第89話 うわのそら
レイナさんがボディガードとして僕の元に残る。
そう結論が付いたところで、お師匠とグレィさんは転移の魔法で自宅へ帰って行った。
二人を見送った後に時計を覗くと、午後八時をまわっていた。
「さて、中々いい時間ですね」
「そうだな。でもま、今の話の後でさあメシだって気分でもないだろう。先に風呂でも済ませてきたらどうだ」
「……だ、そうですけど」
「なっなんで私に聞くのよ! い、いいけど」
レイルさんから来た提案をレイナさんへ流してみる。
今さっきの話の流れで少なからず緊張が残っているだろうし、ちょっと場を和ませてみようかと思ったのだ。
僕はすっかり夢の中な娘たちを起こすと、レイナさんと共に浴場へ向かった。
レイルさんはスフィと一緒にお留守番である。
脱衣所で寝ぼけまなこなイルとウルの服を脱がし、僕自身も慣れた手つきで衣服を籠の中に放り込んでいく。
「ルティア。あんた何だかお母さんみたいね……」
「何か問題でも!?」
「っ!? が、がっつくわね……? まあいいわ。先に行ってるからね?」
「あ……はい。わかりました」
レイナさんの背中を見送りつつ、僕の内心では複雑な感情がうごめいていた。
ミシティアでの一件で、イルとウルの『ママ』であろうと改めて決心した。それは別に構わないし、ある種僕の責任でもある。
でもこう……お師匠にママ友と言われた時もそうだったが、やっぱり面と向かって言われると気になってしまうのだ。
女性としての生活に慣れてしまっている自分が。
傍から見てもそうなのだと認識せざるを得ない瞬間が。
少なくとも、娘たちが独り立ちできるようになるまでは、僕が面倒を見るつもりだ。
幸の盃が満杯を迎え、役目を終えるまでにも、最低それほどは時間がかかるものだと思っている。
でもその後は。
正直、今の生活もまんざらでもないと思っているところは否めない。
面倒事に巻き込まれがちなのは嫌なところだが、昔の……運が良すぎたあの頃よりも、生きている感じがする。
しかしあくまでも今の体は仮の物。
天界に帰るとき、それは元の男神フォルトとしてだ。
その時が来たら、きっと選択を迫られるのだろう。
幸運と幸福の神フォルトとして、世の繁栄を見守るのか
ルティアという一人の女性として、今を生きるのかを。
「ん~……ママぁ?」
「どうかしたぁ?」
「え? いえ、なんでもありませんよ。僕たちも行きましょうか」
「「ふぁ~い」」
にこりと微笑んで、娘たちの頭を撫でる。
不安な心を子供たちの無邪気な表情で癒しながら、僕らもレイナさんの後を追った。
「レイナさん、おまたせしました」
「…………」
「? どうかしましたか?」
浴場へ足を踏み入れると、レイナさんが何故か僕のことを怪しげな目で見つめている。
「思ったのよ。ナチュラルに一緒に来ちゃったけど、アンタ元々男じゃないの」
「あ……あぁ、それで……」
「変な事したら殺すわよ」
「「ム」」
殺す発言に娘二人が反応し、レイナさんのことを睨みつける。
見事に地雷を踏み面倒事を増やしてくれたようだ。
ボディガードが守るべき人間を殺してどうするとツッコミたいところだが、先に二人をなだめなければ。
そう思い、一歩足を踏み出し――――たところで、盛大に足を滑らせた。
◇
後頭部に強い痛みを感じ、反射的に手で覆う。
倒れていた体を起こしてみると、どうやら自室のベッドの上にいるようだった。
どうして部屋で眠っていたのか、記憶が曖昧だ。
確か、レイナさんが僕のボディガードになるっていう話になって……。
「「ママぁああああ」」
「よかった! 大丈夫? なんともない!?」
「イル、ウルに……ネリス?」
周りにも目を向けてみるが、そこにレイナさんの姿は見当たらない。
全部夢……なんてことはないだろうし、何かあったのだろうか。
いまいち状況が飲み込めていないでいると、ネリスが安堵のため息とともに口を開いた。
「びっくりしたよ~。お風呂で気を失ったって聞いて何事かと思ったら!!」
「え……?」
「あれ? もしかして覚えてない? 滑って転んで頭打ったって聞いたけど」
「…………」
浴場で……滑って、転んで?
頭を……打った?
………………。
あ……あー……。
あの時の光景が、後頭部の痛みと共に鮮明によみがえる。
そして恥ずかしさのあまり、頬に熱がこもっていくのも感じていた。
思い出しました。
完璧に思い出しました。
レイナさんが禁句を口走り、怒りをあらわにした娘を止めようとして……つるりと。
いや、もう、ほんと……死にそうなくらい恥ずかしい。
「あの、なんかすみません。ホントに」
「わたしに謝るより、外で待ってる人にお礼を言ってあげて」
「?」
「レイナさんだっけ。倒れたのを知らせてくれたのも、ルティアちゃんを運んでくれて、着替えなんかも全部彼女がやってくれたんだよ」
ご丁寧にネリスが説明してくれると、扉からガタンッと結構大きな音がした。
それから数秒ほど経ってゆっくりと扉が開かれると、非常に気まずそうに眼をそらしているレイナさんが部屋に入ってきた。
まー、うん。
ここは素直にお礼を言っておこう。
「ありがとうございます。助かりました、レイナさん」
「おっ!? お礼なんていらないわよ! 私のせいでもあるんだし!」
「おや、そうなのかい? って、聞いても覚えてないんだった」
「いえ、さっき思い出しましたよ。かくかくしかじか……」
浴場であったことをありのままネリスに伝える。
僕も恥ずかしいしレイナさんにも若干申し訳ないが、お世話になっている身だし、言わないわけにもいかないから仕方がない。
つらい。
「うん。確かにそりゃ禁句だ! しょうがない!」
「「しょうがない!」」
「うっ。ごめんってば」
「い、いえ。これは僕の不注意でもありますから……」
僕も頭を下げて、あらためて謝罪と感謝の意を示す。
これと同時に、姉妹とレイナさんの仲が悪くなっているわけでもなさそうなことに安心した。
イルもウルも、レイナさんに対して強張っている様子はない。
きっと、レイナさんが本当に親身に介抱してくれたおかげだろう。
僕は顔をあげると、改めてネリスにレイナさんのこととボディガードの件を説明した。




