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【瑠璃】
「ごちそうさまでした。カレー、とってもおいしかったです」
小泉家の玄関を出て振り返り、私は改めて琴子さんに頭を下げました。
私は、野菜たっぷりのカレーライスをお腹一杯に頂きました。本当に時間を気にすることを忘れてしまうほど、楽しく過ごしまいました。
そのはずなのに、見上げる空には夕焼けの赤色が残っています。琴子さんが、私の帰りが遅くならないように、料理や食事の時間配分を考えてくれていたのだと思います。
「遠慮しないで、毎日でも食べに来てね。私も、玖郎と二人での夕食よりも張り合いがあって嬉しいから」
「……張り合いがなくて悪かったな。――瑠璃を送ってくる」
「ありがとうございます。玖郎くん」
玖郎くんの申し出を、私は遠慮せずに受け取ることにしました。
それにしても、琴子さんの前にいる時の、玖郎くんの表情や反応が見られて良かったです。
学校の――どこか肩に力が入ってしまっている彼とは違って、なんだか新鮮で、得した気分になってしまいます。
今も、小声ですねた声を出す玖郎くんが、ちょっと可愛く思えてしまいます。
「気を付けて、しっかりね。瑠璃ちゃん――」
琴子さんは、私の背中をバンと叩きました。
それは、痛くないくらいの強さで、なんだか胸の奥が熱くなるような、不思議な激励と信頼を感じるものでした。
あ、これって。もしかしたら、玖郎くんが昨日してくれたのと同じでしょうか?
「おまじないよ。次に会う時まで、瑠璃ちゃんがしっかりやれるように。それから、私が瑠璃ちゃんを信じて送り出すための、おまじない」
「おまじない、ですね。うん、なんだか元気が出てきました」
私がそう言って笑うと、琴子さんも笑顔を返してくれました。
「それじゃあ、おやすみなさい」
挨拶をして、私と玖郎くんは小泉家を後にしました。
元気な琴子さんの勢いの余韻で、私と玖郎くんはしばらく無言でした。それでも並んで歩いているだけで一人じゃないことを実感するような、安心感がありました。
玖郎くんと出会ってまだ三日と経っていないのに、ちょっと不思議です。
それは玖郎くんが、ただのクラスメートには見せないような、色々な面を私に見せてくれたからかもしれません。
転校生の頼みごとでも報酬がなければ断ってしまう、壁の向こうの玖郎くん。
魔法という常識外の出来事に対しても、冷静なままで的確に指示をする玖郎くん。
朝美ちゃんの態度や言葉の向こうに隠れている、ちょっとした気持ちの変化を気付こうともしない玖郎くん。
琴子さんの前で、不器用な面を見え隠れさせる、ちょっと可愛い玖郎くん。
『天才少年』なんて知らない人ではなく、玖郎くんの隣を歩いていることが、実感できるようになっているのかもしれません。
「瑠璃、これを預かっておいてくれ」
そう言って、玖郎くんは手にしていた上着を私に渡してきました。
「〈開門〉で収納してくれ。瑠璃は変身できるが、一緒にいる僕は正体丸出しだ。必要に応じて、そのフードを被って出て行くことにする」
それは、フード付きの黒いウィンドブレーカーでした。あ、違いました。よく見ると、その色は黒に近い藍色でした。
ですが、玖郎くんが着るには絶対にサイズが大きいと思います。どこから見ても、子ども用ではなく、大人の男性用のサイズです。
それに――。
「分かりました。……ですが、このサイズは玖郎くんには大きくありませんか? それに、なんだかとっても重いですよ?」
私の言葉に、玖郎くんは肩をすくめて見せた。
「もともとは僕の父さんのものだ。母さんに断って借りてきた。フードの着いた上着は、僕の手持ちの中にはないからな。防水素材だし丁度良いだろう。それから、不自然に重たいのは、もしもの時の備えだ。ペットボトルに水を満タンに入れている」
玖郎くんは、そう言いました。
あ、そうですね。私が説明を忘れていました。
「ごめんなさい、玖郎くん。水の〈開門〉の中には、水はしまえないんです。取り出した時にはペットボトルは空になっていると思います」
「そうなのか。〈開門〉で〈生成〉の代用ができるかと思ったが、そんなに甘くないか。了解した。ただ、空のペットボトルもあれば便利だろう。構わないからそのまましまってくれ」
ああ。
確かにそうですね。
空のペットボトル、便利かもしれません。
「では、預かっておきますね」
私は人目がないかを確認した後、こっそりと〈開門〉の魔法を使います。玖郎くんの重たい上着をその中にしまっておきます。
「今、話に出ましたが、玖郎くんのお父さんはお家にいないのですか? あ。……聞いても良かったですか?」
私は、そう聞いてみました。
琴子さんが『玖郎と二人の夕食より張り合いがある』と言うのを聞いた時、お父さんはいないのかな、と疑問だったのです。
「ああ。父さんは、今はドイツにいる。企業の研究者なんだ。イマイチ何をしているのか教えてくれないんだが、仕事とか研究の関係で、海外に長期滞在してることが多い」
「海外で研究のお仕事ですか。すごいですね」
私は素直にびっくりしました。
あ、でも考えてみると、玖郎くんの将来のイメージはそんな感じかもしれません。何かの研究をしていて、海外を飛び回っている――ええ、そんな感じです。
と、その時。
「おーい、小泉くーん!」
通り過ぎようとしていた公園の中から、玖郎くんを呼ぶ声が聞こえました。
「あ、やっぱり小泉くんだ。やっほー」
足を止める玖郎くんに、その声がそんなことを言いました。もしかして、玖郎くんだという確信もなく大声で名前を呼んだのでしょうか……?
