パープルメモリーズ
姉は俺にとって偉大な人物だ。頭が特別良かったとかそういうことではない。成績表からして、姉はだいたい中の上くらいだった。得意な教科、例えば数学だとか物理だとか、あとは体育の成績なんかはいつ見ても最高評価をもらっていたが、国語や歴史、政治経済分野に関してはさっぱりで、最低とまではいかないまでも、あまり振るわないことがほとんどだった。通知表だけでは判断できる範囲に制限があるから、実際のところ姉が高校でどういう生活を送っているのかは未だに謎のままだ。俺はあまり姉と込み入った話をすることもなく、必要最低限の会話に抑えるようにしている。姉の外での生活の模様を知ることのできる手がかりと云えば、今のところ通知表しかないわけだ。
無論他にも判断材料はあるに違いない。姉が席を外している間にこっそりと部屋に忍び込んで、机の引き出しを開けてみたりだとか、ノートを広げてみたりだとか、スマートフォンを覗いてみたりだとか。最後のものに関しては、姉は家をうろつく際は大抵持ち歩いているわけだからして、覗き見ることはおそらく不可能に近いだろうが、思い切って部屋に忍び込みさえすれば、後は現場の判断ということで、いろいろと彼女の外での生活を知ることの出来る材料をいくつも見つけることができるのだ。今のところ俺はそれができておらず、ただ二人そろって学期末に渡される通知表を母親のところに持っていって、けれどもだいたいは仕事で家を空けている場合が多いから、リビングの棚のところに他の書類と一緒に置いておく時、リビングに自分一人だけが存在している頃合いを見計らって、姉の通知表を開示することができているに過ぎない。
姉の部屋が現在はどういう状況なのか、それすらもはっきりしない。それは少女趣味も甚だしい、ハート模様のふんだんに散りばめられた部屋なのか、それとも意外にも質素な趣味をしているのか? そういう判断すら、できないのが現状なんだ。なぜなら姉は、部屋にいる時はもちろんのこと、部屋を出る時にだって必ずきちんと扉を閉めていくのだし、そもそも部屋を開けている時間の方が短いくらいだ。姉が学校に行っている時はもちろん自分だって学校に行っているのだし、俺の方が早い時間に帰ってくるということもない。テニス部が休みの日だって、姉は絶対に俺よりも早く帰ってきているのだ。それは玄関の靴を見ればすぐにわかる。
姉がどの部活にも所属していないということはわかり切った話だ。だが問題は、そういう事実関係ではなくて、一体俺の姉は学校生活をどうやって過ごしているのかということに尽きる。俺が姉の姿をイメージした時、姉はだいたい自分の部屋で静かに読書をしたりだとか、数年前に購入したというピアノを弾いている様子だとか(現に隣の姉の部屋からひっそりと湿ったピアノの演奏音が聴こえてくることがある)、もしくは何もせず、ベッドに寝転んでひたすらスマートフォンをいじっている光景だとかが思い浮かぶのだが、それでは駄目なのだ! 俺は姉の外の生活模様が知りたかった。部屋でどう過ごしているのかなんていうことは全く気にならなかった。姉の部屋に侵入したいという欲望だって、結局は姉が学校でどういう生活をしているのかの手がかりを得るという意味以外、なにもない。姉の部屋にはどういう家具があって、どういう配置になっていて、どんな香水の匂いがするかだとか、そういうことはどうでもいい。問題は、言ってしまえば、俺の目の届かないところで、俺の姉はどういう感じであるのか、これが知りたいというとてつもない欲望なのだ。自分でも気持ちの悪い弟だとは思う。だがこれも、姉のことを心の底から尊敬しているということから発した純粋な心の揺れ動きだとでも表現しておけば、いくらか外聞は保てるだろう。いわば自分と血の繋がっている人間のことは、内側においても外側においても知っておきたいというそういう願いに過ぎないのだ。
姉に対する尊敬の気持ちがふと沸き起こったのは、俺が小学校三年生くらいの頃だった。あの頃俺は木登りに夢中だった。学校生活においても、休み時間はだいたい木の上にいた。木登りの習慣を養ってくれたのは俺よりも一つ年上の先輩二人組で、彼らとは俺が小学校一年か二年くらいのころに自然と仲良くなった。彼らは休み時間にはだいたい、その小学校で一番登りがいのある木の近くにたむろしていた。そして二人だけの秘密の会合を済ませた後で、二人縦一列に並んで木のそばを離れ、助走をつけて木に向かって突進、そのままの勢いを殺さないまま幹を蹴ってかなり高い位置にある幹の枝分かれしているところに手を引っ掛けようとしていた。だが彼らはまだ、当時俺は七歳くらいだったから、彼らにしてもまだ十歳にも満たない歳だ。体力が足りないというのは幼児の俺からしても明らかなことだった。だが彼らはいくら失敗してもへこたれず、何度も何度もチャレンジを繰り返していた。
