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(4)

 ぽたりと、手首を霞めて水滴が落ちた。悦嗣には自覚がなかった。その水滴の出処が、自分の目であることに。顔を上げて頬をそれがつたった時、初めて涙だということに気が付いた。袖口で拭う。指が微かに震えていた。

 演奏会でもなんでもない。場所は実家のレッスン室で、ピアノは国産。ヴァイオリニストとピアニストの二人きり、そしてただの音合わせ練習――なのに、この涙はなんだろう。

 さく也の方を見ると、ペグで弦を調整していた。淡々としたその表情に、無意識に高揚した悦嗣の涙腺は、ようやく落ち着いた。それでも耳には先ほどまでの『ヴォカリーズ』の余韻が残る。

(なんて音、出しやがるんだ)

 緩急と強弱のタイミングを、簡単なデモ・プレイで打ち合わせた後、まず『ヴォカリーズ』から通した。

 半年ぶりに聴いた中原さく也の音。アンサンブルのそれではなく、ソリストとしての音が悦嗣を圧倒した。感傷的なヴォカリーズの旋律をより一層に際立たせて、悦嗣を包み込む。

「…ンポ、遅すぎた」

 頁を戻しながら、さく也が何かを呟いた。やっと悦嗣の意識は『今』に戻る。

「え、あ、何だっけ?」

「粘り過ぎたかも知れない。重い感じ、しなかったか?」

 楽譜から目を外して、彼が悦嗣を見た。その目が少し見開かれる。「はっ」と悦嗣は目をぬぐう。左目の端に、涙がまだ残っていた。

「…そうだな、も少しあっさり弾いてくれ。俺の涙腺が緩む」

 言い訳しても仕方ない。これが英介なら、さり気なく突っ込んでくれるところなのだが――「もっと泣いてくれていいんだよ」とか「エツにしては殊勝な言葉だな」とかなんとか――、さく也は何も言わないタイプな上に、間が中途半端に開いて、悦嗣の言葉は置き去りにされた。

「じゃあ、もう一度、通していいかな」

 彼の声にも変化はなかった。ただ譜面台に向き直る際の横顔に赤みが差し、再度通された『ヴォカリーズ』は、思った以上に速いテンポで始まった。その音はまるで彼の照れを代弁しているかのように、軽やかだった。しかしそれも最初だけで、曲が進むにつれて冷静さを取り戻したさく也の弓は、速度も安定し本来の音を紡ぎだす。そして悦嗣もようやく、演奏者としての自分を取り戻すことが出来た。

 続けて『なつかしい土地の思い出 第二曲スケルツォ』を通す。打って変わっての軽快なアレグロに、悦嗣の指は緊張した。引き込まれる隙を与えられない。どちらかというと速い曲調が得意な悦嗣には、この曲は弾きやすいし心地よい。

「ここのピアノは、子供も弾きやすいように軽めにしてるから、ちょっと走りがちになるんだけど、入りはあれくらいで良かったのか?」

 悦嗣はハ短調のスケールを弾いて聴かせた。母の好みで柔らかい音がする。

「良いと思ったけど。中間部のレガートをあまり遅くしたくないから、あれぐらいのほうが対比が出て面白い。あんたは速い曲の方が得意なんだな?」

「性格がせっかちだからな、次の音を待ちきれないんだ。それにおまえと演るなら、アレグロかプレストのがいいよ。緩い曲は聴きこんじまって、あのザマだ。ああ、だからってヴォカリーズはあまり速くするなよ。さっきは、も少しあっさり弾いてくれって言ったけど、最初の方が音にあってるし、気持ちよさそうだった」

「あれは…」

 さく也が口篭もった時、母屋側のドアが勢いよく開いた。例の如く、ノックはない。

 悦嗣は前髪をかき揚げながら、

「だから、ノックくらいしたらどうなんだ、夏希。今日は俺だけじゃないんだぞ」

と、入ってきた夏希を嗜める。休憩用に母に頼んでおいたコーヒーが、トレイに乗って彼女の手にあった。カップは三つ、自分の分も忘れていない。

「ごめんなさい、さく也さん。エツ兄も」

 彼女はさく也に向っては丁寧に、兄にはあきらかについでで向き直って謝った。

「俺は母さんに頼んだんだけどな」

 カップを受け取りながら悦嗣が言うと、夏希は口をへの字に曲げた。

「ずるいよ、エツ兄。来るなら言ってくれればいいのに。わざわざ外から入ったりして。ほんっと、ケチなんだから」

「言えば、こうやって邪魔しに来るだろうが」

「ひっどーい! 私だってちゃんとわきまえてます。今日だって、おにぃの車で気がついてたけど、休憩まで我慢したんだから」

「休憩ってのは、『休む』『憩う』って書くんだ」

「可愛い妹が、憩いにならないっての?」

「うるさい妹は、邪魔なだけです」

 夏希の口は、今度は大きく息を吸い込み、頬をプーッと膨らませた。

 さく也は二人のやり取りを、口をはさむでもなく見ていた。さすがに夏希も恥ずかしくなったのか、それ以上は悦嗣に反論しなかった。

 コーヒーを飲み終える間、夏希のおしゃべりがつづいた。物怖じせずさく也にいろいろと質問する。言葉数は少ないものの、さく也は嫌がらずに答えた。

 夏希はそのまま残って練習を聴いていたい風だったが、悦嗣は許さなかった。いつもならもっと粘る彼女も、中原さく也を前にしては、やはり調子が出ないらしく、おとなしく引き下がるほかない。

「どうせ来週には聴けるんだから、その仏頂面やめろ」

「せっかく演奏者の妹なのに、なんの特権もないなんて」

 引き下がりながらも、未練がましい夏希であった。

 そんな彼女のために、さく也は『タイスの瞑想曲』を披露した。もちろん伴奏は悦嗣で、夏希は『妹の特権』を行使出来たわけである。こういう思いやりある行為がさく也から出ることは、悦嗣には意外だった。もっと芸術家肌で、気難しい質なのかと思っていたので。

(案外、普通なのかもな)

 心なしか演奏中のさく也は楽しげに見える。そんな彼を見ながら、悦嗣はそう思った。


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