもしないだろう?」
「はい、こんなに楽になるとは思いませんでした」
アレクトーは皆復術を受けたことはなかった。だから概要は知っていたが、本当に何も無かったように傷を治されると驚愕を禁じえなかった。すごいすごいと胸を撫でているとヘレノスが突然目をかっぴらいた。いつも大きく開かれているが、それ以上に開いた。
「完治ってない!」
アレクトーの両肩を掴んでじっと傷のあたりを凝視した。
「ああ、やっぱり」
アレクトーが呟くと今度はヘレノスが驚いた顔を上げた。ふと気付くとその真後ろにはイレミアもいる。背後には猛吹雪が荒れ狂っている。
アレクトーがぎょっと仰け反るとすかさず横へ回り込んできてヘレノスから彼女を奪った。抵抗せずに侍女に妹を預けたヘレノスは顎に拳を当てて唸り始めた。
イレミアは部屋の隅にアレクトーを降ろすと使用人を呼んだ。アレクトーの周りにカーテンを作らせると了承を得てリボンを解き、開襟した。そしてはっと大きく息を飲んだ。
そこには大きな傷跡がはっきりと残されていた。
「お前は知っていたのだね?」
遠くの方からヘレノスの声が響いてきた。カーテンに隔てられて、どのような顔をしているのかアレクトーには分からなかった。
「だから『折角ですがきっと』。きっと治らない、と言おうとしたのだな?」
「その通りです」
「何故、治らないと。完全に治せないと知っていた?」
再びリボンを結ばれ、カーテンが開くとヘレノスと目が合った。まだ暖炉の前に座り込んだままだった。
少し前のアレクトーと同じように立て肘の上に顎を載せている。頬杖ならぬ顎杖をついている。推理する探偵のように近付きがたい雰囲気を放っていた。
アレクトーはやんわりと笑ってヘレノスの方に歩いた。目の前に来ると、しゃがんで兄と目線を合わせた。
「あの矢は特別製です、お兄様」
「祝福を受けていても、私の皆復術には関係ない」
表情を変えずにヘレノスは妹を見返した。実際ヘレノスの皆復術は自称する通りの優秀さである。そのせいでトリアイナ侯爵の力を以てしても呼び戻すのに2週間もかかったのだった。
「そうでしょうとも」
アレクトーはいかにも真面目そうに頷いた。
「あの矢は特別な、トネリコの矢です」
「と──トネリコ!」
トネリコは生命力が強く、耐衝撃性に優れるため武器などに多用されていた木材である。
またある神の男根が切り落とされた際、その出血から生まれたとされるのがトネリコの精霊である。槍はとくに血塗れになる武器であるため、ゲン担ぎか逸話にあやかってか柄をトネリコで作るのが良いとされている。
「相克?いや…癒着かこれは…?」
ヘレノスがいつもと違った真剣なまなざしを矢傷に向けた。どうなっているかはっきりとは見えないらしい。アレクトーにしても見えているのではなく、どうしてそうなっているのか識っているだけだ。まぁまぁとヘレノスの頭をポンポン撫でた。
「視えるとしたら、我が家ではアンだけでしょう。それに体はすっかり楽になりました」
「それもそうだな」
ふむと頷いてヘレノスは引っ込められようとしたアレクトーの腕を掴んだ。もう5、6度自分の頭を撫でさせると満足していつもの顔に戻り、立ち上がった。
「さぁ、メリアスおいで。君にはもう少しお話をして貰わねばならない」
開ききった目をぎゅっと細めて笑った。あまりに狂気的な笑顔だったので使用人たちはぞっと体を震わせてそそくさと退室していった。イレミアはというとどこ吹く風でアレクトーの後ろに佇んでいる。
ヘレノスは妹のもう一方の腕も掴んでソファへ連れてくると三人掛けの方に座らせた。自分は一人用の椅子に腰かける。身を乗り出して妹の前髪を撫ででかき分けた。
「士官学校に入りたいそうだね」
「ええ、なにやら叶わぬようです」
願いが叶わぬと知っている割にアレクトーは平坦に答えた。ヘレノスはふむと言って顔を30度ほど傾けた。
「我が妹が何故そのような発想に至ったかお聞かせ頂けるかな?」
顔を傾けたまま言った。斜め上を彷徨っていた目がひたとアレクトーに向けられた。アレクトーはやや俯くと、1分ほど考えて答えた。
「何を、お聞きになりたいのですか?」
アレクトーはパリスには前の、いわゆる前世の一生は殆どのことを夢物語として語った。しかしパリス以外の家族に話すつもりはない。頭脳派ではない自分がうっかり前世らしきもの誰かに零さないように常に慎重に口を開くようになったのだった。
しかしもともと受け答えが早い子供ではなかったので誰も不思議がらなかった。
「『何を』か。ふむ、そうだな。─そこへお前を掻き立てたものは何だ?」
ヘレノスはそうだなと、一瞬考えるふりを見せたもののすぐに結論を出した。
つまり切欠を欲していた。もしくは犯人と言おうか。何を見て、もしくは誰に吹き込まれて、あるいは何のせいで、そうせねばならない、と感じたのか。それを言ってみよと言うことなのだ。
アレクトーは無邪気に笑った。
「先の凱旋パレードで近衛騎士を拝見しました。精悍な馬を繰る堂々たる出で立ち。陛下をお守りするそのご立派なお姿。その崇高な生き方に心服いたしました」
「近衛騎士?お前はアンの法衣に釘付けだったではないか、いつの間に!」
実際にその通りだったので、アレクトーは笑みを曖昧に誤魔化した。近衛騎士になるのがアレクトーの本質的な目的ではない。これ以上架空の志望動機について語ってもしようがないので、少し本質よりの話をすることにした。
「お兄様、きっとそれがお役に立ちます。他家へ嫁いで無能な外交官となり果てるよりもずっと、ずっと。」
突然の強気な発言にヘレノスは目を丸くした。しばらくじっと妹を見つめた。その真剣な顔は精悍な兵士の顔で、黙っておれば誰もが憧れるような美丈夫である。目さえ狂気に満ちていなければなぁとアレクトーは思った。
しかし彼は本国では「狂犬」、他国ではただ単純に「悪夢」と仇名される男である。狂戦士である。皆復術、すなわち完全回復持ちの狂戦士など、対峙する相手に同情を禁じえない。
「ほう」
たった二言だったがその言葉にはやはり、役者の如き力があった。思わずアレクトーとイレミアはヘレノスを見遣った。
「良いだろう、私の戸塗木よ。お前の言葉を信じてみるとしよう」
にかりと笑ったその顔は妹からすれば面白そうな事件を見つけた兄の顔だった。
しかし傍から見れば戦場で血に塗れ、喜び踊る狂戦士そのものだった。
ちょっと指針の変わった話タイトル。
今回はルビやら傍点やらが多すぎて私が一番困りました。
かっこいいおじさんは次には出てくる予定!!!!!!