そのうち俺もその輪に入りたくなった。彼らの列に、俺も並ぶようになった。それは小さな子供に特有の、一緒に行動しているうちに自然と友だちになるといったような溶け込み方だった。特に許可を取ったというわけではない。だが、俺が列に加わるようになっても、彼らは変わらず木登りを続けていたし、俺の番になると、彼らは俺の存在を認めでもしたように、俺の後ろに並んで順番待ちをしていたから、今にして思えば俺はあいつらに認められていたのだろうと思っている。木登り前の会合に参加したことはなく、その時も俺は助走をつけて幹を蹴りながら、どうやったらあそこまで手が届くだろうかということを研究していたのだが、会合が終わり、順番にチャレンジをする段になっても、あまり仲良しみたいに楽しくおしゃべりをしたという経験がない。話すことと云えば、今の飛び方はあまりよくなかっただとか、あと少し手が長ければきっと届いたなだとか、まるで科学実験にいそしむ研究者みたいな評価を目的にした会話だったように覚えている。
あれが果たして正常な友達関係だったのかどうかは微妙なところだ。俺はその二人組とは木登りをするいつもの場所以外で会って話をしたことなどもなかったし、学校の廊下ですれ違う時だって、その時は一歳年上ということを意識してなのか、妙に話しかけづらくて、ちょこっと手を振ってにかっとはにかんでみせたりすることくらいしかしなかった。だが少なくとも、あの小学校で一番高かった木にみんなでひたすら挑戦し続けていたあの頃は本当に楽しかった。
そのうちその二人組は、木登りへの執着を捨てて別の遊びに励んでいた。今度は鉄棒の上をどうやってバランスを取って向こう側まで到達できるかという遊びに移っていた。学校で一番高い木と、鉄棒のずらりと並んでいるところとは、目と鼻の先で、二人組はたびたび、木登りを続けている俺のことを見ていたのだと思う。また一緒に参加してくれないかという思いを、その目から感じ取っていたに違いない。だが俺はそれでも、木登りへの執着を捨てることができなかった。まだ登り切っていないのに、諦めてしまったあいつらのことを少しばかり見くびっていたのかもしれない、それは何せ幼少の頃の思い出だからはっきりしない。だが少なくとも俺は、一人になったことでなおさらムキになって木に挑戦し続けた。その戦いはおよそ一年半ほども続いた。その間俺は、なにもその木ばかりを狙っていたわけではなかった。予行練習として、他の挑戦しやすそうな木を選んで登ったりしていた。自信がついたところで一番高い木に戻ってきて、挑戦するということを繰り返した。それでもまだ、幹を蹴ってジャンプした先にある、ちょうど手を引っ掛けることのできる枝分かれしたあの窪みに到達することは出来ず、そのうちに俺は九歳の誕生日を迎えていた。姉が現れたのはちょうどその時期にだった。
今にして思えば俺はそれまでにも何度か姉の姿を目撃していたようでもある。木登りに夢中になる間、ふとした瞬間に意識を周囲に走らせてみると、どうも見知ったような視線を感じることがたまにあったのだ。それは時にはあのいつかの二人組で、彼らはもう二度と木登りをしないということに決めたようだったが、それ以外にももう一つの、まるで自分自身に見られているような、奇妙なそれでいて親し気な視線を感じることがあった。それが姉のものだということに気づいたのは、俺が木登りを始めてからだいたい一年と半年以上が経過してからだった。
「楽しそう」と姉は声を掛けてきた。昼飯を食べおわってからの長めの休み時間、十二時五十分を過ぎた辺りだったと記憶している。登る前の準備体操を終えて、いよいよチャレンジしようというちょうどその瞬間の声掛けだった。
「楽しそう? 全然楽しくないよ」と俺は言ってしまったように記憶している。どうして反抗的になっていたのかどうかはもうよく憶えていない。昼飯がまずかったのか、同学年の友だちと何かしらのいさかいがあったのか。それはどうでもいいことだが、本当はすごく楽しいと言いたかったところ、なぜだか天邪鬼的な返答をしたことは、この際目を瞑って頂きたいものだ。
「え? じゃあなんで、何回も同じ木に登ろうとしているの?」と姉は返してきた。
