#00 序章
§
「――どうして? なにがいけないの?」
少女は疑問する。
溢れ出た滴が頬を伝った。
テーブルの上には色とりどりの果物が乗ったケーキが用意され、クリームの甘い香りと蝋燭の煙の臭いが微かに漂っている。そして、それらの向かいに座る老人は腕を組み静かに目を瞑っていた。
重々しい空気が部屋に満ちている。
「お前にはまだ早い」
「だからどうして?! おじい様は、わたしが十五歳になったら魔術を教えてくれるって約束してくれたじゃない!! だから今日――」
「そう言ったかもしれないな」
老人は淡々と告げた。
少女の中の何かがピシリと音を立て、これ以上なにを言っても老人の気持ちが変わらないのだと悟った。
まるで心に矢が刺さってしまったようだ。こんなにも胸が寂しく、ポッカリと大きな洞穴ができてしまったかのような虚しさを感じるのは初めてだ。深い深い悲しみ。これは絶望だろう。少女がそう気づいたとき――ポトリと、涙がテーブルに打ち付けられる音がした。
少女はその様を見下した。
机の木目に吸収され、じわじわと広がり、テーブルに染みを跡付けていく。
(……約束したじゃない)
この日を切に楽しみにして生きてきた。
今日だ、今日こそだ、とベッドを飛び起きた。
あんなに晴れやかな気分で目覚められたのは人生でそうはないだろう。自分はとても幸せだと実感していた。そう、幸せいっぱいだったのに――だがそれはあっさりと破られたのだ。
腹の底から煮えたぎる熱が喉まで上がってきている。
歯を食いしばり、憎い人物に睨みをきかせた――が、老人は少女を見てはいない。彼はただ沈黙していた。まるで深い森で生き続ける大樹のように重く居座っていた。
(まさか、最初から、そんなつもりなかったの……?)
もしかしてと、ハッと息を飲んだ。
自分はまんまと騙されたのだ。
――瞬間、少女の熱は冷めきった。不思議なことに、憎しみや悲しみといった感情が、スッとどこか胸の奥底へ消え去ってしまった。そうして少女は理解してしまった。もう何を言おうとも怒鳴ろうとも祖父の耳には入らない。本当に決してかわることはないのだと悟った。
気持などもう届かないだろう。
だが、少女はその理由が知りたかった。
なぜなのか。どうしてこんな嘘をついたのか。正直な思いを訊きたい。だんまりを続ける老人にせめてそれだけは答えてもらいたかった。
声を出すと嗚咽が出てしまいそうになる。
空気を吸い、ゆっくりと吐き出し、精一杯、気持ちを抑えながら言葉を紡ぐ。
「――わたし、ここに来た時から、おじい様みたいな立派な魔導師になって、おとう様とおかあ様に恩返しするんだって決めてた。毎日毎日お願いして、でも断られて……そしたら一年前やっと教えてくれるって――十五になったら教えてくれるっておじい様は言ってくれたわ。わたし、ちゃんと覚えてる。勘違いじゃない。だから一年間何も言わずに待ち望んでた。なのに、どうして今更そんなことを言うの? おじい様は……おじい様は、わたしのことが嫌いなの?」
口元が震える。
やっぱり声を上げて泣き出してしまいそうだ。
どうにか堪えるため、少女は藍色のワンピースの膝元を握りしめた。
このお気に入りの服は、両親から送り届けられたプレゼント。毎年、手紙と共に何かが贈られてくるが、彼らが会いに来ることはなかった。きっとお忙しいのだろうと、少女は不満な気持ちを心の奥底に沈めていた。
最後に顔を見たのはいつだろうか。
もう遥か昔のことだ。彼らがどこに住んでいるのか、自分がどこから来たのかも忘れてしまった。
けれども確かに生きているということはわかった。
それだけで良いのだ。こうして毎年誕生日の日には必ずプレゼントが送られてくる。少女もそれを楽しみにしていた。両親との唯一のつながりであり、それは彼らからの期待の証しだと思っていた。
両親は待ち望んでいるのだ。
ただ一つ、自分の魔術の才能が開花することを――。
「ココリ。師匠がお前のことを嫌うはずがないだろう」
