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 前半のプログラムが終わってのインターミッションで、一番に声をかけてきた人物を見た悦嗣は苦笑した。

「なんだ、その笑いは? 加納も水臭いな。来てるのなら声をかけろよ」

 白髪交じりだがそれほど年配ではない男は、悦嗣の肩をばんばん叩いた。

「先生は鬼門だからな、ここんとこ」

 悦嗣は肩を竦めた。

 男と目が合ってさく也が軽く会釈する。それに彼も人懐こい笑顔で応えた。笑うと更に年若く見える。

「あれ、君、見た顔だな? 僕の講義取ってたっけ?」

「月島出身じゃないすよ。ああ、中原、これはここの教授の立浪先生」

「よろしく。これってのはひどいな。『恩師の』ってつけるべきだろ、加納クン?」

 立浪教授は『恩師の』の部分を強調する。「ほざけ」と悦嗣は短く発した。

「招待状出してたろう? こんな隅っこに座ってないで、来賓席に来ればいいのに」

「とんでもない。黙って聴くだけじゃ済みそうにないからな」

「よくわかってるじゃないか。例の件、考えてくれたか?」

「講師の件なら、この前、断ったでしょうが。俺はちゃんと仕事持ってんですよ」

「だから非常勤で良いって言ってるだろ」

「人に教えるなんて、出来ねぇよ。もっと適任いるっしょ?」

「『月島の奇跡』の折り紙つきだ」

「またエースケか。いい加減、結託すんの止めろよな」

 悦嗣の口調はすっかり学生の頃に戻っている。立浪教授は気安い性格で、試験期間以外は研究室を開放していたので、学生達の出入りも多かった。悦嗣も英介もその中にいて、特に可愛がられていた方だと言える。良いようにこき使われていた気もするが。タメ口になってしまうのも、またそれを許されているのも、悦嗣だからこそだろう。

「加納は僕に借りがあるでしょ?」

 この人懐こい笑顔がくせもので、英介はこの教授を手本にして最強の笑顔に開眼したのでは、と悦嗣は思っている。

「卒単の借りなら、半年前に返しましたよ、釣りが出るくらいに」

「僕の借りはね。でも加納、花井先生と米本先生にも借りがあったよな、た・し・か」

 あきれて思わず、「汚ったねぇ」と声が大きくなる。

 クスリと、さく也が隣で小さく笑った。

「なんだよ」

「借りを作り易い体質なんだな」

 さく也が答えた。

「ああ、思い出した。どっかで見た顔だと思ったら」

 立浪はさく也を見直して言った。悦嗣とさく也は彼を見る。

「君は中原さく也くんだね?」

 と言ったところで、後半が始まる五分前の予ベルが鳴った。

「続きは終わってから、ゆっくりな。中原くんとも話したいし」

 立浪は空いていた悦嗣の真後ろの席に座った。終演後に即行逃げる魂胆は見透かされている。

 悦嗣は大きく息を吐いた。




「加納はね、有名人なんだよ。一年の頃から月島じゃ知らない人間はいなかったくらいだ」

 立浪教授は隣に座るさく也に、悦嗣や英介達が学生だった頃のエピソードを話していた。さく也は興味深気に聞いていたが、話の肴にされている当の悦嗣はまったく相手にせず、外方を向いてアルコールを口に運んでいる。

 クリスマス・コンサートが終わった後、案の定、振り切れなかった立浪教授に連れられて、悦嗣とさく也は彼の行きつけの店で飲んでいた。

 立浪教授との同席は嫌ではない。学生の時、悦嗣はよく飲み食いに連れて行ってもらった。卒業後も英介が大学に残ったこともあり時折りは飲みに行ったが、悦嗣が転職し、彼も教授になって忙しくなってからは、少し間遠くなっていた。だからこうして旧交を温めるのは、本来嬉しいことなのだ。

 しかし今日は、ただ楽しく飲みにきたわけではないことを悦嗣は知っている。

「とにかく実技は常にトップクラスでね、練習嫌いで曲の好き嫌いも激しいんだけど、課題はちゃんとこなして、そこそこの成績を取って行くんだ。本番に強いっていう典型。ただ学科に弱い。僕の比較概論を落としたのも、とにかくレポートの出来が悪くてね。 僕なんかまだ提出してもらえただけマシだったかな。 音楽史のレポートなんて、踏み倒して卒業していったらしいから」

「そんな昔の話、してんじゃねえよ」

「じゃあそろそろ、『今』の話をしようか?」

 立浪教授は微笑んだ。「苦虫をかみ殺す」は今の悦嗣の表情を表現するにふさわしい言葉だった。

 月島芸大の非常勤講師の口を、立浪教授は特に熱心に勧めてくる。卒業の時も外部に、それもまったく畑違いの製造メーカーの営業に就職が決まった悦嗣のことを大げさに嘆いて、いずれは講師にするから大学に残れと勧めていた。

