僕と猫②
手懐けられる日がいつかは来るだろう。そう思い続けて2週間。状況は全く変わらず、僕は限界に達してしまった。
「もう猫の面倒は見きれない。」
そう言って僕は玄関のドアを全開にした。午前3時ごろ、刺すような冷たい冷気が僕を包んだ。
「商品が逃げてもいいのかよ。」
「好きにしろ。」
「ならそうする。」
猫は僕の足元をするりと抜けて走って出て行った。やっと解放された。片付けたら散らかされの繰り返しが終わった。部屋は一週間ほど前から片付けるのを止めていたので尋常でない程度の散らかり様だった。
だってそうでしょ。何回片付けたってまた散らかされるなら、もう片付けなければいい。僕は床一面に散らかった新聞紙のうえに仰向けに大の字になって呟いた。
「せいせいした──。」
「おはようございます。」
「おう、おはよう。」
「おはよう犬上。最近クマとやつれ激しいけど大丈夫か?」
寅さんは心配して毎朝訊いてくれるけど正直大丈夫じゃない。猫を引き取ってから多くて4時間睡眠、少なくてゼロだった。食欲も沸かなくなり、日に日にやつれていた。
「はい、もう大丈夫です。」
「もう?って?」
「猫を自由にしてやりました。」
「えっ・・・?!」
「だから、逃がしてやりました。」
「ふざけてんの?それともなんなん!」
「いたって真面目ですよ。猫が言ったんです。自由になりたいんだって。」これは事実だ。もともと自由になりたかった猫を無理やり留まらせておく必要なんてなかった。だから逃がしてあげたんだ。
「それは犬上の解釈やろ。毎日暴れられるんが困るから都合ええように解釈したんちゃうんか!」
寅さんは、僕の見たことない剣幕で怒鳴った。でも僕も負けていなかった。これまでの大変だった思いが僕を怒鳴らせた。
「違いますよ!猫は自由になりたいから暴れてたんです!」
「ほんならくろすけはなんで自由になりたかったんや。」
「知りませんよそんなの!」
そんなことまで言ってなかった。ただ自由になりたい、それだけじゃないのか。
「まぁ犬上に限って虐待とかは無いやろうけど、やっぱりなんかあるから自由が欲しなるんやろ。」
僕が言い返そうとした時、院長が割って入った。
「まぁまぁ、2人とも落ち着け。犬上、お前は今日もういい。1日やるからくろすけを探してこい。」
「えっ!」
「お前は動物と喋れるかもしれない。でも『会話』は出来てない。俺たちは動物とは喋れない。だけど『会話』は出来るんだ。お前はせっかくいい能力を持っているんだから、『会話』しないともったいないぞ。」
「そんなこと言われても・・・。」
「分からないか。まぁ、喋れるからこそ難しいのかもしれんな。まずはくろすけに興味を持つんだな。」
「興味・・・。」
僕は猫に深い興味を持った事は無かった。今思えばただ押しつけられたから一緒に住んでいただけ、という認識だった。一緒に居るのにそんな認識のされ方、僕が猫なら嫌だ。そう考えると、猫に可哀想な思いをさせたと思う。今更申し訳なさと大変なことをしてしまったという感覚にみまわれ、気が付いたら涙を流していた。
「俺、前に言うたよな。くろすけを死なすなって。そん時犬上は、はいって言うた。せやからそれ、嘘にせんといてや。」
寅さんからはさっきまでの剣幕は一切消えていつもの明るい、笑顔の寅さんに戻っていた。僕の頭をぐしゃぐしゃっとして、休憩室へ入っていった。僕は涙を拭い、大きく1回深呼吸して言った。
「院長、出来るかわかりませんが『会話』してきます。」
「おう、行ってこい。」
気合い十分で動物病院を出たはいいけど、全く当てがない。いかに猫に興味を持っていなかったかということを痛感させられた。もっと『会話』出来ていればこんな事にはならなかったと後悔しながらとりあえず家に戻る事にした。