膝に置いた手に温かいものが覆いかぶさり、少女はハッと隣を見た。
そこには、黒髪の青年の真っ直ぐな瞳があった。
「師匠にとってお前は唯一の孫だ。そんな可愛い孫がこれほど求めていることを与えないじいさんなんてそうはいないと思うがな。居たら鬼ジジイだ。まぁ確かに、頑固ジジイな部分はある。わかりにくいが、師匠はお前のことを物凄く大切に思っているぞ」
「そんなことっ、あなたが勝手に思っているだけだわ!」
「ほぅ? じゃあこのケーキは誰が作ったと思う?」
「どうしてケーキなんか。もちろん、これは毎年ケーキ屋さんが……ぇ――」
まさか。
反射的にケーキに釘付けになった。
いつも用意される大好物のケーキ。少女にとって、こんな都合のいいものはない。
しっかりとした生クリームでコーティングされたスポンジはふわふわで、一口食べると卵の芳ばしい香りでいっぱいになる。それは、甘いものが苦手な少女にとって丁度いい物で、少女が大好きな甘酸っぱい果物がふんだんに使用された文句なしの一品だった。
果物の種類が微妙に違うことはあっても、毎年だいたい同じものが用意され、これじゃないと誕生日を迎えた気にならないと言ってもいいくらい決まった物なのだ。
当然のようにある。だからこそ気付かなかった。また今年も買ってきてくれたのだと勝手に感謝していた。
「普段料理は俺に任せっきりなくせに、この頑固ジジイはこれだけは絶対にやるんだよなぁ」
少女は目をまん丸くした。
意外だった。厳格な祖父がこんなもの作れるはずがない――そんな考えすらまったく生まれないくらいイメージにあわなかった。そして当の本人は変わらず口を閉ざしたままだ。
嘘じゃないか。少女が青年に疑いの目を向けると、「言葉が足りなさすぎんだよ」と、困ったように微笑んだ。
「ガルマンはお前のじいさんだ。でも、それと同時に魔導師でもあるってことをわかってほしい」
「何が言いたいの?」
少女は睨みをきかせた。
「そうだな……。魔導師は文字通り、魔術の導き手、だ。国からも認められ、俺ら魔術師に術を授けてくれる。魔導師への成長は魔導師なくして成立しない。それはどの国も同じで、彼らの技術と奇跡は云わばこの世界の宝物だ。それはお前も知っているな?」
「だから何が言いたいの?」
もったいぶる彼にイライラする気持ちを抑えられない。
(それくらいわかってる。わかっているもの)
祖父は魔導師だ。
それがどんな名誉なことですごいかということも、日頃の様子を見ていてよく知っているつもりだ。
青年のような弟子が何人もいる。一緒に住んでいるのは彼ひとりだが、あとは顔の見分けがつかないくらいの人数がいる。毎日毎日引っ切り無しに玄関の扉が開き、その度に甲高いベルの音が家じゅうに鳴り響く。時たま耳に残り、頭の中でずっと鳴っていることもありいい迷惑になっていた。
きっと、祖父は凄い魔導師なのだろう。
噂、話、評判。
少女が身をもって祖父のことを知る機会はそれくらいしかない。これほど傍にいるのに、未だに彼が魔術を使うところを見たことがなかったのだ。ただ単に『すごいのだろう』としかわかってはいなかった。
決して、断固に、魔術に関わらせてくれない。
そんな仕打ちを受けている理由も少女は知らなかった。
「魔術師になる、ということはお前が思っている以上に危険なことなんだ」
「危険……?」
彼は頷きながら、目にかかる前髪を横に流す。
少女はゴクリと生唾を飲み込み、真剣に耳を傾けた。
青年のハッキリとした琥珀に見つめられ、少女の鼓動がトクリと高鳴る。
「才能のある者が魔術の学を蓄積することで魔力も蓄えられていく。すなわち、魔術を学べば学ぶほど魔力も強大な物になっていく。ただ、もちろん簡単じゃない。才能があってこと伸びるものだからな。魔力が偉大なことは経験値の証であり、大きければそれだけ強力な魔術を使えることになる――んだが、同時にそれは危険も大きくなっていく」
そうして青年は困ったように苦笑する。
(魔術って、使える人はみんな普通に使うものじゃないの……?)
