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(6)

 模範演奏を含む一連の予定をすべて終えると、午後四時半を回っていた。大学側は更に一席設ける算段をしていたのだが、さく也は承諾しなかった。

「疲れたから」

 思いのほか長くなった拘束時間を考えると――立ち会わなくてもいい、ピアノの調律から居たので――、誰も無理強いは出来ない。残念がる関係者は悦嗣に取り成しを頼んだ。しかし自身も疲れていた悦嗣は、「断っていいんだな」と確認するだけに留め、気恥ずかしいくらいの見送りを受けて大学を後にする。

 冬の薄暮は通り過ぎるのが早い。大学を出てまもなく辺りはすっかり暗くなった。葉の落ちた街路樹のシルエットが寒々しい。

 疲れを理由に帰途についたが、悦嗣の運転する車は、さく也が泊まるホテルには直行せず市街地に入り食事をした。二人とも愛想をこれ以上使う気になれなかっただけ、つまり大勢と食事をする気になれなかっただけで、それなりに空腹だったのだ。特に悦嗣は体も頭もフル稼働だったせいか脳が甘いものを欲しがって、普段はキャンセルするデザートを注文して平らげた。

 食事を終えると「ドライブしたい」とさく也が言うので、どこに行くとも決めず車を走らせている。ノーギャラではなかったがボランティア価格でプロの演奏家を一日拘束したのだから、それくらいの希望は聞いて当然だろう。

「時間取って悪かったな。学生アンサンブルまで聴かせて、大学側も遠慮ってものが無い」

「一日空けてたから気にしてない。音楽を聴くのは嫌いじゃないし」

 聴くことは嫌いではないだろうが、さく也は学生アンサンブルの演奏に感想らしい感想は述べなかった。

 三年生で構成されたアンサンブルは、可も無く不可も無くと言ったところ。中原さく也の演奏の後では、聴き劣りするのは明らかだった。それは本人達も自覚しているらしく、妙な緊張感がある。そしてそれは聴く側の学生達と、その師匠達にも伝染していた。悦嗣もまた、その一人だった。緊張感を引き出した張本人のさく也は、いつもの調子で演奏を聴いていた。

 ヨーロッパの上質な音の中で生活している彼の耳に、学生の音はどう響いたのだろう。音程が微妙に上下しても、合奏のタイミングがズレても、表情に何の変化も見えなかった。その様子が新たな緊張を生んだ。

 終わった後に乞われた感想は「楽しめました」の素っ気ない一言で、さく也のアドバイスを欲しがっていた学生達は、沈黙せざるを得なかった。

「本当に楽しめたんだから、ちゃんと感想だと思うけど」

 その時の周りの反応を思い出したのか、さく也が呟く。食事中に摂ったアルコールが、彼の口を滑らかにしていた。たったコップ一杯のビールで、あきらかに口数は三倍になった。

「曲がりなりにも音楽学部だから、もっと踏み込んだ言葉が欲しいんだよ」

「そう言うのは苦手なんだ。俺自身、勉強中なんだから。俺の演奏に対しての感想が欲しいくらいだ」

「意外だな。関心なさそうなのに」

「人並みだよ」

 さく也は明日、ウィーンに帰る。何回か演奏会を聴きに行ったとは聞いたが、その他に何かをしたという話はなかった。ずっと海外生活であるとはいえ、「東京近辺は地元」と話していたところをみると、観光などは今更なのだろう。もしかしたら予定があったのかも知れない。しかし余計な模範演奏会などが入ったものだから、多少は変更したこともあるかも知れない。