その声の主は、年上の女の人――高校生くらいのお姉さんでした。
ちょっと意外な場所から、笑顔で玖郎くんに手を振っています。というのも、そのお姉さんは、公園の広場に駐車してあるクレープ屋さんの車の中にいるのです。
「香苗さんか。そうだな、瑠璃、ちょっと寄り道するぞ」
玖郎くんはそう言うと、公園の中へ入って行きます。もちろん私も後を着いて行きます。
ピンクに塗られたクレープ屋さんの車まで歩いて行くと、クレープ生地とクリームの甘い香りがします。
うーん、美味しそうな良い香りです……。
お姉さんは、にこにこと笑顔のままで手を振り続けています。元気一杯です。
背中に届きそうな綺麗な黒髪を後ろでまとめて、クレープ屋さんのピンクの帽子をかぶっています。すらっと背が高いのに、小学生とは見間違いようもない女性らしい体型で、とっても綺麗な人です。
そんな本人の印象と、クレープ屋さんの可愛いピンクの制服がちょっと似合っていない気もしますが。
「やっほー、小泉くん。小学生がデートするには遅い時間じゃないかな?」
で、デートって。
「反論できないですね。確かにこんな時間ですが、彼女と一緒にいるのは、母さんも承知しています。それで大目に見て下さい」
「わ、親公認の関係かぁ。最近の小学生は進んでるね」
玖郎くんは、お姉さんの軽口に肩をすくめて見せましたた。
デートとか親公認とか、私ならドキドキしてしまうようなことを言われて、それでも玖郎くんは相変わらずの涼しい表情のままです。さすがです。
「妙な言い回しをしないでください。香苗さん、紹介しますね。彼女はクラスメートの清水・セルリアン・瑠璃です。瑠璃、この人は」
「天童香苗だよ。よろしくね、瑠璃ちゃん」
お姉さん――香苗さんが、玖郎くんの紹介を受け取って名乗りました。にこにこの笑顔はそのままです。
私も頭を下げます。
「清水・セルリアン・瑠璃です。こちらこそ、よろしくお願いします」
「瑠璃は、留学生なんです。僕が学校生活をはじめ、色々と助けることになりました」
玖郎くんは、そう簡単に状況を説明しました。
「なるほど、それでセルリアンかぁ。うん、日本ではミドルネームって珍しいけど、可愛くて涼しげで良いと思うな」
「あ、ありがとうございます」
「香苗さんは、近所に住んでる高校生で、やたらと色々な場所でアルバイトをしているんだ。――それで、僕に何か用事でしたか、香苗さん」
玖郎くんの言葉の後半は、香苗さんに向けられたものです。
ええ、わざわざ玖郎くんの名前を呼んでいたのですから、何か用事があるのでしょう。
「うーん、相変わらず連れないなぁ。お姉さんは、小泉くんのことが大好きなんだよ。顔を見かけたら、声をかけたいなぁ、お話したいなぁと思っちゃっても良いでしょ。乙女心だよ」
え。ええ!?