当然、戻ってはいなかった。猫のことを思い出していると、確か電車をよく見ていたような事を言っていた覚えがある。僕は駅まで出て線路の沿線を探してみたが見つからない。こうなったらいざという時の手段。
「あのー…ちょっといいですか?」
「え、ひょっとして私らに言ってるーぅ?」
「はい。このあたりで、黒い野良ネコっていますかね?」
「知らなーぃ。まず私らネコ嫌いだしーぃ。」
数に頼ろうとして鳩に聞き込んでみたが成果なし。いったい何処へ行ったんだろう?そろそろ日も暮れてきた。時計を見ると5時過ぎ。もう半日以上探していることになる。僕は家から少し離れた河川敷に来ていたが、ここも外れだった。
お腹が空いてきたので、一旦家へ戻ることにした。さっさと食べて再び捜索を開始するつもりでカップ麺にお湯を注ぎ、テレビを点けるとニュース番組がやっている。その直後、速報が入ってきた。
『ここで速報です。先ほど、埼玉県で大きな火災が発生した模様です。中継が繋がっています。井田さん。』
『はい、えーこちらは20分ほど前に消防隊が駆けつけましたがまだ火は消えておりません。』
驚いた。ここからほど近い場所だ。まさか巻き込まれてはいないだろうが、心配になって見に行くことにした。
燃えていたのは密集して建ち並んだ木造の古い家々だった。消防隊は必死で消火活動中だったが、空気が乾燥しているせいか火の回りが早い。次々と周囲の家へ燃え移る。僕が呆気にとられていると野次馬の中で隣にいた小学生たちがいった。
「あっ!ネコ屋敷が・・・。」
「燃えちゃう。」
その言葉が気になって僕は訊ねた。
「ネコ屋敷って?」
「ネコの鳴き声が聞こえるんだよ。」
「でも姿は見たことないんだ。」「人も見たこと無いから、ネコだけで住んでるってゆう噂もあるよ。」
「それほんと?!」
「ぅん。」
小学生は僕に少し不審感を抱きながら答えてくれた。ひとつの希望が見えた。しかし、火は今にもネコ屋敷に燃え移りそうな勢いだった。僕が躊躇していると、ついに燃え移ってしまった。小学生たちは悲鳴を上げ、泣いていた。僕も肩を落として俯き、そのまま泣きたかった。しかし、ネコ屋敷が燃え始めて1分程経つと野次馬の1人が叫んだ。
「おぃ、なんだあれは!?」
その人が指さす方はネコ屋敷だった。そしてそこには見たことのない風景が出来ていた。なんと、数え切れないほどのネコが崩れた戸口からわんさか出てきた。野次馬が一気に盛り上がった。ケータイで写メを撮ろうとする者、ネコを応援する者。報道陣までそこにカメラを向けた。ネコたちはこっちに向かって走って来た。野次馬の足下を通り抜けていく。僕はその中に猫がいないか必死で探したが結局見つからず、最後の1匹が出終わった。がっかりしたような安心したような複雑な気分だった。するとその1匹がこちらへ寄ってきた。大分年老いたネコがかすれた声で僕に話しかけてきた。
「ぁぁ、こりゃぁ新入りと同じ匂いがするなぁ。」
「新入り?ひょっとして黒い?」
「ぉぉ、そうじゃ。黒い三毛猫じゃ。」
「え?三毛猫?」
「元気がよすぎて頑丈な箱に入れられてのぉ。わしも頑張ってみたんじゃが、ダメじゃった。」
「それで、今どこに?」
「先に行けと言われてな。まだあの中じゃ。」
最悪の事態だった。でも、こうなったのは僕のせいだ。言わば自業自得なんだ。
「ありがとうございます、おじいさん。じゃあ僕も頑張ってみます。」
「まさか、行くのか?」
「はい。死なせないって言いましたから。」
僕はそう言って燃えて半壊しているネコ屋敷へ突入した。
中は灼熱地獄だった。しかし、猫のことを考えると平気だった。
「くっそー。まだ死んでたまるかよ!」
正真正銘、猫の声だ。
「猫ー、猫ー、どこに居るんだよー!」
「ここだー!」
奥から声がする。熱くて息苦しいのをこらえて奥へ進む。そしてやっと逢えた。僕が探していた猫。小さくて鍵の沢山付いたゲージに入れられて窮屈そうにしていた。
「大丈夫か!?」