「別に予定を変更したりしなかったけど」

 クリスマスを控えてとりどりのイリュミネ―ションで飾られた街を抜け、車は湾岸線に入っていた。

「もともと観光が目的じゃなかったし」

「じゃあ、なんでこの時期に? クリスマスなら向こうが本場だろう? 飛行機代だって、一番高い時だし」

「今度のオケは最初の三年は試用期間なんだ。入団したら休暇は自由に決められなくなるから、来られるうちに来たかった。それに、」

 ライトアップされた橋を珍しげに見ていたさく也は、悦嗣に向き直った。

「会いたかったから」

 すっかり忘れていたことを、その一言で悦嗣は思い出した。

 半年前に示された、さく也の想いの一片。

 この数日はまったく感じなかった。目の前にいた彼は、ヴァイオリニストとしてのさく也であったし。

「わざわざ?」

 まぬけな質問だ。悦嗣が自分をまぬけだと思ったのはこれで二度目。一度目は英介の結婚披露宴で、彼への気持ちを自覚した時だった。

「わざわざ」

 さく也は微笑んで答えた。

「だから目的はちゃんと果した。一緒に弾けたし。最初の練習の時にヴォカリーズが遅くなったのは、」

 言葉が途切れて、フイッと窓の外に目を戻した。

「弾き終わりたくなかったから」

 声音は少し下がったが聞き取れる。

 頬が熱くなる感覚。車外を見るさく也の表情はわからない。しかし自分はあきらかに赤面していることが、悦嗣にはわかった。

 会話が途切れるバツの悪さを取り繕うために、悦嗣は話を継いだ。

「俺は引き摺られて大変だった。楽しむ余裕なんかなかったさ。思えば、中原さく也の音をじっくり聴いたことがないな、前回もそうだったけど弾くのに精一杯で、気を抜いたら指が止まりそうになる。おまえと演る時は真剣勝負みたいなもんだ」

「俺の演奏を聴きたいのか?」

 振り返らずにさく也が言った。声の調子は戻っている。

「聴きたいね。だから一曲は無伴奏を入れて欲しかった」

「どこか車を止められる? 少しは静かなところがいいけど」

「えっと」

「あそこは出口じゃないのか?」

 さく也が指差す前方に、ジャンクションを示す標識が見えた。悦嗣は促されるまま左の車線に入った。




『中原さく也の音を聴いたよ』

 冒頭の一言で、悦嗣のキーボードを打つ指は動きを止めた。指先が震えたのだ。中原さく也というヴァイオリニストの音を思い出して。右手で左手の拳を包み、グッと力を入れた。

 そのヴァイオリンのために用意されたステージは、海辺りの広場。防風とアラ隠し――眼前が古い埠頭だったので――の植樹のおかげで、ライトアップされた橋の姿が遮られ、夜景を楽しむには不向きな場所だった。もう少し進めば繁華なアミューズメント・エリアなので、人の流れは大抵そちらに向かう。だから人気と言えば、犬の散歩をする人くらいだった。

 しんと空気は澄んでいた。月の白さが際立って、ライトのかわりに辺りを晧晧と照らしていた。

 奏者は一人。観客も一人。

(シャコンヌだ) 

 冷気を裂いて、音が翔ける。

 闇に吸い込まれることなく、風にざわめく枯れ枝の、乾いた音をものともしない。すべての音をかき消して、それ以外の存在を許さないかのように、次々と変形し変容するバッハの『シャコンヌ』 

 何度も何度も繰り返される第一主題、多用される重音。ヴァイオリンという楽器の感情の高まりは、それらによって極限まで表現される。

 音は生まれた瞬間から旋律を創り、『楽』と成って聴くものの耳を支配した。

 悦嗣は我知らず身震いした。寒さからではない。中原さく也の演奏に体が反応したのである。

 全身が耳となって、その音を受け止めていた。

『押さえつけられて動けない。そんな感じだった』

 あの十五分を文章に出来ない。元々文才の無い悦嗣なのだが、どんな表現も陳腐に感じて、更に語彙を貧困にしていた。

 イスに深く座り直し煙草に火を点けた。ため息に似た長い吐息に紫煙が色をつける。それは冷たい外気で白くなる息に似ていて、悦嗣の意識をたちまちあの海辺の広場に引き戻した。




 弓が最後の音を奏でて、『シャコンヌ』が終わっても、余韻が悦嗣を縛った。目の前にさく也が立って、初めて曲の終わりを知り、忘れていた冷気が体を包んだ。

「聴いた?」

 さく也の口元に白い息が漏れた。

「聴いた」

 言い知れぬ敗北感を、悦嗣は感じていた。感想は言葉にならなかった。

(俺は、どうして悔しいんだ?)

