04 第一章 2番目の魔法少女と天才少年
【瑠璃】
私は声を待っていました。
場所は、A県B市椎名町――市立椎名小学校の五年一組の廊下です。
私は、今日からその五年一組に新たに加わる転校生、という訳です。
担任の先生は、声をかけるまで廊下で待っているようにと伝えて、教室の中に入って行きました。私を紹介するよりも先に、連絡事項の伝達など済ませるつもりなのでしょう。
なにしろ、転校生の挨拶や自己紹介で浮ついた生徒達が、重要な連絡事項をちゃんと聞いてくれるとは思えません。と、つまりは、そういう判断なのでしょう。
つまり、私は――その先生の、私を教室内へと呼ぶ声を待っているのでした。
何気なく、教室の扉にはめられたガラスに目をやりました。授業中の生徒達の気が散らないようにという配慮なのか、白く着色された、透明でないガラスがはめられていました。
当然ですが、そこには私の姿が映り込んでいます。
今日の私は、全体的に落ち着いて見えるよう選んだ服装――控え目にフリルが飾られた白いブラウスに、紺色の長いスカートを合わせています。
ええ。
意図した通り、小学五年生にしては落ち着いて見えますね。
水色のランドセルは――赤や黒とは違う色を選ぶのが流行のようです――背負ってはいるものの、一日程度ではちっとも慣れません。
黒い瞳にはわずかに緊張が浮かび、薄い唇が引き結ばれています。私は、肩まで届く長さの黒髪を整えるついでに、右手でおでこに触れました。
「赤くなっていないでしょうか?」
口の中だけで呟いて見ます。
強く押すとちょっとだけ痛みます。
その痛みのせいで、今朝の出来事が思い返されます。
――ちょっとしたトラブルがあって遅刻しそうになり、私は慣れない学校への道を急いでいました。
その途中、見通しの悪い曲がり角で、同じ年頃の男の子とぶつかってしまったのです。
注意散漫に急いでいた私も悪いと思いますが、歩きながら本を読んでいた彼の方がもっと悪いと思います。
それなのに、慌てて謝る私に対して、無言でデコピンを――額を人差し指で、びしっ、と弾いて――返してきたのです。
それが、本当に、涙がにじんでしまうほど痛かったのです。
その彼は、そんな私に構わずに、そのまま無言で行ってしまいました。理不尽です。『ここ』の子どもはみんなそんな感じなのでしょうか、と不安になってしまいます。
私の回想がそこまで至った時、教室の中で歓声が上がりました。
どうやら、先生の『今日は転校生を紹介します』という言葉を受けたものらしですね。それに続く『女子? 男子?』『女の子です』という定番のやりとりに、さらに歓声が上がります。最初の歓声に比べて、男の子の声が大きい気がします。
ええ、そうですね。
気持ちを切り替えないといけません。
私がそう思うのと、先生の声が同時でした。
「では、清水さん。入ってきて」
教室の前の扉を開けて、教室に入ります。
私をまず迎えたのは、担任の先生――金谷薫子先生の笑顔でした。
まだ若くて、やる気に満ちた先生、という印象でした。きっと生徒達の人気も高いのでしょう。軽く脱色したショートヘアの彼女が、化粧気の薄い顔に優しい表情を浮かべて、私を安心させるように微笑んでいました。
「はい、自分の名前を黒板に書いて下さい。それから自己紹介をお願いね」
私は、笑顔を返して頷きます。
手渡された白いチョークで、私は自分の名前を書きました。
名前を書いていくうちに、教室の中のざわめきが、単に転校生を珍しがるものとは若干変わって行きました。それは、私の名前の構成が珍しいものだからでしょう。
『清水・セルリアン・瑠璃』。
私は、ミドルネームを含めて自分の名前を書き切ってから、生徒達へと振り返りました。
笑顔を意識しながら、こちらに注目しているクラスメート達を見回します。
「はじめまして。清水・セルリアン・瑠璃と言います」
私の声が教室に行きわたります。
私の声は、大声でなくても良く響く、と言われることがあります。自分ではあまり自覚はないけれど、本当にそうだとしたら嬉しいと思います。
落ち着いて、ゆっくりとした調子を心がけながら自己紹介を続けます。
「長い名前なので、『清水』か『瑠璃』で呼んでください」
