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「今日は遅くなる」
朝、眉間に深い縦皺をつくったまま和樹さんは玄関扉に手を掛けた。
「デート?」
何気なく呟いた言葉に彼はぴたりと動きを止めて振り返った。一瞬の戸惑いの後、その顔を顰めていく。
あれ? 何か間違った、かな?
「あぁゴメン、ゴメン。知らなかったことにするから気にしないで」
それでも彼はますます機嫌をこじらせていく。
仕方ない。ここまで言っても通じないのなら、はっきり言った方がいい。
「朝帰りしようが泊まりになろうが私のことは気にしないでってこと」
和樹さんは眉間の皺をいっそう深くした。綺麗な顔には青筋が浮かび、瞳が赤くなった。感情が昂ぶっている証拠だ。
「あ! 目、赤くなってる!」
私は慌てて彼の腕を掴んだ。
「分かってる! 誰のせいだ!」
「誰って――誰?」
無言で見つめ合う私と彼。玄関が微妙な空気に包まれる。
突き刺すような視線に、原因は私らしい、と――何となく気付く。
「え、私? 何で?」
思わず心の声が口から漏れ出る。
彼は盛大な舌打ちをして溜息を吐いた。そしてうんざりした表情で家を出ていった。
デートだってばれた上にはっきり指摘されたことが恥ずかしかった、のかな?
思春期真っ盛りの中学生じゃあるまいし――ねぇ?
結局何であんなに怒られたのかよく分からず、私は首を傾げながらリビングに戻った。
この世には人間じゃない『ヒト』――吸血鬼や狼男とか呼ばれる、いわゆる人外――が普通に生活している。
私も見た目には全く変わらない。それなのに不死人という人間とは違う、死なない存在になってしまった。
『ヒト』の存在を知っているのは一部のお偉いさんだけや時の権力者だけで、それらが関わった事件や事故は『粛正』といった形で事件そのものやその『ヒト』も消されていく。
そして、何もなかったことにされる。
あの事件の後から、私は行方不明になっている。
天涯孤独だった私がいなくなったところでたいしたことはない。でも顔見知りや警察に見つかってしまえば、私はともかく関わった人まで『粛正』されてしまうかも知れない。
だから、私の住んでいた家から遠く離れたこの場所ででも、人通りの多い日中は極力外へ出ないことにした。
「不死人は年を取らない。5、6年もすれば最悪見つかっても『良く似た他人』として誤魔化せる」
行方不明当時の姿をした人間などありえないからな――と和樹さんはそう言った。
「5,6年かぁ――長いような短いような」
溜息と共に思わず言葉が漏れる。
「それまでは不自由だが、我慢できるだろ」
彼は私に背中を向けたまま、ぶっきらぼうに、でもどこか申し訳なさそうに呟いた。
あの時、彼がどんな顔をしていたかは今も分からない。
掃除洗濯を終えると、何もする事がなくなる。だから好きな読書で時間を潰す。
適当にお昼を食べてまた本を読んで、気が付けば部屋が茜色に染まっていた。
不死人はただ死なないだけで後は普通の人間と同じだった。だからお腹も空く。
餓死しないからダイエットできるかも――そう思って昼ご飯を食べないで過ごした事があった。
でもその夜、彼に血を吸われたときにばれてしまった。
どうやら血の味がいつもと違ったみたいで、彼は言わなかったけれど不味かったのかもしれない。
自分一人だけの食事は支度とか洗い物が面倒だから適当に済ましたい。でも目の前の不機嫌な顔を見たらそんな事はとても言えず、適当に頷いたら「ちゃんと食べろ。すぐに分かるからな」と脅された。
「意外にグルメなんですね」と褒めたつもりだったのに「そうじゃない」と何故か怒られ、あの夜は散々な目にあった。
もうこりごりなので、それ以来、面倒でも何か食べるようにしている。
でも今日はいつも以上に億劫だった。
お腹は空くけど、食べたくない。だから簡単に切っただけの野菜サラダを口に放り込んだ。
彼が取引先の相手から貰ったというワインが眠っていた事を不意に思いだした。
俺は飲まないから好きにしろ――相変わらずぶっきらぼうにそう言っていた。
吸血鬼は人間と同じ食事を取ることもできるらしいけど、美味しくないらしい。
だから外で誰かと食事をしなければならない時は口に入れてただ飲み込んでいるだけだ、と言っていた。
美味しいものがたくさんあるのに、それを聞いて少し可哀相な気がした。
テレビを見ながら高級だと言われているワインの栓を開けた。
一口飲んでみたけれど飲み慣れていないせいか、正直よく分からない。
流し見をしていたドラマが終わり、何気なく時計を見ると時刻は10時になろうとしている。
舐めるようにして味を確かめていたワインのボトルは、いつの間にかほとんど空になっている。
和樹さんは今頃、彼女と味のしない食事でもしているのだろうか。
もやもやとした気持ち悪さが沸き上がってきた。
サラダしか胃に入っていなかったから酔ったかも――そう思ってベランダの窓を少し開けた。ひんやりした夜風が身体を撫でるけれど、不快感は消えてくれなかった。
広くて静かな部屋に、テレビのバラエティ番組の楽しそうな笑い声が虚しく響く。
「寂しいな」
ほろ酔いの口から自分でも意外だった本音が漏れた。
そっか――寂しいのか、私。
母が死んで以来、休日は一人で静かに過ごすのが当たり前だったのに、今では一人になると寂しいと思ってしまう。
酔っているせいか気分のせいか、ふらふらとした足取りでベッドに腰掛けた。軽くて柔らかい羽毛に、重たくてだるい身体が沈み込む。重力に引っ張られるようにそのまま横になった。
ぶっきらぼうで冷たくあしらわることも多いけど、でも無視されたり暴力を振るわれたりしたことは一度もない。
話しかければ、それがくだらない内容でもそれなりに応えてくれる。
よく怒るけどいつまでも引きずらないし、呆れながらもいつのまにか許してくれる。
素直じゃないけど言葉の端々やその眼差しから気遣いが窺える。
だから、つい勘違いをしてしまいそうになる。
「一緒に来るか?」そう聞かれて頷いたのは私だ。
私は彼の「食事」であり「同居人」でしかない。
夜、肌を合わせるのも彼にしてみれば食事とセットなだけで、そこに恋人同士のような感情はないだろう。だって一度でも愛を囁かれたことはないのだから。
一時の感情に流されただけでも良いから、その言葉を彼の口から聞きたいと密かに思っている自分がいる。
気が付けば涙が頬を伝っている。
誰もいない部屋なのに、誰にも見られていないのに、慌ててその雫を拭った。
「すっかり日陰者だ」
日の光の下で立つことも世の中の人と交わることも出来ず、恋人でもない男の帰りを部屋で一人待つ。
昭和の演歌か! と思わず心の中で突っ込んだ。
人間じゃなくなってしまった以上、前半は仕方ないとして、後半は何とかできるはずだ。
こういう時、恋愛慣れした人はどうするのだろう。大人の関係だって割り切るのかな?
これ以上好きにならないようにするにはどうしたら良いのだろう。どこかで線を引けばいいのかな?
それができていたら――あんな男に付きまとわれて刺される事もなかったのかな。
酔った頭で考えても気持ちはあちこちに飛んでしまい何もまとまらない。
そのうち瞼が重くなり、ベッドに沈む身体と同化したように意識は途切れた。