驚く私を余所に、やはり玖郎くんは涼しい顔のまま言い返しました。
「適当なこと言わないでください。香苗さん、僕かどうか確信がないうちに声をかけていたでしょう。つまり、人違いであっても、その人の気が引ければ目的達成になる内容のはずです」
玖郎くんも気づいてたんですね。
「あはは、まあそうなんだけどね。実は、イチゴが余っちゃってるんだよ」
というのが、本当の理由みたいです。
香苗さんは、器用にも笑顔のままで眉を下げ、困った表情をしてみせました。クレープ屋さんのカウンターから金属製のバットを見せてくれます。確かに、カットされたイチゴが結構残っているみたいです。
「長年のバイト生活で手に入れたカンによると、きっと売れ残っちゃうんだよ。新鮮で、甘くてとってもおいしいイチゴなのに、このままじゃ捨てなきゃいけないんだよ。お姉さんは悲しいよ」
「なるほど。つまり――」
玖郎くんの言葉に、香苗さんが言葉をかぶせます。
「イチゴのクレープはいかがですか? 美味しさは、こっそりつまみ食いした私が保障するよ。それに、値段もちょっとオマケするから」
アルバイト用の、ちょっと高くて可愛い声を作って、香苗さんはそう言いました。
香苗さん、こっそりつまみ食いしたんですね。
そして玖郎くんはというと、香苗さんの言葉を聞いて、ふむ、と頷きました。
「そうですね。では、イチゴのクレープを二つ買います。悔いが残らないように、ぎっしりイチゴを詰め込んで下さい。瑠璃もまだ食べられるだろ?」
「はい。私も香苗さんのクレープ食べたいです」
「わ、ありがとう! じゃなかった、ありがとうごさいます! すぐにご用意いたしますね」
にっこりと笑う香苗さんは三割増しで美人に見えました。綺麗なお姉さん、という感じです。
「そのかわり、と言ってはなんですが」
鼻歌が聞こえてくるほどご機嫌な香苗さんが、丸くクレープ生地を焼き始めたあたりで、玖郎君はお財布から小銭を出しながらそう言いいました。
でも、ちょっと待って下さい。
「玖郎君、私、自分の分くらい自分で――」
払います、と言いかけた私の言葉をさえぎって、玖郎くんは言います。
「香苗さん、瑠璃はクレープも黙っておごらせてくれないような、世間知らずの留学生です」
「んー、私は、おごられて当然と思っているより良いと思うけどなぁ」
作業の手を止めずに、香苗さんが応えます。
「もし彼女が困っているのを見かけたら、僕に知らせて欲しいんです」
つまり、玖郎くんは、私のためにクレープを買うことにしたらしいのです。食べさせるためではなく、このお願いを香苗さんに切り出すために。
「なるほど。素直にクレープ買ってくれるから、何かあるかなぁと思ったけど、そういうことかぁ。瑠璃ちゃんを助けるのは全然構わないし、むしろ頼まれなくても助けるけど、そういう自分の彼女を監視するようなのは、お姉さん感心しないなぁ」
ふむ、と玖郎君は頷きました。
その通りです。琴子さんにお願いした時といい、せめて事前に私本人に確認して欲しいです。
玖郎くんは、年上のお姉さんのアドバイスで、自分の考えを改めたのでしょうか。
「わかりました」
玖郎くんが、改めて口を開きます。
「近々、携帯電話を手に入れる予定です。香苗さん、以前、僕の連絡先を知りたがっていましたよね。僕の携帯番号を教えるという条件でどうでしょう」
どうやら反省じゃなくて、別の条件を考えてただけみたいです。
「わ、わ、ほんと? やった! そういうことなら、お姉さんにどんと任せてよ。瑠璃ちゃんが困ってたら携帯に電話するし、瑠璃ちゃんが楽しそうでも携帯に電話するし、瑠璃ちゃんが他の男の子と歩いてても電話する! むしろ瑠璃ちゃん関係なくても電話するよ。玖郎くんの携番げっと!」
香苗さん、すごい勢いでテンションが上がっています。玖郎くんは年上にモテるのでしょうか、なんだかちょっとだけ心配です。
玖郎くんがモテモテで心配なのか、小学生の携帯番号で小躍りしてる香苗さんが心配なのか、それは秘密にしておきましょう。
「はい、イチゴクレープ二つお待たせいたしました!」
香苗さんの声は、さっき会ったばかりの私にも分かるくらい嬉しそうでした。イチゴが売れ残る心配がなくなったから、ということ以外にとっても良いことがあったのでしょう。
……やっぱり、ちょっと心配になっちゃいます。




