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(3)


 クリスマス・コンサートの打ち上げと、忘年会を兼ねた飲み会でさんざん飲んだ夏希は、二日酔いの典型的な症状で朝を迎えていた。月島芸大学生オーケストラ所属の四年生は、この演奏会が弾き納めとなる。だからその打ち上げでは例外なく、どの学生も自分の限界以上に飲んでしまうのだった。どこからどうやって帰ってきたのか、夏希の記憶は飛んでいた。

 あくびで吐き出された息が、まだアルコール臭を帯びている。

「おはよう、頭いたーい…、クスリない?」

 パジャマ姿のまま居間に入ってきたそんな我が娘を見て、母親は遅い朝食の用意の手を止めて、ため息をついた。

「二日酔いに効くのなんてないわよ。まったくもう、いい年頃の娘が、二日酔いになるほど飲むなんて」

 ため息をつかれた夏希は言われたことを気にする風でもなく、テーブルのサラダ・ボウルからプチトマトをつまんだ。母がその手を軽くはたくと、トマトはボウルの中に戻った。

「先に着替えてきなさい。エツがお友達を連れて泊まってるから、そんな格好でウロウロしないで」

 母がガスコンロに目を戻すのを確認して、夏希は再度プチトマトをつまみ、今度は口に放りこんだ。

「友達? 誰? エースケさん? それとも秋本くん?」

「初めての方よ。だから早く。お兄ちゃん達はもう起きてるんだから」

「へいへーい」

 もう一つトマトを頬張った。着替えに戻ろうと体を向き直した時、ドアが開いた。

「エツ兄! 昨日、聴きにきてくれた?」

 入ってきたのは悦嗣で、夏希は抱きついた。酒臭い息に年の離れた兄は、顔をしかめた。

「行った行った。おかげで疫病神に捕まったけどな」

「何それ? あれ?」

 夏希は悦嗣の後ろに誰か立っていることに気づいた。

 首を伸ばして見る。確かに今まで兄が連れてきた友達の中にはいなかった顔である。が、まったく知らないというわけでもない。

 相手は夏希と目が合ったので軽く頭を下げた。右目の下のホクロに目が止まった。

「えっ、もしかして中原さく也…さん?」

 付け足したような敬称は、さすがに呼び捨てはまずかろうと言う、一瞬の判断からだ。

「夏希、早く着替えてきなさい」

 母の再度の促しは、少し怒りモードだった。夏希は舌をぺロッと悦嗣に見せて、素直に居間を出て行った。




 悦嗣はさく也にテーブルの席をすすめた。母は温めた味噌汁を二人の前に置いた。

 立浪教授から悦嗣とさく也が解放されたのは午前二時だった。

 悦嗣はそこそこ自分の酒量を知っているし、立浪教授の前で酔いつぶれて、意識の無いうちに何かを承諾させられることを警戒し、努めて注意していたので最後まで正気を保っていられた。

 かたやさく也はと言えば、知らぬ間に眠ってしまっていて、泊まっているホテルも聞き出せない状態だった。たまたま悦嗣の実家に近く連れ帰ったのである。妹の夏希が遅かったせいかまだ母が起きていたので、ちゃんと布団の上で眠れたのは助かった。

「あの子ったら、幾つになってもガサツで困るわ。やっぱり男兄弟に囲まれて育ったせいかしらね。ちゃんとおはようって言った?」

「言ってない」

 と悦嗣が言い終わらないうちに、どたどた足音も高く夏希が居間に戻ってきた。

「おはようございます! 先ほどはどうも失礼しましたっ。私、この『不肖な兄』の妹で夏希と申します」

 まっすぐさく也の方に歩み寄りその手をとると、握手した。ぶんぶんと音がしそうな勢いである。

 さく也はされるにまかせ、かろうじて「どうも、中原です」と呟いた。

「感激、ホンモノに会えるなんて。昨日、ヴァイオリンの後輩が中原さく也が来てるって言ってたけど、本当だったんだぁ」

 そこから先は機関銃の如き単語の羅列が、延々と続く。血縁者たる母も兄も口を挟めないのだから、赤の他人のさく也など太刀打ち出来ない。それでもその目に嫌な色は見えなかった。彼女の天真爛漫で嫌味のない性格が、人を不快にさせないことを悦嗣は知っている。