少女の中にモヤモヤとした気持ちが芽生えた。
すべての人間が使えるわけではないことは知っている。誰だってできるようなことではないから、その才能がある人間は魔術を使い、そうでない人間たちの手助けをする。特別になれる力の役割として、人々の生活の糧となりそれを生業としていくのが魔術師の使命だと思っていた。
少女の知識はそこまでだ。
青年の口ぶりから、そのことに何らかの重大なリスクが伴うということを察した。
(そんなこと、知らなかった。でも、言ってくれなきゃわからないじゃないの)
不安が募る。
しかし少女は気付いた。
例えそうであっても魔術は今も使い続けられているのは事実だ。思い切って少年の言葉に食い入った。
「その危険って何なの?」
彼は口を開き躊躇うそぶりを見せると、老人へ視線を向けた。
尚も変わらずにだんまりを続ける彼を確認するといよいよ決心したのか、再び少女と向き合った。
「死ぬ」
「――……ぇ」
少女は自分の口が開いてしまったことに気付かなかった。
「俺たちはいつも死と隣り合わせだが、それは普通の人間も同じだろう。いつ死ぬかわからない、事故か病か……わかっていればまた違うだろう。だが、ある意味では俺たちは死期がわかっていると言える。ちょっとしたことで死ぬリスクが高い。それに、その時が来ればわかると言われている」
「……どういう、こと?」
「俺たちは危険物だ。一歩間違えば自分の魔力に喰われる。そうやって死んでしまう魔術師や魔導師は少なくはない。むしろ、それが原因になってしまうことがほとんどだ。例えれば爆弾のようなものかもしれない。使い方を間違えれば爆発してしまう。危険なものだろう? まぁ、保有している魔力の量にもよるがな」
爆弾? 爆発? 少女は混乱した。まったく現実味がない。何がどうしてそうなってしまうのかワケがわからなかった。しかし、目の前の彼が冗談を言っているようには見えない。
(でも、そんな危険があるとしても、みんな魔術は使っているし、弟子にだってなりたがってる。きっと、大袈裟なんだわ。子供に聞かせる脅し言葉のようなものなのね)
気を紛らわせるため、首を左右に振った。すると、不意に青年の耳元が鈍い光を放った――ような気がした。
模様も細工も施されていない。とても素っ気ないシルバーのイヤリングだ。年頃であろう青年には似合わないものだとずっと思っていた。彼がずっと身につけているのは知っているが、大切な物とは聞いていない。少女は首を傾げた。
「嘘っぽい」
「だろうな。魔力が宿らなければわからないだろうさ。だが、そうしてしまうと後戻りはできない。若すぎる魔術師はリスクが大きすぎる。幼ければ幼いほど魔術と関わる時間も長くなるだろう? その結果、どうなると思う?」
少女は考えた。青年の言葉を思い出す。学べば学ぶほど――。
「――たくさんの魔力を持っちゃう?」
「そう。だから、師匠は君の身を案じて心配している。それをわかって、あえて幼い頃から教えるヤツもいるが世間的にもあまり良い例ではないんだよ。大抵は十八歳くらいからだ。お前が今学ばなくても全然遅くはない」
「そうかしら? なんだか過保護すぎる気もするけれど」
少女は口を尖らせ腕組みをした。
(魔力のリスク……痛みとかあるのかしら)
ため息をつく。
隣から青年の心配そうな視線を感じた。彼も魔術師だ。勉学に励み続けている姿を日頃からこっそり見ていた。たぶん難しい術を極めようとしているときくらいしか、眉を顰めたり呻いたり苦しんでいる姿を見たことはない――が、それはリスクの苦痛に耐えるのとは別物のような気がした。
(やっぱり脅かしだったんだわ)
実際にリスクはあるのだろうが、無理をしなければ問題ない程度のモノなのだろうと、少女は決意を固めた。
「それでもわたしは魔術師になることしか考えてないもの!!」
「だから危険だって言っているだろ」
青年は椅子から立ち上がり少女に言い放った。少女も立ち上がり彼を見上げて睨みをきかせた。
すると、ようやくして老人が言葉を発する。
