~円城家の朝2~
リビングに入ると、台所にはフライパンを片手に持った、エプロン姿の女性が仏頂面で立っていた。
「やっと起きたか。おはよう雁耶…寝癖がひどいぞ?」
紹介しよう、この人はオレの飼い主…じゃなくて、同居人だ。
名前は如月碧。
オレより五つ年上で、ずいぶん前からこの家で一緒に暮らしている。
長い青みがかった黒髪、端正な顔つきにプロポーション抜群のスタイル。チャーミングな左目の泣きぼくろ。
…若干目つきが鋭いのを除けば、女性の中でされる間違いなく美人に分類される容姿。
加えて姉御肌でクール。可愛いというよりはカッコイイという表現が似合う大人な女性だ。
普段から何かと家事やオレの世話をしてくれており、一人っ子のオレにとっては本当のお姉ちゃんみたいな存在である。
「おはよう、アオ姉」
アオ姉への挨拶をそこそこに済ますと、オレはリビングを見渡す。
あれ?
部屋の隅々まで目を当てるが、オレの探している人物は見当たらない。
「なぁアオ姉……皐月は?」
仕方ないのでアオ姉に尋ねてみる。
アオ姉はこちらを見もせず、フライパンに油を敷きながら、口答した。
「皐月ちゃんならまだ来てないぞ?」
「は…来てない?」
おかしいな? ついさっき、「皐月ちゃんが来たぞー」って耳にしたはずなんだけど。
「あぁ、さっき言ったの嘘だから」
「嘘?」
「いや、皐月ちゃんの名前を出したら、流石のお前も起きると思ってな」
微笑をこぼしながら、料理を始めるアオ姉。
……理解した。
どうやらオレはまんまと嵌められたらしい。
わが姉ながらやることが汚い…汚いなぁ、おい。
「騙したな…アオ姉ェ…」
「冗談で言ったつもりだったんだが、こんなに効果があるとは思わなかったな。……皐月ちゃんのことがよっぽど怖いんだな、お前」
悪びれた様子もなく、淡々と喋るアオ姉。
オレはたまらずこめかみに手を当てた。
「なんでもっと普通に起こしてくれなかったんだよ…」
「最初に普通に声はかけたぞ?」
「………」
はい…そうでした。
ちゃんと聞きました。
無視して寝てましたね、オレ。
「ほら、いいから皐月ちゃんが来る前にさっさと支度しな。また殴られるぞ?」
「う…」
“皐月ちゃんが来る前に”。
“また殴られる”。
その言葉を聞いて、オレは即座に着替えることにした。
重たい身体を引きずって、洗面台で顔を洗い、寝癖を直す。
それから一度自分の部屋へ戻り、寝間着の和服から学生服に着替える。
シャツの襟など身だしなみを整えていると、ガラガラっと玄関の戸が開かれる音がした。
「おはようございまーす!」
それと同時に快活な挨拶が響く。
「来たか……」
短くそう呟いて、ゴクリと生唾を飲みこむ。
脱いだ服を畳んで、部屋を後にする。
玄関まで行くと、オレと同じ学校のセーラー服を着た少女が立っていた。
ハーフアップされた艶やかな長い黒髪。
つぶらな瞳、小さな口、整った顔立ちに透き通った白肌。
年の割に大人びた雰囲気を帯びており、その風貌は清楚で華奢。
一言で言い表すなら、可憐――その言葉が少女には一番似合っていた。
だが、オレは知っている。
それはあくまで見た目だけであることを。
きっと神様辺りが何かの手違いでそう創ってしまったのだろう。
もしホントに神様とやらがいるのなら、オレはこう言ってやりたい。
ちゃんと仕事しろよ神様、ってな。
近づいていくと、こちらに気づいたのか、振り返った少女と目が合う。
その途端、少女は幽霊でも見たような顔をして驚いた。
「えっ…雁耶?」
「よう、皐月」
「……………」
軽く右手を上げて、挨拶するが、返事がない。