 それは戻った車中にあっても、しばらく拭えなかった。

 楽器の違いはあっても差は歴然だ。感嘆より先に立つものなどあるはずはないのに、悦嗣の心中はその感情に囚われて、口元は引き結んだままだった。大人気ないとは思った。「ありがとう」の一言も出ない。ただ黙って、ハンドルを握るだけだった。

 悔しいのは中原さく也に対してではなく、自分自身に対して悔しいのだ。なぜ、自分は聴くことしか出来ないのだろう? なぜ彼のように弾けないのだろう? なぜ、今になって自分は。

 奇妙な沈黙。悦嗣は視界の隅で助手席のさく也を見る。目は閉じられ、頭が悦嗣寄りに少し傾いでいた。心持ち開いた唇の様子に幼さが残る。結局、宿泊先のホテルが近くなり悦嗣が声をかけるまで、さく也は起きなかった。

 車を路肩に止め、二人は外に降り立った。後部座席から楽器を取り出すさく也に、「『シャコンヌ』、ありがとう」と、悦嗣が言った。心を占めていたものは、幾分、払拭されていた。

 さく也は悦嗣を見つめた。

「あんたが忘れないように弾いたんだ」

 うたた寝でアルコールが抜けたのか、さく也の声は不愛想な調子に戻っていた。

「次に会うまで、俺のを忘れないように。帰国と聞いたらエースケだけじゃなく、俺のことも思い浮かべるように」

 さく也のヴァイオリンとその演奏を聴いた後で沸いた感情。彼の思惑通り自分はきっと忘れない。忘れられない。その心中を見透かされたのかと思った。

「案外、根に持つほうなんだな。今度はちゃんと覚えとくさ」

 だから努めて平静を装う。

「うん」

 と答えたさく也は、肩からヴァイオリン・ケースを下げてホテルの方向に体を向けた。

「でも覚えていてくれるのは、きっと音だけだ」

「え?」

「ヴァイオリニストとしての俺を、ピアニストとして見ている」

 ヒュッと風が走った。

「それでもかまわないけど」

 頬にかかった髪を払いのけ、さく也は一歩踏み出した。前回の空港同様、振り返らなかった。




 メールの文面は止まったまま。さく也のヴァイオリンについて書き連ねたところで、悦嗣のなけなしの文章力は使い果たされてしまった。あのヴァイオリンの音についてしか、書く気にもなれなかった。

 煙草の最後の煙を天井に向かって吐き出す。目はそれを暫く追った。耳は『シャコンヌ』をリバースする。間にさく也の別れ際の言葉を挟みながら。

 確かにあの弓が創りだす音楽に惹かれている。しかしさく也が時折り示す素直な想いは、応える術を持たない悦嗣を戸惑わせた。そして疾うに封印した英介への想いを刺激するのだ。

 〆の一文もつけず送信をクリックした。メールは一瞬でいくつもの国境を越えて英介のもとに届くだろう。支離滅裂で尻切れトンボな文面を見て、彼が微笑む様が想像出来た。

「エースケ、おまえは今ごろ何してんだ?」

 画面に浮んだ送信完了の文字に向かって話し掛ける。

 英介の奏でる柔らかなチェロの音色が聴こえた気がした。長い一日の終わりに、疲労感が押し寄せた悦嗣の気持ちを和ませる。

 とにかく今日はもう寝よう。英介の音色が耳にあるうちに――PCの電源を落とし、ベットに倒れ込んだ。その時、音は再び、中原さく也の『シャコンヌ』に変わっていた。悦嗣はもう一度英介のチェロをイメージしたが、戻って来なかった。諦めて目を閉じる。

 眠りに入るその瞬間まで、『シャコンヌ』は途切れることはなかった。




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