「駄目だ」
「どうして?!」
「エラルドの話を聞いただろう」
もう涙は出ない。
ふつふつとした怒りが湧き上がってくる。
「尚更わからないわ」
老人が目を開けた。
一方的な威圧をビリリと感じ、目を逸らしてしまいそうになる。
少女は太腿を抓り、気をしっかり持った。臆してはいけない。今言わなければこのままずっと言えなくなる気がした。
(言わなきゃ、言わなきゃ、自分の言葉を……)
何も言わなければ気持ちは通じない。相手もわからない。
今までがそうだった。魔術を見たくて練習の場を訪れては部屋に戻りなさいと窘められ、こっそり見ようとしては必ずバレてしまいその日の夕飯は抜きにされた。外出するのも祖父の許可がいる。何処に行くのかどんな用事か本当に行く必要があるのか。全てを明確にかつ用事がなければ家から出ることはできない。こっそり出ようとすると、一日中自室から出ることを許されなかった。祖父が全てだったから当然だと思っていた。
だがそれはおかしい。ようやくおかしいと思い始めた。
「おじい様が駄目だって言うのは良い。納得はいかないけど、きっと何か理由があるんだって思えるから。でも、何も言われないままだったらもっと納得がいかないわ。だけど、どうしてその理由を彼から聞かされなきゃいけないの? 彼の話を聞いただろうてすって? 冗談じゃないわ。彼の考えとおじい様の考えが全く一緒だというの? 一字一句、その中の意味までも全部一緒だというの? そんな単純なら、こんなに不満に思わないわ。わたしは、おじい様から理由を聞きたい。駄目ならちゃんと自分で話してよ!! わたしが魔術に無知で何も知らないから? 説明が面倒だから? そうだったらそうだとハッキリ言って。例え、わたしのことが嫌いだからって理由だとしても、ちゃんと受け止めるから。だから、聞かせてよ!」
はぁはぁと呼吸が乱れる。
胸に手を置き、深呼吸した。だが、少女がすっかり落ち着きを取り戻しても、老人は何も言ってはくれなかった。そればかりか、また目を閉じてしまった。
「そう、やっぱりそうなのね……」
(この人はわたしのことが嫌いなんだわ)
嘲笑するしかできなかった。
老人には目もくれず、少女は駆け足で扉へ向う。ノブに手をかけ引っ張るとベルの甲高い音が鳴り響いた。背後から「ココリ?」と青年の不安げな声が耳に入る。少女は振り返らなかった。もうここには居られない。
「――他の魔導師に教えてもらう!!」
そう吐き捨て飛び出した。
――ばしゃん! 直後、水溜りに着地し足に泥水がかかった。
「今日は、雨だったのね」
(真っ暗だわ)
街灯はあるが頼りない。
濡れた煉瓦道に反射される光が霞み視界が悪かった。
(これからどこへ行こうか……)
何も決まっていない。もちろん行くあてもない。
魔術を教えてくれそうな魔導師を探すにしても、祖父以外の魔導師の存在はおろか、この街にどれくらいの魔術師が住んでいるのかさえ知らない。しかしこのまま留まり続ければ、引き戻されるのも時間の問題だというのはわかる。
少女は辺りをキョロキョロと見渡した。まったくわからない。自分の中にある街のイメージとは随分違っていた。夜に外出したことなどない。まるで、どこか知らない世界に来たみたいだった。
(情けないな)
一人では何もできない。
これはきっと祖父の思い通りだろう。だから、さっき自分が出て行こうとしても彼は全く動かなかった。追わずとも、自分は家へ戻るしかないのだ。
少女は地面へしゃがみ込み、嗚咽した。結局無力なのだ。自分には祖父しかいない。優しくも厳しく接してくれるあの青年も――ふと、赤毛の活発な少女の姿が思い浮かんだ――リィナだ。祖父作った薬を届ける際、仲良くなった唯一の友人。彼女なら、と少女は顔を上げた。いや、彼女しかいない。
(たぶん、こっちだったハズ)
街は暗くなっているだけだ。道が変わっているわけじゃない。
少女が駆け出そうと足を踏み出したとき、背後から左腕を掴まれた。
「やめて、放して!!」