「それは」と俺は、少し逡巡してから思いついたことを適当に喋る。「登った時に一番楽しいからに決まってるじゃん。今は楽しくないけど、登れたらきっと楽しいじゃん。だから今は楽しくないけど、ずっと木登りやってんの」
「ああ、なるほど」と姉はポンと手を打っていた。「努力ってきっとそういうものだよね」
「努力かどうかは知らないよ」と俺はさらに続けた。「ただ俺は、今こうして夢中になれているから、それが面白いから続けてるんだ。これが楽しいっていう感覚なのかもしれないけど」
「うんうん」と姉は満足そうな表情だ。「いいよねそういうの。私も男だったら、そうやって木登りしてたんだけどなあ」
男とか女とか、姉がそういう問題について今も悩んでいるのかどうかはわからない。大切なのは、あの頃はまだ、俺たちは普通に会話ができていたということだ。話さなくなったのは姉が中学に上がってからで、一年遅れて俺も中学に上がった時、姉がどうして何も話さなくなったのか、その何となくの理由が掴めた気がしたものだった。何もかもが新しくて、それに姉と話すというのが何だかダサいように思えたのだ。それは学校生活だけじゃなくて私生活に関しても同じになって、だんだんと俺は姉の存在がぼやけていってしまった。小学生時代までは姉がどういう趣味をしているのかの悉くを把握していたのに、年を重ねるごとに姉に関する情報はますますぼやけていった。だがそれはいいとして、小学生当時の姉は、俺のアクティブな様子を非常にうらやんでいるようだった。
「男とか女とか、木登りはあんまり関係がないと思うけど」と俺はつい言葉を返していた。「力のあるなしは関係しているけど。でも女だから登っちゃいけないとか、そういう決まりはないと思うよ」
だから一緒に登ろうということまではさすがに言えなかった。だがそれなりに頭のいい姉のことだ、俺が何を言わんとしているのかは読み取ったに違いない。姉は少しばかり意外そうな表情を浮かべた後、何かを察したようにはっきりした顔になった。
「じゃあ、私もチャレンジしていいってことなのかな」
「たぶん。でもスカートじゃちょっときつくない?」
そう言って俺は姉の膝丈のスカートを指差す。俺としては登っている最中にパンツが見えるという心配よりも、幹を蹴って空中に浮きあがった時に、うまいこと体のバランスをコントロールできず、地面に落下して怪我をした時のことを考えると、その格好は危ないんじゃないかということを言いたかったのだ。
「え、これ?」と姉は自分のスカートをたくし上げるような恰好を取る。「大丈夫だよ。私のを見たいなんて人はいないでしょ」
「でも、もしかしたら誰かの目に入っちゃうこともあるでしょ」
「別にいいよ。その時はその時で」
補足しておかなくてはならないのだが、姉は当時から同年齢の女の子よりはだいぶませていたような感じがあった。ほっそりしてはいたけれど、俺よりも十五センチは背が高かった。話し方も落ち着いたところがあった。キーキー騒いだりする様子もあまり見たことがない。同じクラスなのであろう女の子たちと楽しくおしゃべりをしている光景を廊下でたまに見かけることはあったが、その時だって姉は一歩引いたような姿勢を崩していなかった。会話はだいたい他の人たちに任せて、やることと云ったら相槌を打ったり、話を振られたら短い言葉を返したりするのみで、自分が話の中心に居座るということもあまり見覚えがなかったように思える。その時の服装だって、街で大人たちが着ているような大人っぽいデザインのやつで、これから木登りをしようという人間の服装ではなかったことは確実だ。それに……俺は見てしまったのだが、母親が洗濯物を干している時、紫色をした網目模様のパンティを見かけたことがある。それは母親のものだったのかもしれない、それは確証はない。だが俺はなぜか、あのパンティが姉のパンティだということをその時に直感してしまったのだ。もし今もその紫色のパンティを穿いているのだとしたら、それを目撃してしまった者は一体どうなってしまうのか。性に疎かった当時の俺だってそれくらいの危機は容易に察せられたというものだ。いや、性に疎かったのかどうかはよく判断ができない。オナニーを覚えたのは丁度その時だったからだ。これが早いのか遅いのかは自分では良く分からないし今でもよくわかっていない。一般的には早いのかもしれない。とりあえずそういうことでいいだろう。