「!!!なんでお前なんだよ。」
「僕で悪かったね。」
そう言ってゲージごと持ち上げ、入り口に向かおうとしたそのとき、ガシャンガチャン!と音を立てて天井が崩れてきた。
「「あっぶねー・・・」」
僕猫は同時に言った。しかし、これによって退路が断たれた。
「猫、他に出入り口は?」
「知らねー。」
「そんなぁ・・・。」
僕は絶望的な気持ちになって辺りを見回すと、小さな窓が見えた。とりあえず足下に転がっていた金属の棒でその窓を叩き割った。
「とにかく、猫だけでも助ける。」
「お前!冗談じゃねぇ。」
「あぁ、冗談じゃないよ本気だよ。この窓じゃ僕は無理だ。でも猫ならいける。」
そう言ってゲージのかぎを開けて猫を屋敷の外へ出した。
「勝手してんなよ!おぃ、絶対生きて出てこいよ。ここで死ぬとか絶対無しだぞ!分かってんだろなっ!」
「分かったから!」
とは言ったけど、出口なんか見当たらない。
猫が外に出て数分後、ネコ屋敷は完全に崩壊した。僕はまだ外に出ていなかった。
「おぃ、おーーーいっっ!!!なんで勝手に死んでんだよ!なんなんたよ!!」
猫はなげいた。泣いてわめいた。しかしその後ろで声がした。
「勝手に殺さないでくれよ。」
僕は奇跡的に生還した。
「何化けて出てんだよ。」
「だから死んでないって。でもそのかわり、足やっちゃったかも。」
そう言って僕猫はニヤリと笑って家へ帰路に着いた。
「なぁ、なんであそこが分かった?」
「ニュースで見て、まさか巻き込まれて無いでしょ。と思いつつ行ったら巻き込まれてた。ってかなんであんな所に居たの?」
「あそこはお前と同業のアジトだよ。」
そうだ。以前の僕が唯一猫に抱いていた興味、今思い出した。
「ずっと訊こうと思ってたんだけど、猫ってたまに自分のこと商品とか売り物とか言うのはどうして?」
「えっ!それマジで訊いてる?」
「うん。すごくまじ。」
猫は少し黙った。それから口を開いた。
「それはオレが三毛猫だからだ。」
「・・・冗談?じゃないんだよね。」
「本当だよ。オレは黒と紺と濃いグレーの三毛猫だ。これ聞いてどう思った?」
「ものすごく珍しい。そんな雄の三毛猫なんて、ましてや黒系統のなんて聞いたことないよ。」
「珍しいもんは高くで売れる。まっ、そういうこった。」
「んっ?じゃあ猫はひょっとして僕が猫を使って金を稼ごうと思ってるって思ってたの?」
「そうじゃねぇのか?」
「そんなことしないよ!そんな倫理に反するようなこと!ペットショップですらあんまり好きじゃないのに。」
「そうなのか?」
「そうだよ。じゃあ自由になりたいって言ったのは、売られると思ったから?」
「おぅ。」
「そうだったのかー。納得。もっと早く訊けばよかった。」
「どういう事だよ?」
「僕は猫を売ったりしないよ。むしろ護りたい。」
「なっ、なんだよそれ。」
「だから、一緒に居て『会話』するだけでいいんだけど。」
「『会話』?!そうか。じゃあ、お前のこと信用していいんだな?」
「うん。もちろんだよ。」
「じゃあ今から『お前』じゃなくて『ご主人』な。」
僕は耳を疑った。あの人を敬うことなんて欠片も知らなそうな猫が僕を『ご主人』と呼ぶ。
「うん、好きなように。」
「ところで『ご主人』、どうやって潰れた屋敷から出たんだよ。」
『ご主人』と呼ぶクセに口調は変わってないのが気になったが答えた。
「崩れてくる直前に床下に蓋を見つけて、収納庫だと思って入ったら地下へ抜ける入り口だったんだよ。その時着地に失敗して足挫いた。」
「なんだよそれ、だっせぇ。」
「うるさいなぁ、まさかあんな深いと思わなかったんだよ。その後一番近い出口へ登ったら、屋敷のすぐ外にでた。」
「助かってよかったな。」
「ほんとだよ。」
僕猫は笑いながら帰宅。テーブルの上には、時間がたち過ぎて汁を吸い尽くしたカップ麺。それをみて再び僕猫は大笑いした。