反射的にそう叫ぶと同時、ガタガタと轟音を立てて目の前を馬車が通り過ぎ、全身に泥水を浴びた。
「バカ! 死にたいのか?!」
エラルドだ。
彼も同じくびしょ濡れだった。それでも彼の好青年さはまったく損なわれていない。肌も白くて整った顔立ちで、体格のバランスも良い。性格はどうであれ魔術師としての技量は『天才』と名高く、魔導師認定試験の通達が届けば必ず受かるだろうと言われている。少女にとっても誇らしい兄のような存在だった。
そんな彼に必死の形相で見つめられていることに気付き、ハッとした。
(そうだ、わたし、もう少しで……)
轢かれるところだった。考えるとゾッとする。死ぬところだったのだ。別のことを考えていて注意するのを忘れてしまっていたというのは理由にならない。自分から飛び出して助けられてしまったことを悔しく感じ「ごめ、なさい……」と呟くしかできなかった。
するとため息が少女の耳に入った。
「バカが、もっと気をつけろ。何かをやりたいと行動することは良いと思うが、自分の身を危険にさらすのはただのバカだ。そんなんじゃやりたいことへ挑戦する資格などない。確かに、ガルマンは言葉足らずで頑固ジジイだがやってることは的確だ。俺もかなり苦労させられたもんだからよく知っている。じいさんを師とするなら、お前の選んだ師に従え。あの家で暮らすことになったときから、お前は孫じゃない、ガルマンの弟子なんだ」
「弟子?」
「ああ。その意味をよく理解しろ」
「……ごめんなさい」
「まぁ、頑固なところはよく似ているからな。まさか飛び出すとは。お前は俺にとって大切で特別な人でもあるんだから、もう危ないことはやめてくれ」
「――ぇ?」
「何度も言わせるな。お前に何かあったら悲しむ人間がいるってことを忘れるんじゃない」
握っている彼の手が熱い。
トクリトクリと小さく鼓動が伝わってきている気がした。
そして少女自身も気付く。何故だろう。体中が緊張している。すごく、すごくすごく恥ずかしい。くすぐったい気持ちが胸から頭にかけてじわじわと上ってくる。そうして頬が徐々に熱くなってきているのを感じた。ぼーっと熱い瞳で、エラルドに視線を向けると、彼も恥じらいを隠すように目を逸らした。
こんな彼を見たのは初めてだ。
自分よりも年上で大人びていて、いつも冷静な彼の珍しい一面。
もう一度ハッキリ聞きたい。
少女は青年を覗き込みながら「それって――」と切り出した声は――猛々しい馬のいななきに遮られてしまった。そして「馬車が暴走しているぞ!」「危ない!!」「逃げろ!!」という声が少し遅れて耳に入ってきた。
少女が状況を理解する前より遥かに早く、青年がビクリと身体を震わせた。
彼が触れる手からビクリと不穏な振動が伝わってきた。
そうして、少女はまだ淡い熱を浮かばせながら、身動きひとつすらする間もなくしっかりと抱きすくめられた。青年の背後――黒い大きな物体が自分に向かって迫っているのを見た直後――視界がグラリと反転する。
「――っ」
目を瞑って訪れたのは、柔らかな衝撃と水に濡れる不快感だった。
(どう、なったの?)
恐る恐る目を開ける。
柔らかい――そこは青年の腕の中だった。
暴走した馬車が自分たちに向かってきて、彼が咄嗟に受け身を取ってくれた。「あんたら大丈夫か?!」という声が聞こえ、もぞもぞと腕の中から這い出す。傍で黒い馬車が停止し、まだ興奮している馬を必死に鎮めようとする人々がいた。
もう泥だらけだ。
けれども生きている。
それが一番大切なことで、二度も助けてくれた彼には頭が上がらない。礼を言おうと青年に視線を向けた――が、彼はまだ横たわっていた。少女を抱きすくめている体制の固いそのままだ。
「エラルド……?」
軽く肩を叩いた。しかし何も反応はない。
それから何度揺すっても目を開くことも呻くことも身じろぎすることさえしなかった。
「もう大丈夫だよ? ねぇ、大丈夫だよ?」
必死に呼びかけても少女の声が彼に届く様子はなかった。
(まさか、わたしの代わりにどこかケガを?!)
