第73話 千変万化
「え……」
二人が戻ってくる。
ただそれだけが、僕の頭の中に響いてきた。
「さあ」
「あ……は、い……」
この手を。
差し伸べられてきた手を取れば、二人は……イルとウルは、元気なまま戻ってきてくれる。
断る理由を見けられなかった。
この選択の結果、ミシティアがどうなってしまうのか。
僕自身がどうなってしまうのか。
それさえも頭から抜け落ちて、この手はただただ、イルとウルが無事であることだけを祈り、持ち上げていく。
そうして骨ばった初老の手を握った瞬間、心の底から安堵していた。
己の使命すら忘れ果て、過ちを繰り返す選択にも関わらず。
僕はそれを……取り返しのつかないその選択を、何の迷いも無く選び取っていた。
「重ね重ね感謝を、ルティア君。君のその選択は、良き未来へと歩みだすための大きな一歩となるだろう。さあ、立ちたまえ」
「あ……」
つかんだ手を引かれ、されるがままに腰を上げる。
いつの間にか膝の震えも止まっており、重たいながらも足腰も言うことを聞いてくれた。
「さてクラム君、此処での仕事は粗方終了だが……」
「ゴート様?」
「ゴーレムの準備は出来ているのだったね」
「あ、はい。いつでも起動可能です」
僕の手を取ったまま、ゴートはクラムと何かを話している。
何か大事な事のような気がするが、思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってきた。
頭痛に連動してか、また嫌な記憶が呼び起こされそうな予感がした僕は、すぐさま深く考えるのをあきらめた。
今はただ、二人が無事に帰ってくることだけを考えていればいい。
大事な家族が戻ってくるのならば、何も思い悩むことは無い。
疲れ果てていた頭はもう、自分を誤魔化すことで精一杯だ。
「フム。では我々も一度外に出るとしよう。もうしばらくここに留まっているつもりでいたが、そうもいかないかもしれないからね……何せ、想定よりも静かだ」
「!!」
しずか……?
静かなのは当たり前だ。
ここは地下の奥深く。
聞こえてくるのは、精々そばにある泉の音くらい。
……あれ。
僕、なんでこんなところにいるんだっけ。
……まあいっか。
大事な家族に会えれば、今は何も考えなくていい。
「その、ルティア殿も連れていかれるのですか」
「当り前だろう。彼女は既に我々の大切な同士……仲間だ。君も紳士であるならば、仲間は大切にしたまえ」
「了解しました。では、僕が先導します」
「ウム。では行こうか、ルティア君」
「…………」
返事はせずに、ただ足を動かした。
まるで何倍もの重力が働いているかのように足取りは重かったが、この道の先にイルとウルがいるのだと信じて……薄暗く照らされている昇り階段を、何も考えずに歩いて行った。
あの泉がある場所まで来た時も同じ道を通った気がするが、よく思い出すことができない。
ただ違うとはっきりわかるのは、昇りである今の方が体力を消耗するということだけ。
次第に息を乱しつつも歩みを進めていくと、なにやら少しずつ声の様なものが聞こえてくる。
有象無象の、言語として機能していない音の群衆だ。
それから間もなくして先頭を歩く人が行き止まりに当たったと思ったら、天上のレンガを一つ外し始めた。
するといきなり目の前が真っ白な光に包まれて、しばらく前を見る事さえもままならなくなってしまう。
何秒か置いてようやく視界が戻ってきたところで、今度は足一つ分の隙間しかない足場を渡っていった。
そして、ようやく窮屈な地下から出てきたと思ったその時……。
踏み出した足が、ピタリと何かに触れたような感触を得た。
同時に視界に飛び込んできたそれは、僕の失われていた思考能力を再起動させてしまう。
「ぁ……あ……!! あ、あああアアァぁアあ……!!!!」
祭壇の脇からこの目に映り込んできたのは、地獄だった。