 それに――さく也と二人ではさほど会話は進まない。六月に成り行きでクインテットを組んでステージに立ったが、親交を深めるには至らなかった。何しろ悦嗣がコンサートに出ることが決まってから本番までは五日ほどしかなく、その時間はすべて練習に費やされたからである。それ以後、会う機会もなかった。

 そして――さく也の自分に対する気持ちを、悦嗣は図りかねていた。打ち上げの夜のキスの意味も、空港ロビーでの言葉の意味も。

 夏希のおしゃべりな性格は、朝食の時間を明るくしてくれる。だから悦嗣はそれを無理に止めようともしなかった。




「ユニークな妹だ」

 食べ終わってから悦嗣は、離れのレッスン室にさく也を案内した。言葉の洪水の中に浸かるのにも、さすがに限界が見えてきていたので。

「一日一緒にいたら、耳鳴りがするぞ」

 エアコンのスイッチを入れながら、彼の言葉に答える。噴出し口から温風が流れた。

 振り返り、今度は悦嗣が聞いた。

「兄弟は?」

 壁一面は書棚になっていて、楽譜が並んでいる。さく也は近寄って一冊を手に取り、頁をめくった。

「弟がいる、双子の」

「双子?」

 悦嗣は意外に思った。てっきり一人っ子と言う答えが返ると予想していたからだ。まだお互いの家庭環境まで話す間柄にないから、親兄弟の影が見えないのはあたりまえだが、それ以上に彼はそれを想像させない。

「へえ、同じ顔がいるのか」

「二卵性だからあまり似てない」

 次の答えは素っ気なかった。なので会話もそこで終わり。悦嗣は夏希の才能を実感した――このさく也相手に途切れる事無く喋りつづけることが出来るのは、一種の才能と称することが出来よう。それは立浪教授にも言えることだった。あちらは年の功も加わっているので、計算も入って始末に負えないところがある。

 中原さく也は月島芸大で模範演奏をすることになった。プロの演奏家に頼むのだから、本来、相応のギャラが発生するのだが、彼はそれを受け取らないかわりに、立浪教授にある条件を呑ませたのである。


『加納さんの講師の件をしばらく引っ込めて頂けませんか?』


「おまえ、なんであんな条件出したんだ? 共演の話なんて無いだろ」

 楽譜に目を落としていたさく也が、悦嗣を振り返った。

「あんたに貸しを作っておくのも、面白そうだと思って」

 悦嗣はポカンと口を開けた。またもや会話が途切れる。

 さく也は四、五冊楽譜を選ぶと、悦嗣の座るピアノの上に置いた。どれもヴァイオリン・ソロの楽譜である。もとは悦嗣の所有物で、伴奏の課題や学内演奏会で使用したものだった。卒業してからは使うことがなく、家を出る際に置いていったので、ずいぶん久しぶりに目にする。

「どれか弾ける?」

「もともと俺の楽譜だ。このチャイコ(チャイコフスキー)は、スケルツォなら弾ける。ヴォカリーズもよく弾いた」

「じゃあ、この二曲にする」

 ラフマニノフの『ヴォカリーズ』とチャイコフスキーの『なつかしい土地の思い出』を残して、あとの楽譜は片付けられた。それからその二冊を、悦嗣に渡す。

 悦嗣は顔をしかめた。渡された意味はわかっていた。

「俺?」

「弾けるかって、ちゃんと確認した」

「立浪はバッハのシャコンヌを期待してたぞ」

 シャコンヌはバッハのヴァイオリン・ソナタで、無伴奏の難曲。酔って眠ってしまったさく也は覚えていないが、立浪教授はこの曲を演奏してもらいたいと悦嗣に話していた。無伴奏ヴァイオリン曲の頂点に立つバッハの『シャコンヌ』は、プロの演奏家ならレパートリーに加える努力をする。