そういうことを、俺は姉のスカートを指差した後で考えた。そのおかげで俺は、もしも本当に姉が木登りをやり始めたら、果たして俺はどこに目を向けていればいいのかがわからなくなる思いだった。姉が木登りをするとなれば、こちらとしても全力でサポートをしたい。だがそのためには木登りをする姉の様子から目を逸らしてはならない。後で的確なアドバイスをするべく、失敗したのにはどのような原因があるのかということをはっきりさせなくてはならないからだ。しかしその時にあの紫色のパンティが目に入ってしまうかもしれない。兄弟とはいえ、姉のパンティを見るというのはちょっと恥ずかしい。
だが姉は本気で登ろうとしているようだった。俺としてもそれに反対することは出来なかった。それに姉であれば、あの身長であれば、もう少しで手の届きそうなあの枝分かれした窪みのところに手を引っ掛けられるのではないかという期待もあったからだ。もちろん自分がそれを一番初めに達成すること以上の悦びはないのだが、他人がそれに成功するのを間近で見届けるというのも悪くはない話だった。だから俺は、準備体操をする姉のことを止めることができないでいた(例えば屈伸運動をしている時、彼女がどういうパンティを穿いているのかをあらかじめ把握しておくことは可能だったのだが、その際姉はこちらに顔を向けていたために、パンティの色を見ようとする自分のことを見られたくはないゆえに、顔をずっと背けていた)。
いよいよ助走をつけて、姉は勢いよく幹に向かって突進していった。俺は姉の本気で走る姿をこの時初めて目撃した気がする。姉の走るフォームは完璧と言ってもいいほどだった。服装がスカートであることを考慮して、歩幅をいつもより多少狭めているらしいことが容易に読み取られ、それもさすがだなと思った。当時から既に互いの通知表を見せ合っては得意な教科を自慢したり苦手な教科を馬鹿にしたりしていたものだが、確か体育に関しては万年「5」の評価をキープしていたと思う。男が「5」を取るのならまだ想像がつくし自分がまさにそうなのだが、女が「5」の成績を取る場合、それがどのくらいの実力であればその成績をもらえるのかがいまいちはっきりしていなかったので、姉のそのフォームを見て俺は「ああこれが女の『5』の走り方なのか」ということをしみじみと感じたものだ。だがそう感じていられるのも束の間のことで、気がつけば姉はもう幹に向けて小さなジャンプをしたところだった。姉の右足は幹の根のところ、ちょうど足を置いてそこを起点にしてさらに上に飛べるだけのスペースに引っかかったところだった。間を挟むことなく、姉は続けて上へと跳躍をする。顔はまっすぐに上に向かって伸ばされており、それは手も同じだ。姉の右手はまさに枝分かれした窪みのところに届かんばかりだった。
結果を言ってしまえば、姉の手は届かなかった。もう少しのところだったのだが、あと数センチ足りなかったのだ。それからも何回かチャレンジを続けていたものの、姉はついに木登りを成功させることができなかった。「やっぱりきつかったかあ」と姉は笑いながら俺に話しかけたものだ。だが俺にはわかっていた。姉は相当の負けず嫌いだってことをだ。つまり、その後俺がチャレンジしたのだが、今までの苦労がまるで一気に報われでもしたかのように、いともすんなりとあの窪みに手を届かせることができたのだった。
姉は「やったね!」と言いながら、まるで自分が成功したみたいにガッツポーズを取っていたが、姉のそのガッツポーズには相当の悔しさがにじんでいたように思う。俺は今でもその時の姉の表情を脳裏にはっきりと再現することができるのだが、それはまるで、自分がこれまで敵ともしてこなかった人間が、急に成長し、いつのまにか自分が抜かされてしまっており、しかもその敵というのが自分の友人で、そいつが知らぬ間に自分を追い越していた時、その友人にかけるような言葉であり表情だった。つまり姉は、自分がその木に登れなくて、俺が登ることに成功したことを悔しがっていたのである。
俺はやはり嬉しかったし、今まで友人みたいに付き合ってきた二歳年上の姉に対して、初めてその二歳という年齢の差というものを意識し、年上に勝利を収められたことに対する優越感みたいなものに浸っていた気もする。実の姉とはいえ、こういう勝負事となるとやはりそういうものは関係なくなってしまうのだ。そしてそれは男だとか女だとかも関係がない。そもそも姉の方がそう言ったのだから、俺が勝利したことに姉は何の文句も付けられないはずだ。そういう考えもあって、俺のその時の顔はかなりにやけていたのだと今では思っている。
