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囁く声  作者: 久保田千景
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タオル地のロングパーカー姿で裸足の私は朦朧とした意識と震えるほどの寒さで座り込んでいる。脇腹を抑えている掌に温かい液体が纏わり付いている。見るとそれはどくどくと流れ出る真っ赤な血だった。


あの日の、刺された夜だ――こんな状況でも頭の中はまるで他人事のように冷静だ。

この後、彼が声を掛けてくれたはず。


目の前には、まさにあの時と同じ、仕立ての良いスーツを着た彼が現れた。

ほっとした。

けれど彼は一瞥しただけで何も言わずに踵を返した。


どうして? 


そのうち視界が暗く狭くなっていく。そして彼の姿は小さく遠ざかっていく。


待って――行かないで――



「大丈夫だよ」

少しだけ強ばっている優しい声と頬に触れる指と自分以外の気配に、ゆるゆると目を開けた。ぼやけた視界に、私を覗き込む誰の顔がある。

てっきり彼が帰ってきたとばかり思っていた。

「和樹さん?」

「あ、起きた?」

聞き慣れない男の軽い調子の声に、背筋がぞっとして――あの男を思い出した。

刺された脇腹が熱を帯びて痛み出す。

「真琴さ――」「いやあぁああああ!」

恐怖で目を固く瞑る。覗き込んでいた男から逃れようと手足を滅茶苦茶に振り回した。

「うわっ! ち、ちょっと待って! 何もしてないし、何もしないから落ち着いて!」

男の慌てた声が耳に入るけれど身体は勝手に動く。

「いや! 殺さないで!」

ここで大人しくしたらまた刺されてしまう! 殺される!

あの時の恐怖と痛みがまざまざと蘇る。

「真琴さんに手ぇ出したら、俺が和樹さんに殺されるから!」

聞き覚えのある名前に身体の力がふっと抜けた。

恐る恐る目を開けると、そこには見たことのある顔が両手を挙げて立っていた。

明るい茶髪に茶色の瞳、色白で目鼻立ちのはっきりしたやけに整っているこの顔は確か――。

「い、五十嵐いからしくん?」

「はぁ――助かった」

隣に住む狼男――五十嵐いからし琉生るいくんは心底ほっとしたように肩を落とした。

彼とはここに住むことになった時、ご近所さんへの挨拶に行って初めて顔を合わせた。

全国でも名の知れた有名進学校の2年生に、ハーフで美形の狼男がいるという衝撃は今でも忘れられない。

「ちなみに、読み方は『いがらし』じゃなくて『いからし』なんで」と念を押されたことでも記憶に残っている。


五十嵐くん曰く、ベランダから家に帰ろうとして間違って隣、つまりここのベランダに着地してしまい慌てて戻ろうとしたところ、部屋の中から「待って――行かないで」とすすり泣きが聞こえ、気になって開いていた窓からつい部屋の中に入った――らしい。


「ごめんなさい!」

私はベッドの上で土下座する勢いで謝った。

「本当にごめんね――怪我しなかった?」

「いや、勝手に入った俺が悪いから」

五十嵐くんはばつが悪そうに視線を外して頷いた。

「泣いていたからちょっとテンパっちゃってさ――和樹さんと何かあったのかなって」

軽い調子の中に心配の声音を混ぜた五十嵐くんに何も言うことが出来ず俯いた。

静かな静寂が部屋を包む。

「真琴さんって不死人だよね?」

沈黙が気まずかったのか、突然切り出された脈絡のない話に顔が上がる。

「そうらしい、けど――」


幸いなことに首がもげたり内臓が飛び出たりしたことはまだないので、自覚はないけど。


「そっか――じゃ大切にされているんだね」

思いがけない言葉に、思わず眉間に皺が寄る。その表情だけで頭の良い高校生は察したようだ。

「えっ――知らないの?」

彼の大きな目がいっそう見開かれる。

「そっか――それでか」

五十嵐くんはにっと笑うと私の首元に顔を近づいてきた。

「ち、ちょっと――」

まだお風呂に入ってないから、そんなに近づかないで!


慌てて引き下がる。

「和樹さんの匂いがする」

「は、え、えぇ? 何?」

思わず自分の身体を嗅ぐ。当然、自分の匂いは分からない。

「普通は分からないよ」

俺、鼻良いから――と狼男は少し得意げに笑った。

「匂いって――」


私も和樹さんも、まだ加齢臭が出るような年齢じゃないと思うけど、不安になる。


「自分のですよっていうアピールみたいなもの、かな」

「それって『これは俺の餌だから』っていうこと?」

「餌? そんな訳ないじゃん!」

首を傾げて呟いた私に、五十嵐くんは呆れた表情を浮かべた。

「血を吸うためだけにわざわざ不死人にする吸血鬼なんていないって」

「え? そうなの」

「吸血鬼って毎日血を吸わなくてもいいんだってさ。管理人さんが言ってた」


ほぼ毎日吸われている私にとっては寝耳に水だった。

よほど私の血が美味しいのか、それとも仕事のストレスでつい吸っちゃうとか?


「不死人にするには吸血鬼の血を分ける必要があって、それって滅多にしないことだよ」


どういう事だろう?


全く理解できていない私を見て、五十嵐くんはひどく残念そうな表情になった。

「えーと、だからぁ――」

「ここはいつからお前の部屋になった?」

不機嫌な声が部屋に響く。

「げっ!」

五十嵐くんが青ざめて振り返る。その視線の先、リビングの入り口には、いつの間にか部屋の主が立っていた。

「お――お邪魔してマス」

和樹さんはネクタイを緩めながらこちらへ歩いてくる。途中、開きっぱなしのベランダをちらりと見た。

「相変わらずベランダを玄関代わりにしているみたいだな?」

「あ――い、いやぁ」

口ごもりながらも五十嵐くんは私からゆっくり離れていった。今、彼に尻尾が生えていたら、完全に足の間に挟まれているだろう。

離れていった五十嵐くんの代わりに和樹さんが近づいてきた。和樹さんはベッドの上で座る私と目が合うと表情を一変させて、今逃げたばかりの五十嵐くんに向き直った。

「お前――」

まるで地の底から響いてくるような低い声だ。私に背中を向けているから彼の表情は窺えない。けれど不機嫌になっていることはその雰囲気からすぐに分かった。

「ち、違うって! 何もしてないから!」

慌てふためく五十嵐くんは助けを求めるように視線を寄越してきた。それに気が付いた私は背中を向けている和樹さんのスーツの裾を軽く引っ張った。

「五十嵐くんはただ――」

和樹さんは振り返った。深紅に染まる瞳はいつもと同じだけれど、でもいつもとは違う、初めて見るその表情に驚き、一瞬声が詰まる。

本当に怒っている。

「私が夢見て泣いていたみたいで――心配してくれただけなの」


酔っ払いすぎたかな、と笑って誤魔化す私をしばらく見つめ、ようやく和樹さんは瞳の色を戻した。

そして――いつもの彼に戻り――深い溜息を吐いた。


「あ、じゃあ俺帰るわ!」

五十嵐くんは和樹さんの一瞬の隙を突いてベランダから出ようとして、「玄関から帰れ!」とさらに怒られていた。


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