 半年前のアンサンブル・コンサートで演奏家としてステージに立った悦嗣は、この世界で少なからず注目されていたし、現役生の刺激にもなっている。話題性を求める大学側の利害にも沿おうというものだ。

「ダメダメ。人に物を教えるのは性に合わない」

「サークルでは面倒見が良かったじゃないか。今でも語り草だぞ、初代部長の手腕は」

「だから、後輩の面倒見るのと学生を指導するのがなんで一緒くたなんだよ」

 と言って思い出した。これと似たような会話をしたことがある――英介と。あの時はバイトのピアノ弾きと、クラシック・アンサンブルのピアニストを同列にした内容だった。今回の一連のことは、つまりはそこから派生しているのだと、感じずにはいられない。

「人を指導するのは同じだろう。あの時は加納自身も学生だった。だから教えるのは後輩しかいなかった。でも今はちゃんと大学を卒業した学士で、講師になれば教える相手は学生しかいない。ほら、同じじゃないか?」

「すり替えだ」

 ヒートアップする二人の会話は、周りの目などお構いなしだ。この攻防戦に負ければ悦嗣はまたもや、英介にしてやられたことになる。

「なかなか頑固だな」

 あきれたように教授が言った。

「どっちが」

 悦嗣はグラスをあおった。そこで一先ず『停戦』。これ以上押し問答をしたところで、意地になった悦嗣に隙は出来ないと思ったのか立浪教授が下りた格好になったが、決着がついたわけではないことを悦嗣は知っている。

 ため息をついた教授は、放ったらかしにしていたさく也に向き直った。

「昔はもっと可愛かったんだよ、この子も。先生、先生ってなついてくれたものなのに」

「デタラメ教えるなよ」

 悦嗣の声が教授を越えて、さく也に届く。

「照れているんだよ」

 いたずらっぽく教授は笑った。そして「ところで」と話をつなげる。

「今回はいつまで日本に? もし時間があるなら、特別公開レッスンをお願い出来ませんか?」

 悦嗣に対するのとは打って変わって丁寧な口調。さく也は顎を支えていた腕を外した。

「それとも、マネジャーか誰かを通さないとダメかな?」

「プライベートで来ているので。それにレッスンを人につけるのは苦手だから」

「レッスンじゃなくてもいいだよ。模範演奏でも。世界レベルの音を、うちの学生に聴かせて頂けないかな? 音楽は本物を聴くことで豊かになるものだから、君の弦の音をぜひ聴かせたい」

(こいつが受けるもんか)

 これは悦嗣の心の声。確かに中原さく也の音を聴くことは、いい勉強になるだろう。レッスンをつけるのは苦手かも知れない。しかしあの音を聴くだけで、それに勝るものが得られる。

 さく也はどんな表情でこの話を聞いているのだろうかと悦嗣は彼を見る。

 視線に気づいたのか、彼もまた悦嗣を見た。

「いいですよ、弾くだけなら」

 意外な言葉がさく也から出て、喜んだのは立浪教授、驚いたのは悦嗣である。

「そのかわり、俺もお願いしてもいいですか?」

「いいとも。何でも言ってくれたまえ。日にちでも時間でも、そちらの都合を優先させるから」

「十日ほどいますから、その間ならいつでもいいです。お願いは、加納さんの講師の件をしばらく引っ込めてくれませんか?」

 更に意外な言葉が出る。今度は立浪教授が驚いた。

「それは、どう言う意味かな?」

「彼と共演する話が出ているので、そちらに専念してもらいたいから。しばらく音楽から遠ざかっていたせいか、彼本来のピアノからはまだズレがあるように思えます。人のためにではなく、自分のために時間を割く方が先決だと思うので」

 あのさく也が滑らかによく喋る。きっとアルコールが入っているせいだと悦嗣は思った。

 それより何より、彼の話はまったくの初耳だった。共演のことなど何も聞いていない。

「そうなのか、加納?」

「え、いや…その」

「そうか、遂に音楽で食ってく覚悟が出来たか、水臭いな。なんで僕に言わないんだ」

 立浪教授の意識がさく也から、再び悦嗣に戻る。

 悦嗣はどう答えていいのかわからず、口篭もることしか出来なかった。さく也はと言えば涼しげな顔をして、空になったグラスを軽く上げてギャルソンを呼び、おかわりを頼んでいる。

「なんだ、なら講師の話はしばらく凍結してもいいぞ、加納。演奏活動するなら、話は別だ」

 上機嫌な教授に対して、答える言葉の見つからない悦嗣であった。


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