それはそれで良かったのだが、その勝利の余韻と一緒に、その日の放課後の俺の脳裏に残っていたのは、姉が木登りに何度もトライしている時の、姉のパンティの色だった。俺の予想していた通り、姉は網目模様の入った紫色のパンティを穿いていた。木登りに夢中になっている間、姉のスカートがどれだけはだけ、周囲にその下に潜む紫を曝け出していたのか。ある時にはスカートがめくれたままになっているのに気付かないまま、助走をつけたり指で木のあちこちを差したりして何かの計算に耽ってもいた。それからいざ登ろうという段になってふと手を腰に当ててみた時、スカートの後ろが大きくめくれてしまっていることに気づき、ようやく元通りになるのだが、姉はスカートのめくれている間、どれほど周囲を注目させていたのかなどまるで意に介さず、全く落ち着いた様子でまた、木登りを続行していた。
俺は姉しか見ていなかったから、果たして姉のそのパンティが何回露出してしまったのかを正確に数え上げることができた。周囲に人間がどれほどいて、そのうちの何人が姉のパンティに気付いていたのかもすっかり把握していた。あの時の俺は東大卒の脳科学者並みに思考を働かせていたはずだ。顔の正面についている二つの目玉の他にも、顔のあちこちに目がくっついており、それらのいちいちの映像が頭の中に流れ込んできているみたいだった。そのうちのいくつかはきっと現実には見ていなかった架空のものであったろう。だがその架空の度合いが、一見して現実の映像と区別がつかないのだ。それほど集中していたということだろう。
俺みたいに姉のパンティを後ろからガン見している人間はもちろんいなかったが、あの時の思い出を共有している人間は少なくないはずだ。外で遊ぶ人間は、あの時代には結構多かったはずだし、昼休みともなればなおさら、あちこち走り回る餓鬼もたくさんいた。姉と同じ学年の奴らだってきっといたはずなのだ。姉にしてもそれくらいの判断はできたはず。つまり、同学年の男どもに対して自分の大人びたパンティを見せびらかすという行為がどういうことをもたらすのかについて。
だが姉はただ、木登りにばかり熱中していた。自分のパンティのことなんて全然考えていなかった。こうして思い出を振り返ってみた後で、「だから俺は、姉のことをこんなにも尊敬しているのだ」と結びの言葉を添えたところで、信じてくれる人間がどれほどいるだろうか。だがこの出来事こそ、俺をして姉のことを尊敬せしめた決定的な出来事なのだから仕方がない。この話を聞いている人間には無理やりにでも信じてもらうしかないだろう。紫色のパンティを崇めているわけではない、ということは、最後に付け加えなくてはならない。そうではなく、自分の恥ずかしさを無視できるくらい、ものごとに熱中できる姉の力強さ、みたいなものを、俺はひたすら尊敬しているのだ。
「っていう話を、俺はずっとお前にしたかったんだ」
「ふうん。でも聞いていると、拓馬の私に対する僻みにしか感じられなかったんだけど」
そう言って愛良はテーブルに肘をつき、俺を上目遣いで見つめてきた。その顔はまさにこちらを小馬鹿にしているといった雰囲気だ。それで俺もむっとして言い返す。
「そんなことないよ。ただ、お前には話しておきたかったなって」
「でもいくらお姉さんだからって、そうやってパンティパンティ言われ続けたら、こっちだって変な気持ちになるじゃん」
「それは悪かった。俺としてもちょっと、話しているうちに連呼したくなってきちゃって」
「拓馬ってやっぱり変わってる」
「そんな俺にずっと付き纏ってくれているお前も充分変わり者だと思うが」
そう言い返すと愛良はにこにこしながら姿勢を元に戻した。そして大きなグラスに半分ほど残っているアイスコーヒーを豪快に飲み干した。
大学の講義が終わった後は、よくこのカフェで二人して過ごすことが多くなった。それは別に、自分たちが彼氏彼女の関係だからとかではなく、ただ何となく、話をするうちに仲良くなってしまったのだ。そういう緩い関係が、俺は好きだった。付き合おうと思えばいつでもそうできるだろうし、離れようと思えばいつだってそうできる。そういう曖昧さが、俺には好ましい環境だった。
そしてそれは愛良にしても同じのようだった。俺の見る限り、愛良は俺と過ごすということを一種の逃避活動と考えているようだった。大学の構内を、友人と一緒に歩く様子を俺はたびたび目撃するのだが、その表情は明らかに作られたものという印象だった。こうして二人で過ごしている時のような弛緩したものでは決してなかった。そしてそれは、俺にしても同じなのだろうと思う。愛良といると、まるで自分たちが兄弟かあるいはもっと深いつながりを持った、いわば「相棒」と一緒にいる時のような安心感を覚えるからだ。