少女はポカンと口を開いたまま固まっていた。
心ここにあらずという感じだ。
どうかしたのかと尋ねようとすると、少女――皐月は、いきなりオレの右頬をつねった。
「痛えっ!」
容赦なく、人差し指と親指で思いっきり引っ張りやがった。
皐月はオレの頬から手を離すと、何かを納得した風にフム、と一人頷く。
「痛い、ということは、これは夢じゃないのね」
「お前、何しやがる?」
「いや、あんたがこんな時間に起きてるもんだから夢かと思って」
どうやら…今、目にしているものが現実なのかを確かめるために頬をつねったらしい。
オレの、だが。
「そういうのは自分の頬でやるもんだろ? オレを使うな! オレを!」
「嫌よ、痛いし」
自分が嫌なことを人にするなんて、こいつ…どういう神経していやがるんだ! 理不尽すぎる。
そんなオレの内心などお構いなしに、皐月は何やらブツブツと呟いていた。
「ありえない…まだ明るいのにあんたが起きているなんて…そんな…」
「オレは吸血鬼かよ?」
「いや、まだ夜起きている分、そっちの方がマシね。あんたの場合、朝も夜も寝ているからもっとタチが悪い」
ジッと半目で睨みつけてくる皐月。
怖い……こいつは見た目がなまじ美人な分、睨む顔が超怖いのだ。
「な、何言ってんだ? オレはいつも予鈴ギリギリに間に合うよう、心掛けているぞ?」
「それは夢の中の話? 私が今まで知る限りじゃ、そんなこと一度たりもなかったけど?」
「そ、それは…」
一応言っておくが、オレは確かに予鈴前に間に合うように、起きてはいる。
ただ…早く起きても、つい二度寝してしまうので、そこで欠落的なタイムラグが発生してしまうのだ。
だから全く起きないわけではないよ?
「ホンット殴るか蹴るなりしないと起きないもんね、あんたは」
皐月の口から、“殴る”・“蹴る”、朝から耳にするには物騒なワードが出た瞬間――鳥肌が全身に立った。
思い出される皐月の暴力の数々。
――いや、止めよう。わざわざ自分からトラウマを思い出すこともない。
オレはそれ以上考えるのを止めた。
「うるせえな、オレだってたまには早く起きることくらいあるんだよ」
「そうね、そういう日が年に二回くらいはあってもいいのかもね」
こめかみを押さえながら深いため息をこぼす皐月。
信用ねぇな…オレ。
皐月の態度は少々無礼だが、これは日頃のオレに否があるので何も言えない。
さて、この黒髪美人の名前は、篠宮皐月。
小学校からの幼馴染で、腐れ縁の付き合いだ。
住んでいるところが離れていながらも、いつも寝坊気味のオレを文字通り叩き起こしに来てくれている。
オレにとってはありがたいようで多少厄介な存在である。
分かりやすくすると3:7の割合で感謝:迷惑といった感じだ。
なぜその様に思うのかというのも、この幼馴染、とにかく手が――拳が早い。
一見、華奢で落ち着いたルックスに見える皐月だが、その内面は見た目からは想像できないほど非常に短期で凶暴。
一度火が着けば、すぐに拳が飛んでくる。
そして何より一番大事なのは――
痛い。
すごく痛い。
かなり痛い。
涙が出るほど痛い。
今まで何度殴られたことか…。
多分、星の数ほど殴られてきたのは間違いない。
兎にも角にも、殴られ蹴られ…そんな習慣が何年も続いたのだ。
今ではオレは、皐月の名前を聞いただけで反応してしまう様になってしまった。
意識的にとかそういうレベルではなく、身体が勝手に動く反射的なものだ。
最近……きっと調教された猛獣は今のオレと同じ気持ちなんだろうなぁと、寝る前に考える。
さて、それでは飼い主様(アオ姉)から餌を貰いに行きますか。