「一人で弾くのは好きじゃないし」

 さく也は考慮する気もなさそうだった。「弾けないから」と答えないところをみると、彼もやはりプロなのだ。

「ここは使わせてもらっていいのか?」

「夜なら構わないと思うけど。わかってんのか? 俺は仕事あるんだぞ」

 クリスマス・コンサート等々で調律の依頼が毎日入っている。それとなく断っているつもりだが、わかってくれているとは思えない。と言うよりも、聞く耳持たない風情がある。

 それに今ひとつ強固に断れないのは、悦嗣の指が鍵盤を懐かしがっているからだ。六月に聴いたあの中原さく也の『音』を、もう一度感じたがっている。

「ヴァイオリンは?」

 プライベートの旅行だと聞いている。ウィーンからの距離を考えると、仕事でもないのに、大事な楽器を持ってきているとは思えない。彼くらいの弾き手が使っているヴァイオリンは、そこそこ銘器のはずだ。

「持ってきたよ。あんたと弾くつもりだったから」

 さく也はさらりと答えた。

 悦嗣はため息をついた――まったく、どいつもこいつも。

「わかったよ。この二曲だな?」

 そしてわくわくしている自分も、気後れしている自分も。




 夜、マンションに戻ってPCのメールをチェックする。ここ数日開けていなかったので、ダイレクトも合わせて結構な数のメールが入っていた。その中に曽和英介の名前を見つけた。悦嗣はそれをクリックした。彼からのメールは約一ヶ月ぶりだ。

『久しぶり。元気にやってるか? こっちは演奏会続きで忙しい。移動も多くて…』

 英介の口調そのままの文面を読み進む。彼の近況が目に浮んだ。どんなに忙しい毎日であっても、きっと楽しそうに演奏しているに違いない。英介は本当にチェロが好きで、単純な音出し練習でさえ嫌がらずにこなしていた。「音がきれいに鳴るのが、嬉しいんだ」と。

 目元に笑みが浮ぶのを、悦嗣は止められない。

『…そうそう、さく也がWフィルに入ることになった。オーディションの演奏は、すでに語り草だ。主席団員以外は聴けないきまりなのが、本当に残念だよ。正式入団は来年早々だから、それまでオフを決め込んだらしい。日本へ行くって言ってたよ』

「もう来てんだよ、エースケ」

 読み終わったメールを閉じながら、独りごちた。

 昼間、仕事道具を取りに戻った時に持ち帰った楽譜『ヴォカリーズ』と『なつかしい土地の思い出』が、机の上で悦嗣を誘っている。手にとって開いた。ラフマニノフもチャイコフスキーも好きな作曲家だった。コンクールや試験向きという事もあって、よく弾いたし、弾かされもした。

 立浪教授から日程の連絡が入り、さく也が了解したので、ウィーンに帰る前日の午後に月島芸大の大講義室での模範演奏が決まった。

 この状況を知ったら英介は、

「やっぱり、弾きたくなっただろう?」

と無敵の笑顔で言うに違いない。そして反論出来ない自分の姿を、悦嗣は容易に想像できた。

 中原さく也とは、二日後の夜に最初の音合わせを予定している。

 悦嗣の指はすでに臨戦態勢だ。あの時の吐き気にも似た緊張感ではなく、陶然となる瞬間だけを思い出している。

 あきらかに半年前とは違う。音を知ってしまった指は、悦嗣の感情などお構いなしだった。

「まったく…仕様がないな」

 その独り言は、何に対してなのか。零れた言葉は、静まり返った部屋の中に飲み込まれた。


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