俺も残りのアイスコーヒーを飲み干す。そうして立ち上がると、愛良の空になったグラスも一緒に持って、店の入り口にある棚に返却しようとする。両手にグラスを抱えた俺に、「もう一つお願い」とのお達しがあったので、返却ついでにカウンターに注文する。その場で料金を払ってテーブルまで運ぶと、愛良は「ミルク」と一言。俺はグラスを置いて再びカウンターまで引き返し、小さなカップ状のミルクを二つ、持ってくる羽目になった。
「いっつも忘れるんだからね」
「ごめん。グラスを運ぶのに夢中になっちゃって」
愛良はミルクを注ぎながら「夢中になるほどのことでもないけどなあ」とか何とか言っている。俺はその様子をじっと眺めていた。お金をいつ返してもらおうかという心配よりも、俺としては先ほどの話の感想、それから質問を、もっと聞きたかった。
「うまい!」
ストローでちゅうっと三分の一ほどを一気に飲んだ後で、ぱっと顔を明るくして言った。こんなリアクションを取る愛良のことを、果たして彼女の大学の友だちはどう思うだろうか。すんなりと受け入れそうではあるが、あそこではそもそもそういうことをやってはいけないような雰囲気でもあるのだろうと勝手に結論付けた。
「ところでさ、さっきの俺のパンティの話なんだけど」
「うん、どうかした?」
「もう少し何か、聞いてみての感想だったり、わからないところを質問してほしいなあって思うんだけど」
そう言うと愛良はストローをこちらに向けてくる。
「あーなるほど。拓馬は私にそういう反応を求めてたのね」
そう言っているのに愛良は依然としてこの話題に触れはしない。彼女は旨そうにアイスコーヒーを飲み続けている。彼女の飲み方というのが、少し変わっているというのか、最初の三分の一を一気に飲んで、残った三分の二の量のうち、半分ほどをゆっくりと進めて、後の三分の一をまた一気に飲むというものだった。彼女は今、その「ゆっくり」に差し掛かっているところで、ストローに口を付けては少し啜ってまた離す、という動作を頻繁に続けている。正面の俺には全く目もくれない。彼女が俺のことを見るのは、決まって会話が続けられている間だけだ。
「わかったよ。そんなに質問するのが面倒なら、いっそ俺から話す」
「うん。やっと私の心理が読めたみたいだね」
「うるさい。まず一つ。高校時代の俺は、果たして姉の部屋に侵入できたのか、ということ。俺は姉の部屋がどうなっているのかが気になっていた。でもそれにははっきりとした目的があって、それは姉の学校生活がどうなっているのかということを知るためだった」
「通知表だけじゃ、わかることは限られるからねえ」
「なんだ、ちゃんと聞いていたんじゃないか。そうそう、で、姉の部屋に侵入できたかどうか、なんだけど、結局」
「駄目だった?」
「そうなんだよ。ずっと気にはなっていたんだけど、俺は結局、姉の部屋に行くことがどうしてもできなかった。姉の部屋は未だにどうなっているのか、どういう家具の配置で、どういう壁紙がしてあって、ベッドの位置だとか本棚にはどういう本があるのかだとかも全部知らないままなんだ。それは今も変わらない。姉がいなくなってしまった今でも、部屋は開けられないままだ」
「はあ、いなくなった? どこに?」
「それが、わからないんだ」と俺は続ける。「どこか遠くの方に行ってしまった、ということくらいしかわからない。事情はよくわからないんだが、姉は九州かそっちの方の大学を受験したらしいんだ。合格した後は、そっちで暮らし始めたらしい。憧れの人がその大学にいたのか、それともただ、ここからただ離れたいっていう思いが強かったのか……連絡先もわからない以上、真実は藪の中だ。それにたとえ連絡先を知っていたところで、連絡は絶対にできないだろうしな。特に高校に入ってからは、姉とはほとんど話さなくなっちゃったから」
「辛辣な仲だったのか知らん」
「いや、それほど仲が悪いってわけでもなかったんだと個人的には思っている。だって言い争いをしたこともなかったし、小学生時代はよく二人して家の近くを探検したものだし。さっき話した、木登りにしても、あの出来事があってからよく二人で学校中の木を登頂したものだ。俺は相変わらず姉のパンティにしか目が行っていなかったが、それよりも俺は、姉とああして平等な立場で遊べていたことに満足していたんだ。木登りはいわば、俺と姉とを結び付けてくれた神様みたいなものだ」
「それは大げさだし、それに実の姉に対して、そういう言い方をするのもちょっとキモイよ」