頭部、手、足、身体全体を触ってもどこも何ともない。
道はグチュグチュと濡れているが、雨水や泥だけで血だまりもできていない。あちこちに擦り傷はあるものの、整った顔立ちは健在だ。彼は先ほどと何の変りもなく意識がないだけのようで、少女はホッと胸を撫でおろす。
自分を庇って頭を打ってしまい、気絶しているだけだろう。
その結論にたどり着いたとき、あることに気付いた。
シルバーのイヤリング。
彼がずっと身に着けていたもの。飾り気のないシンプルなアクセサリー。それが砕け落ち、粉々になって耳元に散らばっていたのだ。
(どうしよう、大切なものだったのかな……)
残念ながらもう修復は不可能だろう。
まるで精巧なネックレスのビーズのように細かく砕けてしまっている。かき集めても復元できるような状態じゃなかった。
「――おいおいおいおいおい、冗談じゃないぞ?!」
そんな悲鳴に似た声が傍で聞こえたとき、少女は自分の周りに人だかりができていたことに始めて気付いた。
そして彼らが自分たちから恐る恐る離れていくのがわかった。
どうしてなのだと、少女は首を傾ける。何故逃げるのか。まるで、命を奪う怪物を見るような目で誰もが遠のいていく。自分たちはなにもしていない。馬車に轢かれかけて助かっただけだ。少女はハッとして振り返った。だがしかし、自分たちに危害を加えそうな者も何もいない。
(なに? 何が起こっているの?)
奇妙に思いながら、彼らの目線を追った。そうしてそれは紛れもなく自分たちに向けられたものだと知る。
回りから人が遠のいたあと、一人が警鐘した。
「みんな逃げろおおおおお! 魔力に喰われるぞおおおおおお!!!!」
人々はそれぞれに悲鳴を上げながら蜘蛛の子のように散って行く。
「え? ちょっと、どういうこと?」
ふと、少女の脳裏に青年の言葉が蘇る。
――一歩間違えば自分の魔力に喰われる。そうやって死んでしまう魔術師や魔導師は少なくはない。
まさか。
少女は息を飲んだ。
彼の言葉。人々の反応。
(これが、そのことなの?)
意識を失っているだけにしか見えない。
他は何も変わらないのだ。なのに、人々はそうだと言って逃げた。逃げてしまった。逃げなければいけないくらい恐ろしいことなのだろうか。でも、そうだからこそ居なくなってしまったのだ。みんな知っているんだ。魔力の危険さを。そのリスクを。知ってて当然なのだろう。自分だけが知らなった。そして今も、それが嘘だと思うくらい受け入れられない。
きっと逃げるべきなのだろう。
少女は青年の手を強く握った。
今、何が一番危ないのか。
青年が危ない状況なのだということだけが、少女が明確に知る唯一のことだった。
「エラルドっ、起きてよエラルド!! わたしも、あなたが大切で特別な人なんだよ?!」
せっかく受け取ったのに、何も言い返せず終わるのは嫌だ。絶対後悔する。これ以上の後悔はしたくない。と、少女はさらに強く手を握りしめた。だが、青年が握り返してくれることはない。本当に終わってしまうのだろうか。
少女は願うように、青年の手の甲を自分の額に押し付けた。
あのとき家を飛び出さなければ。
祖父の言葉を素直に受け入れていれば。
エラルドの言葉もちゃんと聞き入れていれば。
ふと、少女の額――青年の手がフワリと温かくなったように感じ、ハッとした。
彼の身体から白く淡い光が霧のように発生し始めた。
「なに、これ……」
少女は身震いした。
何故なのかはわからない。全身が――本能で感じる。これは危険だ。やがて、唇がカチカチと震え始める。寒い。瞬く間に体温が吸い尽くされていく。吐く息が真っ白い。冷気が、体中に張り付いてくる。張り付いて、染み込んで、芯から氷漬けになる。雨に濡れた路面も凍結し、馬車は馬と一緒にガラスのオブジェのように美しくあった。
幻想的だった。
きっと、これが彼の――天才魔術師と謳われたエラルドの努力の結晶だ。
とてもキレイだった。
ガラスのようにキラキラと儚くも、鋭く高貴な光を反射しながら輝く様はまさに奇跡だ。
刻一刻と凍りつく世界に少女は心を奪われた。
例え自分自身の命を奪う魔術だとしても、それを憎む気持ちは到底生まれない。きっと、これは彼が最後に見せてくれた自分への誕生日プレゼントなのだと悟った。そして、魔術師の最後とは、彼らの生涯の集大成なのだろうと理解した。
少女はもう動けない。
感覚がマヒしてしまっている。
いつの間にか、横たわる青年の身体の上に倒れ込んでいた。彼も冷たかった。彼自身が氷そのもののように固くなっていた。
エラルド。
そう口ずさんでも声にはならない。
(特別だと言ってくれてありがとう)
少女はゆっくり目を閉じ、意識を手放した。
§