そう言って、生徒達を見渡した時に気付きました。
あ。
あの子――。
窓際の一番後ろの席に、あの男の子が座っています。
今朝、曲がり角でぶつかって、理不尽にもデコピンを返してきたあの子です。自己紹介中の私の方を見もせずに、朝と同じように、分厚くて難しそうな本を一心に読んでいます。
「私は、フラッタース王国からの留学生です。私の国と日本はとても仲が良いので、小さい頃から日本語を勉強していました。ちゃんと話せますし、読み書きもできます」
そう言った瞬間、その男の子が顔を上げました。
私の視線と彼の視線が、真っ直ぐにぶつかります。
その瞬間に、どうしてでしょう――かっ、と熱くなった気がしました。今になって、人前に立っている緊張が襲ってきたのでしょうか。
落ち着いて、と自分を冷静になだめます。顔が赤くなっていないことを願うばかりです。彼から視線を外して、自己紹介中だということに意識を集中させます。
あらかじめ用意しておいた挨拶の結びの一言を頭に浮かべます。
「ここで、みなさんと一緒に、色々なことを勉強したいと思います。それに、みなさんと友達になりたいです。どうか仲良くして下さい。よろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げました。
クラスから大きな拍手が返ってきます。
顔を上げて見ると、例の男子生徒は興味を失ってしまったのか、読書に戻っていました。
私のこと――今朝のことを、覚えていないのでしょうか……?
なんだかつまらない、です。
「清水さんは、フラッタース王国という国から国費留学――つまり、国の代表としてこの学校に勉強に来ました。勉強っていうのは、授業やテストだけではありません。みんなの好きな遊びとか、食事とか、生活とか、そういう色々なことを知ることです。みなさん、何でも教えてあげて下さい。それから、仲良くしましょうね」
先生の言葉に、生徒達から『はーい』と返事が返ってきます。
「清水さん。分からないことがあれば、まずはクラスの委員長――霧島さんに聞いてくださいね。霧島さん、お願いできるかしら?」
「はーい」
名指しされた女子生徒――霧島さんが元気に手を上げて応えました。
黒髪を頭の後ろで二つに分けて、きっちり三つ編みにしています。赤いフレームの眼鏡をかけていて、いかにもクラスの委員長という雰囲気です。
ええ。
ぱっと見ただけなのに、なんだか頼りになりそう、そんな印象です。
「じゃあ、清水さん、霧島さんの後ろの席に座ってね」
先生の言葉に頷き、私は指示された座席へと向かいます。教室の一番後ろ、中央に新しく追加されたらしい机と椅子があります。
それが、私の席ですね。
「よろしくね、瑠璃ちゃん」
すれ違いざまに、霧島さんがにっこりと笑って声をかけてくれました。
「はい。こちらこそよろしくお願いします、霧島さん」
「あはは、もっと普通で良いよ。呼び方も、朝美で良いよ~」
気軽な調子でそう返されて、自然と笑顔になってしまいます。
それに、そうですね、喋り方も気を付けないといけません。
「ありがとう、朝美ちゃん」
私は、そう応えました。ふふふ、と二人で笑い合います。
そして、私の平和な時間はそこまででした。
クラスメート達から次々と、『食べ物の好き嫌いは?』『趣味は?』『好きなアイドルグループは?』『住んでた国ってどんな感じなの?』『クラブ活動に興味はない?』『好みのタイプは?』などなど質問攻めにされてしまいます。なんとか返事をするだけで精一杯です。
男子も女子も同じように私を取り囲んでいて――楽しそうなクラス、という印象です。クラスに馴染めなかったらどうしましょうと、ちょっとだけ心配していた気持ちが、すっと楽になったような気がしました。
そうです、あの男の子は?
――いません、ね。
自分を取り囲む生徒達の輪の中に、あの男の子が――不本意な初対面を果たした彼が、いないことに気付きました。
なんだか、少しだけがっかりしてしまいます。
そうしているうちに、一時間目の開始を合図するチャイムが響きました。
さあ、いよいよ初めての授業です。
――大丈夫でしょうか……?