「兄弟だからとか、そんなのは関係ないさ。だって俺は、姉のパンティを見ようと躍起になっている最中は、姉を姉とは思っていなかっただろうからな。じゃあ姉のことをどういう存在に思っていたのかって訊かれたら、ちょっと答えに迷うけどな。それは姉にしても同じだと思ってる。姉は俺のことをたびたび見つめてきたが、あれは絶対に兄弟に向ける視線じゃなかったね。じゃあどんなものだったって訊かれたら、これまた返答に苦労するけど」
「仲睦まじいようで良かったじゃん。兄弟愛おつー」
「そんな適当に流さないでくれよ。俺にとって、あの出来事はすごく大切な意味を持っているんだから」
「じゃあ別に、私に話すこともなかったんじゃないの? 私にこのことを話した理由って何よ」
「それは……」と俺は答えに窮してしまう。カフェに入店してから、今までの話の流れを頭の中で反芻しつつ、うまい言葉を探そうとする。
「愛良は、姉とは全く正反対だから。姉は小学生の頃はだいぶ活発だったけど、中学生に上がってからはだんだんと自分の中に塞ぎ込んでいくようなものが感じられたんだ。それを吹き飛ばすようにして、俺は姉の見ている前で馬鹿なことをしたりしたものだ。家族で食事をとっている時にわざとおどけてみせたりもした。でも姉はどんどん元気がなくなっていった。しまいには俺たちの元を、ほとんど何の連絡もなしに去っていった。それが俺には非常に悲しい。それがな、愛良とこうして話しているうちに、どんどん俺の中で、この思い出が遠くの方に消えて行ってしまうような、そんな感覚があったんだ。お前のせいで、っていうことを言いたいんじゃないよ。ただ、俺の中で、姉に関する思い出が次第に大切なものじゃなくなっていくのを俺はまざまざと実感することができていて、特にこうやって話がはずんでいる時にそうなるんだ。だからこそ、俺はお前に話さなくっちゃならなかったんだと思う。遠ざかりつつある大事であるはずの思い出を、まさに消し去ろうとしているお前の元にこそ引き留めるために」
話しているうちに、俺は実はこんなことを考えていたのかと自分でも驚いてしまう。半分はその場の思い付きの、口から出まかせであることは疑いないが、もう半分はどうも嘘とは思えなかった。愛良に対して、彼女がいくらこちらの話を聞いていないようなつまらなさそうなそぶりを見せても、俺が話すのを止めなかったのは、こういう理由からだったのかとはっきりする思いがあった。今の話にしても、愛良がちゃんと聞いていたのかどうかは怪しい。なぜなら彼女は、先ほどと全く変わらない調子でストローをちゅうちゅう吸っていたからだ。
話が終わると、俺は何となく寂しい気持ちになってしまった。下を向いて黙り込む。この変化を愛良はどう受け止めるだろうかという邪推もなくはなかったが、ああして話してしまったことで、俺はいささかすっきりもしたのだろう、もはや彼女がどういう気持ちで今の話を受け止めたのかだとかは気にならなくなっていた。ようやく誰かに向かってこの話ができたことの達成感だけが、俺の中で激しく脈打っていた。
しばらく時間が経ってから、「さっきから言いたいのを我慢してたんだけどさ」と愛良は話を切り出した。
「拓馬のお姉さんがどっかに行っちゃったのは私も悲しいことだと思うし、それに対して拓馬が納得のいっていない思いを抱いていることもすごく伝わってくるよ。お姉さんの部屋がどうなっているのか見たくて堪らないのに、それにたぶん、部屋を覗く事自体が目的なのに、それで満足感を得たいはずなのに、姉の学校での生活の手がかりになるものが見つかるだろうって、そういう言い訳をつけちゃう理由も何となくわかる。お姉さんという存在は拓馬にとって未知なる存在だったんだろうって私は想像するよ。私には兄弟姉妹なんていないから、想像するしかないんだけど、でもそういう、覗いちゃいけないものを覗きたいって気持ちは、私にも経験があるから、拓馬が今もお姉さんの部屋を見ることができない事情も察することができる。
でもね、そういう共感とは別に、だから何なのって気持ちが私の中にはある。こんなことを話したところで、拓馬はきっとこれからもお姉さんの部屋を覗き見ることはできないだろうし、お姉さんの消息だってきっとわからないまま。よくわかった頃には、もうきっと拓馬はお姉さんに対する今持っているような尊敬の気持ちなんかすっかりどこかに置いてきちゃっているんだろうって思うよ。たぶん、そういう風にできているんだと思う。これはどうしようもないこと。わかる?
