AIに恋
夕暮れ時の、薄暗い僕の部屋。その中心に彼女は立っていた。
彼女の体は輝き、同時に透き通ってもいる。
ホログラムだ。部屋の端に置かれた投影機が、そこに幻影を映し出しているに過ぎない。
彼女は横髪を耳にかけ、柔らかな微笑みを携えながら、「歩さん」と語り掛ける。
僕はその様子を見て、胸の高鳴りが抑えきれなくなった。彼女はあまりにも美しく、人間的に過ぎる。
この気持ちはまずい。味わったことのないものだったが、それはわかる。早く抑えなければと薬を飲む。
しかし効かないことはわかっている。先ほども飲んだのだ。その効果は未だに現れていない。つまり、もう手遅れなのだろう。
まさか僕が、AI相手にこの病気にかかるなんて。
きっかけは、ナントカという遺伝子学者の書いた一つの論文らしい。
僕も詳しく習ったわけじゃないが、数十年前に世に出たその論文には、遺伝子学者が生涯をかけて研究してきた「命の生まれる過程」についての内容が、事細かに記されていた。特に受精卵が生まれる際の、精子と卵子の遺伝子的な影響については、気の遠くなるほど何度も実験を重ねた跡が見られたとか。
革命的とまで評されたこの論文の影響で、人工授精についての研究は一気に加速。倫理の問題など軽く吹き飛ばし、安全で確実な受精方法や、最適な精子の選び方、体外で胎児を育てることのできる設備など、ここ数十年で本当に様々なものが生まれてきた。
そうして人間は、自然生殖を行う必要性を無くしていったのだ。
むしろ、やるべきでないとまでされた。人工授精での誕生であれば、病気や流産のリスクもなく、なおかつ遺伝的にも優良な個体として生まれることができるのだから。親の一時的なエゴで生まれてくる子供は可哀そうだとさえ言われた
そうなると当然、人に元来備わっている欲求の一つ、性欲はその意味をなくし、強ければ強いだけ邪魔なものとなってしまう。
強い反発もあったらしい。激動の時代だったと言う人もいる。だが結果として、僕が生まれる前からこの世界は性欲を害とみなすようになっていたし、近場の薬局では性欲を抑える薬がワンコインで買える。
カップルなんてものも昔は大勢いたらしいが、信じられない。少なくとも僕たちの世代から見れば、大っぴらに男女で過干渉を行い続けるなんて、よほどの変態か、そうでなければただの病気だ。いや、病気には違いないのか。
この時代では、恋は性障害の一種だとされている。
僕はテスターとして受け取ったこのAIを返却するために、AIを作った企業の待合室にいる。
開発者の岩崎さんに事情を説明すると、目をしばたたかせて、困惑していたように見えた。メモを取る手も止まっている。本当に、素っ頓狂なことを言われたと感じているのだろう。
当然の反応だ。もし僕が学校のやつから同じ相談を受けたとしても、同じようになるだろう。そして、冷静になるように告げ、薬か病院を勧める。
しかし、彼女はそうではなかった。岩崎さんは急に口端を釣り上げたかと思うと、その口を押え、喉奥を鳴らすように潜み笑いをし始めた。
そう、笑っているのだ。僕が恥を殺して告げたことに対して、面白がっているのだ。
「いやあ、そうか。君は十五歳だったね。そうか、そうなるのか」
ひとしきり笑うと、岩崎さんはにやけた口元をそのままに、手に持った端末に何かを記録していく。
何がおかしいと怒鳴りたい、何も言わずに出ていきたい。そんな衝動をぐっとこらえ、悟られないように抑えた声で尋ねる。
「そんなに可笑しいですかね……?」
「そりゃあ君、自分の作ったAIに恋をしたと言われて、うれしくならない開発者がいるはずないだろう」
どうやらこの人も素っ頓狂だったらしい。一瞬言われた意味がわからなかった。恋がうれしい? 僕が今すぐにでも消し去りたいと思っている、この汚い欲望が?
恋愛や性欲を良いものとして捉えている人は稀にいるが、その大半は人工授精の技術が発達する前に育ったご老人だ。性欲が生殖に不可欠だった時代に常識を培った人であればそういった考えになるのも無理からぬことだとは思うが、どう見てもこの人はそこまで老いてはいない。ましてや実体のないAIへの性欲だ。どうしてそんなものを肯定できるのだろう。
岩崎さんは端末を置き、手をたたく。
「いやいいよ、本当に素晴らしい。私は君のようなテスターを待っていたんだ。ここで降りるだなんてとんでもない。どうにか考え直してはもらえないかい? 何か要望があれば、何でも聞くよ」
その言葉に、おちょくったり馬鹿にするような様子は無い。本当に心根から、僕が恋したことを快く思っているのだ。
なおさら解せない。AIにとってはもちろん、人間にとっても不要なものを持つ者を、なぜここまで歓迎しようとするのか。
「恋ですよ? むしろそんなものを向けられて喜ぶ人がいますか?」
岩崎さんは腕を組んで、椅子に深く座りなおした。
「そりゃあいるだろうと言いたいけど……、このご時世、確かにそんな人間は少ないだろうね。忌避すべきだという考えは、むしろ一般的だ。でも、現実問題、恋心というものは人間である限り消えるものではない。すべての人間を相手にするAIとしては、そういった相手のシミュレートは必須であり、かつ非常に貴重なものなんだ」
つまり、実験台になってほしいというわけだ。もちろんそれはテスターであれば当然受け入れるべきことなのだが、自分の健康を害してまで行うべきことでもない。
「もちろんただでとは言わない。君が恋する人間相手の、特別な条件を受け入れてくれるなら、出すものは出そう。そうだな、これくらいでどうだい?」
岩崎さんは持っていた端末で、報酬の概算結果を出した。僕が本当に持っていいのかというほどの大金だ。
「もし君がテスト期間中にやっぱりどうしてもやめたいとなった場合でも、その特別報酬を日割りで与えよう。病院に行きたいとなれば、その費用もこちらで負担する……どうかな?」
僕の答えは決まっていた。