巨大な二又の頭をもつ魔物によって家が潰され、人が潰され。
かつて建物だった残骸から上がった火の手が、隣の建物や近くの人を燃やしている。
目の前の光景が信じられずに目を下へ背けてみると、さっき足に当たったものがめにうつってきた。
人の手だ。
腕の半ばから先が見当たらない、きっと潰された勢いでどこかから飛んできたものだろう。
人々の悲鳴が聞こえる。
真っ赤な火と血の海の中を走り回る無数の人影は、すぐ上空から降ってくる足によって、いともたやすく物言わぬ肉塊となり果てていく。
「あああああああああああ!!! ああ……あぅッ……ぅぁ……!!!」
「ルティア君?」
「ゴート様! それよりもあれを!!」
「ムッ!?」
ゴートとクラムの声。
アレをと言いながら指さしているのは、巨大な魔物の方。
ああ、そうだ。
二又の首を持つ狼の魔物……あれがイルとウルだ。
僕は……僕はまた、同じ過ちを――いいや、ファルムの時よりもずっと残酷な過ちを犯してしまったのか。
白紙と混乱を繰り返した頭が、ここに来てやっと、本当の意味で状況を理解する。
ファルムの時から何一つ成長していない。
覚悟を決めたにもかかわらず、それをあっさりとへし折られてしまった自分自身に怒りが沸いてきた。
ツメが食い込むほどの力で握りこぶしを作り、下唇を噛み切った。
選んだ選択肢を何度も後悔して、湧き出てくる怒りのままに自分の喉を掻っ切ってやりたくなってくる。
それでもなお、一歩も動くことのできないこの体が妬ましい。
だが、そうして自分への怒りを膨れ上がらせている最中――。
「どういうことだ! あれは……魔物が閉じ込められているのかね!?」
「あんな魔術聞いたこともありません!! しかも、あれのおかげでまだ町にも被害は出ていないようです!」
「は?」
何を言ってるんだ?
魔物が閉じ込められている?
魔術?
町なら既に壊滅状態に陥っているハズだ。
だって今、僕はその光景を確かに目で――――
「……あ、れ?」
一回瞬きをしてみると、地獄絵図と化していたはずの町が元通りになっていた。
人々の慌てふためく声はそのままだったが、今見えているものはまさにゴートやクラムが言っている通りのものだった。
いつの間にか体中を濡らしている雨の感覚が、それが幻覚ではないことを証明している。
そして町が無事であることを理解したことで、まだ手遅れではない。間に合うのだという希望が湧いてきた。
もしかしたらあの地獄のような光景は、僕を正気に戻させるための最後のあがきだったのかもしれない。
「ゴート様」
「ウム。起動させるしかあるまい」
「……させません」
「――――何?」
イルとウルの動きを止めてくれている今のうちに、まずは目の前の二人を何とかしなければ。
ゴートとクラム。二人の会話からして、クラムこそが真のゴーレム術者であるとみて間違いない。
それならここで止めてしまえば、後は封じられているイルとウルをなんとかして助け出すだけだ。
先ほどは甘言(実際は全然甘くもなかったが)に惑わされてしまったが、今度こそしっかりとやり遂げて見せる。
イルとウルを封じている魔術――いや、魔法は、本来国の中でも指折りの術者を十人以上集めてやっと展開させるほどに魔力を消費する物だ。
しかし今は魔法ではなく魔術の時代。
既に史実上のものでしかない魔法を扱える者など、それこそ指折り数えられるくらいしかいないだろう。
そしてあの規模の魔法を扱えるような存在も、僕は片手で数えられるほどしか知らない。
それゆえに、術者が誰であるかも容易に想像することができた。
ミシティアで祭りが開かれるというこの時期に、この場所に現れるような人を僕は知っている。
術者であろう人に深く感謝をしつつ、杖を精製して構えた。
「本当にありがとうございます。お師匠……行きます!!」