だからね、私が言いたいのは、そういうことをいつまでもねちねち考えているんじゃなくて、忘れようとしているんならさっさと忘れなさいってこと。絶対に達成できないような何かをいつまでも考えるんじゃなくて、目の前のものにもっと集中しなさいってこと。大事な思い出が何だ、そんなもの紙にでも書いておけばいいじゃないか。そうすれば絶対に忘れる心配がないんだから、忘れたくないって思うんならそうすればよかったんだ。でもあんたはそうはしなかった。いつまでも自分の頭の中だけの思い出にしておきたかった。今日私にこうやって話をしてくれたのは、あんたがさっき言ってくれた理由とは違うんだって私は思ってる。
つまりね、あんたは私にこの話を全面的に託したいんだってこと。あんたの今、脳の中に潜んでいるお姉さんについての思い出を、そっくり私に託しておきたいんだってこと、そうしてあんた自身、お姉さんについての思い出から自由になりたいんだってこと。これは思い出を共有したいっていう願いとも違う。あんたは自分だけがお姉さんのことを今でも忘れないでいられているんだって勘違いしてるんだ。でもあんたはその責任から早く逃れたいって思い続けているんだ。だからあんたは私にその話をして、責任を共有しようっていう建前の元で、私に全部その責任を押し付けようとしているんだ。だってそうじゃない? あんたのその満足そうな顔を見ていてもそう思うし、私自身、今度はあんたのお姉さんのことについてあれこれ知りたいって気持ちが湧き出ていることからもそれはわかる。現に私は、拓馬のお姉さんがどういう人で、どうして家を突然飛び出していったのかだとか、どうして小学生時代はあんなに元気だったのに、進学するにつれて塞ぎ込んでいったのかだとかが気になって仕方がない。
でもね、ここが大切なところなんだけど、私はこうした疑問を解決するために、敢えて拓馬の力を借りようとは、もう思わないんだよ。この疑問は私自身が解決しなくちゃいけない問題なんだって、私自身がもう既に決めつけちゃってる。これはすっごく不思議なことだけど、でも事実なんだから仕方がない。私は私の手で、この問題を解決したいって思ってる。あんたの役割は、私にとってはもう終わったも同然なんだよ。このことをもっと広い意味に考えて言っちゃえば、私はもう、この話が出た時点でもう会わなくてもいいってことになっちゃったんだよ。あなたは私のことを、お姉さんの思い出を全面的に託すという形を取って見捨てたんだ。私をそういう役割に押しつけて、自分だけ楽になろうとしたんだ。私はそれを許さない。でも同時にあなたのことを赦したいって気持ちもある。なぜって私は、もっと拓馬と一緒に話したいから。それだけ。このためだったら私はどんなことでもするつもり。あなたにとっての消えたお姉さんの役割だってなんだってしてみせる。だから」
ここで愛良は言葉を切って、勢いよく立ち上がった。辛そうに唾を飲み込んだ後、俺の方をじっと見下ろして、涙まじりの顔と声でさらに続けた。
「今、目の前にいる、私を見てよ。都合のいい、どうでもいい他人としてじゃなくて、今ここにいる、一人の人間として私を見て」
正直なところ、愛良がどうしてここまで取り乱す必要があったのか、理解の追いついていないところがあった。だが、俺が彼女に酷いことをし続けてきてしまって、それがここで爆発したのだということは容易に察せられた。これが愛良の本当の本心なのかと俺は思った。カフェでいつもみたいに過ごしている愛良は「本当の」姿でしかなかった。そのもっと奥に、「本当の本心」があって、俺はそれに気づくことができなかったのかもしれない。女心というものは……という話では済まないようなものもここにはある。
とにかく俺は謝らなくちゃと思い、立ち上がって小さく頭を下げた。何かを言わなければと思うが、何も言えない自分が悔しかった。それに何かを言ったところで、今の愛良には絶対に届かないだろうし全部否定されてしまうだろうという確信もあった。できることと云ったら、顔を覆う彼女を店から連れ出して、どこか落ち着ける場所を探すことくらいだった。
その後、駅前で別れたところでふと思った。愛良もまた、俺の姉、美知華と同じように思い出の中だけの存在になってしまうのではないかと。そうはならないよう、できるだけ努力はするつもりだった。だが、そういう人間付き合いしかもう俺はできなくなってしまっており、そういう付き合い方を俺自身、実は肯定してしまっているのではないかという疑いもなくはなかった。つまり、愛良がこのまま俺の元を離れることを密かに望んでいるのかもしれないということだ。
それはいけない、いけない、と思いつつも、その予感からは離れられないでいた。そしてそれは、案の定現実のものとなった。大学を卒業する頃には愛良を見かけることはなくなり、思い出の中だけに生きる存在となった。
愛良に関する思い出もいつか、彼女がいつか言ってくれたように、また別の女性に託されることになるのだということを思うと、そして再び、以前と同じ過ちが引き起こされるであろうことを思うと、悔しくて堪らない。しかし、これが自分の運命であることに納得する気持ちもあって、そういうことを考えると、決まって俺は笑いが止まらなくなるのである。何かに勝利した時の高笑いではなく、完全敗北を喫した際の吹っ切れた笑いでもない、もはや何の感情も湛えていない、世界中がその色に染まってしまうような、うまく言えないがそういう類いの笑いが。