「ねえ、朝美ちゃん。誰か、頼りになる人はいないかな?」
なんとか午前中の授業を乗り越え、給食を食べ終えた昼休み。
クラスメート達からの質問攻めもようやく一段落して、生徒達の輪が私の周りからなくなった、そんなタイミングで。
あまり深く考えずに、私は朝美ちゃんに聞いてみることにしました。
「んー?」
前の座席に座る朝美ちゃんが、私の方にぐるりと体を向けてくれます。
「頼りになる人、ねぇ。それはつまり――」
にやり、と朝美ちゃんが意地の悪い笑顔を浮かべました。
「クラス委員長の私では、全然頼りにならないってことだよね?」
「え?」
え? さっきの質問って、そんな意味に取れてしまいますか?
「わ、わ、違います。そうではなくて、ええと、あのですね――」
慌てて言葉を探す私に、朝美ちゃんは笑顔を見せました。冗談だよ、と伝えるような、先程とは違う笑顔です。
「分かってるって。ふっふっふ。あわあわしちゃって可愛いやつめ。これは女子生徒の人気ランキングに大きな変動が起こる予感」
「もう……」
一日の短いやりとりの中で、朝美ちゃんは私をからかって遊ぶと面白いということに気付いたようでした。と言っても、それは私にとっても嫌なものではありません。冗談も言われずに遠巻きにされるよりはずっと良いと思います。
それに、私も朝美ちゃんがこんな性格だということを今日一日で十分なほど把握しているわけで、つまりはお互い様なのです。
「ま、瑠璃ちゃんは外国からの留学生だし、学校の中だけじゃない色々があるよね。もちろん、私にできることなら、遠慮なく私を頼ってくれれば良いんだけど」
朝美ちゃんは両腕を組んで考える仕草をしました。
「担任の金谷先生は頼りになると思うよ。大人だし、話していて楽しいし、ちゃんと私達のこと考えてくれるって感じかな。先生達の中では一番の若手だから色々な雑用を押し付けられて、いつも忙しそうにしているのが玉にキズかな。あんまり遊んでくれないんだよね」
そこで。
タイミング良く、その金谷先生が教室の後ろの扉を開けて顔を出しました。
「あら? えーと、霧島さん。小泉くんはいないの?」
先生は教室を一通り見回して、用事があった生徒を見つけられなかったのでしょう。たまたま目があった朝美ちゃんへと声をかけました。
「うーん、図書室だと思います。いつも昼休みには教室にはいないですよ」
「そうなの? どうしようかしら」
朝美ちゃんの答えに、先生は右手を頬に当てて見せました。いかにも『どうしようかしら』と思案する表情が、不思議と似合っています。
「また、いつもの頼みごとですか?」
「え? んー、まあ、そうなのよ。他の先生には内緒ね。じゃあ、図書室を探してみようかしら。ありがとうね、霧島さん」
朝美ちゃんの質問に、ごまかすような苦笑を返して、先生は教室を後にしました。
何だったのでしょう、今のやりとりは。
「そうそう、頼りになる人ね。今の小泉――小泉玖郎は頼りになるかも」
こちらに、ずい、と顔を寄せて朝美ちゃんは言いました。
突発的に話題が逸れてしまったのに、元の話題を忘れずにすぐ戻すあたり、さすがクラス委員長です。第一印象を裏切らず、しっかり者です。
「小泉、くん?」
「あっちの、窓際の一番後ろに座ってる男子でね」
「ああ。いつも難しそうな分厚い本を読んでる」
つまり、今朝ぶつかった男の子が、まさにその小泉玖郎くんという訳です。
けれど、それは私と彼しか知らないことなので、それ以外の彼についての印象を伝えて確認しました。私の『いつも難しそうな分厚い本を読んでいる』という印象で間違いないと思います。なにしろ、どうして先生が注意しないのか不思議ですが、全ての授業時間中に彼は自分の本を読んでいるのです。
「そうそう。そいつね、天才少年なのよ」